何がどうなりますやら、楽しみな限りです。
《花求めん 修行の地へと 歩を進む》
今日の一枚:足柄パーキングにて、11時半過ぎ。
神社下の公園を歩いていた時のこと、ケキョ、ケキョ、ケキョと声がする。耳を澄ませたら、ホケキョと混じった。
今日の一枚:写真の藪か木々のどこかにいる。6時半頃。
今日のもう一枚:昨日、桜を見に行った。四本並んでいるのだが、そのうち二本に一輪ずつ咲いていた。
「どうもありがとうございました」と、頭を下げた。昨日のこと、畑で最後の作業。
残していたラブリー・キャロットを掘り上げ。ナナホシテントウがチョコチョコ歩き回る。二年もののナガネギを引き抜き、その香りの良さにニンマリ…。
ここで何をやったかなぁ…。約二年しか使わなかったが、たくさん収穫させてもらえた。沢山草も刈った、汗もかいた。昼寝もした。取り立ての野菜でサンドイッチ、野点のコーヒー。でも、中途半端ちゃ、中途半端だったかも。
さて、帰ろう、か。離れるとなると、やはり名残惜しい。振り返れば、畑が何か言いたげそうに見えた。
今日の一枚:庵主が使っていた区画。振り返った時、12時20分頃。
もう一枚:最後の収穫物、一部だけど。
先週の「継承する」ことについてのまとめの続きになる。それは、別な言い方をすれば、地球号の持続可能性と取り組みたい。『将来』へ小さな小さな手伝いを、出来たら、したいということ。将来とか未来とか、物事を考える際のキーワードであったりする。だから、そんな目でニュースを見たり読んだりしていると、衝撃ばかり。この“目”がおかしいのか、はたまた、実際何か始まってしまっているんだろうか。最近で頭から消えないものを…
「従来の苗木植え続ける傾向…無花粉スギに補助金」読売新聞 2015年02月15日 09時46分 『林野庁は2015年度から、国民の3割が悩んでいるとされる花粉症対策のための新しい補助金を出す。森林所有者が、花粉の多いスギの人工林を伐採し、花粉のない品種や花粉が少ない品種の苗木に植え替える場合、費用の一部を負担する』。この無花粉スギ、二通り作られ方がある。品種改良型と遺伝子組み換え型だ。なぜ助成金を出す? 開発や技術開発のコストを回収するために、将来の予測や影響を説明せず、普及しようとしていると見える。自分の山の「将来が不安になる」から、従来の苗木植え続ける傾向になるじゃないか。
二番目の話題だが、遺伝子組み換え型というのは、昨日のGMOと同じことにならなければいいと願ってしまう。「モンサント」を読み続けてると、これもまた衝撃ばかり。「もはや、カナダでは在来アブラナは消滅してしまった。GMOの生えてないところは、もはや見つからない」p368 それは花粉が飛散することでおきたこと。メキシコのトウモロコシの原種でも同じような花粉による遺伝子汚染があるとか…。花粉となると、その拡散距離は半端ないし、一旦交雑しはじめたら、到底人間の手で止めようがない。スギ花粉が何と交雑するか見当もつかないが、どんな結果になるだろう。スギの雄花を食べてきた鳥達はどうなるんだろう、本能的に食べない? それでまた山が荒れる?
まったく、ポジティブな連鎖が浮かばない…。
ここ数日で一気に日の出時刻が速まっている。一日2分くらいのペースと言ったら大げさかもしれない。そのせいか、散歩時の風景もどんどん変わっていく。歩き出す5時半頃にはすでに夜が明け始める。特に今朝は、川霧が昇るというおまけがあった。で、それがどうもJRの架線に着氷、貨物列車や通勤電車が通るたびにバチンと青白くスパークしていく。さらに、その川霧は畑、道、土手に低くたなびき、幻想感を強め…。まるで夢見心地の世界、だった。もしかしたら、昨日の焼酎が残って酔っぱらっていた? もし、夢や酔っていたのなら、醒めないでほしかった…。いやいや!! 「将来」「未来」のため、現実から目を離すまいぞ。
今日の一枚:遊水池の畔にたたずむ一本の木、綺麗な形がいい。大好きな木のうちの一つ。6時頃。
今年は花が遅いのだろうか。散歩コースの寒桜が開花せぬ。確か2009年の寒桜は2月5日には咲いていた。そう、あの進むべき道を教えてくれた桜だ。今日、買い出しに出たとき、よってみれば…。蕾の様子から、あと一日、二日暖かくもすれば、咲く雰囲気はあるのだが。時間の問題か…。それにしても、よく雨が降る。
雨に雪にと、ここ二日間ほど、家に閉じこもり、土曜日に買ったマリー=モニク・ロバン著「モンサント」を読みふける。まだ半分くらいしか読み終えない内に感想というのも変だが、“序章”のシリーズから次に移行しなければならないような気がして…。覚え書きをしておかなければ、あまりにも情報が多くて、訳が分からなくなる。
しかも、彼ら、認可を受ける際、詳細データを公表していない。あくまでもサマリーのようなものを提出しているだけ、提出の義務がないから(そうなるよう規制する側を仕向けていった)。認可する側はそれを鵜呑み…。このような背景を持って、PCB、ダイオキシン、牛成長ホルモン、ラウンドアップ、GMO農産物など、政府の「安全」のお墨付きを貰って、世に出す。農薬、食品等の「安全性」が、市民じゃなく『一企業の利益』の為に保障されていった。
日本で直面している問題の一つ、原子力発電所の「安全性」。稼働することが前提で、政府は発言をする。電力各社以外にも利益受益者は少なくない。この「安全性」は誰のために議論精査されているのだろう。よもやと思うが、洋の東西を問わずやることはさほど変わらない。何代かの後、『受益者』のためだったとならなければいいのだが…。
次の幹部の言い草には思わず本を投げつけてやりたくなった。「私たち(モンサント)は、私たち(モンサント)の製品を買ったすべての人々を所有しているのです」 p324。ここまで来ると「安全です」ということが、「金儲け出来るうちに大いに金儲けなさい」と受益者たちへの応援歌のように聞こえてくる。
今日の一枚:正午過ぎ、買い出しに行く途中、回り道して。ちなみに、ソメイヨシノは例年並み、東京で3月25日ころ、高知で3月21日ころという。
立春の次の二十四節季はなんだろうと暦を見ていたら、今日17日は東京で雪の特異日とある。1981年から7年間のデータでは何と70%の確率で降ったのだそうだ。確かに、今日も9時前から一、二時間ばかり舞った。ただ、データの年数がいかんせん古い。最近の結果はどうなんだろう。
気象庁のサイトにいくと過去データが好きなようにダウンロード出来る。で、2000年からのデータ(2月16日までは16年間、それ以降は15年間)を落とし、そこから、日ごとに雪が降ったと観測された(積雪が0センチでも、降ったら降ったとみなされた)回数を取り出してみた。すると、結果、17日はこの15、16年には観測されていない。最近のデータ上は特異日とは言えなかった。
雪が降ったとされた回数
確率にすれば、せいぜい19%位なもの。これらを特異日とするのかどうか。ただ、傾向として1月23日前後、2月8日前後、2月14日前後が多いとしか言えない(2月24日、3月13日は去年までだから、もしかしたら傾向のポイントが増えるかもしれない)。
あれ、ちょっとまった。70%ということは、7年間に5回降った? 80年代、ある特定の日に5回も雪が降っている? だのに、この15、16年間では、せいぜい多くて3回……。これはいったい、どういうこと?
今日の一枚:遊水池にて、6時5分前。よーく見ると、雲の切れ間があって、夜明け前の「神秘なる青」が見える。ちょっと無理、か……。
ノート:『フランスでの銃撃事件をめぐる風刺画について、宮崎駿が、16日放送されたラジオ番組で、「異質の文明に対して、崇拝しているものを風刺画の対象にするのは、僕は間違いだと思う。やめた方がいい」。風刺画は「まずもって自国の政治家に対してやるべきだ」と指摘された』。
さすがだ。でもねぇ、個人的に、限りなくペラペラな世界史の記憶をたどると、この至言を絶対理解出来ない・気付けない立場がある。自分の信じる価値が絶対だとし、そうではない他に押しつける、あるいはそうではない他を駆逐しよう・してきた暴挙からの悲劇を何度も見る思いなんだなぁ…。
こんなことが分からなかったりする。去年の夏に収穫したタカノツメを冷凍していた。さすがに冷凍したままで四国に持っていけないので、ちょっと加工してやろうとコトコトと輪切りに。結構な本数がある。先の長さに、どうやれば手間が減らせるかと、切り始めていきなり考え出した。ここに赤いのを一本置いた。その右から切り始めるのがいいか、左からヘタを落としてから始めるのがいいか。
どうでもいいじゃないかと、思われるかもしれない。しかし、永遠同じ動作を繰り返すとき、少しでも工夫をしたくなる。どこから始めてどう進めるか。どこに何を置くか、などなど意外なことで楽になる。この工夫をするということ、サラリーマン時代、日曜日小川町に通っていたときに身につけた。畝の長さも半端ないし、道具もすぐわきに置いてあるわけじゃない。作業に出かける前、必要な道具・資材、手順を想定し、いかに無駄な時間をかけないかということを考える。現場に出て、考えたこと研修生たちがやることを比べるて、なるほどと納得。なんども、足りなかったり、効率的でなかったりしたもんだ。
四国での生活が始まるのも、あと2週間後となった。先日仲間が送別会を開いてくれた。みんなでワイワイする機会の減るのがさびしいが、先に行って待っているという楽しみが増えた。その時、彼らから激励として土の酸性度と湿度を測る道具を頂いた。道具は、工夫だけでは出来ないところを補ってくれる。うれしい、感謝、感謝。
ちなみに、この日久しぶりに街に出たもんだから、本屋へ。「モンサント‐世界の農業を支配する遺伝子組み換え企業」マリー=モニク・ロバン著 を購入。タスマニアの両親から何度も同じような内容を聞いたことがあるし、映像で似たようなものを見たこともある。ただ、文章を通すことで、よりその恐ろしさをヒシヒシと感じている。これから親になるだろう、親である、あるいは食・農にかかわる人は必読、じゃないだろうか。
切りだし始めたとき、ヘタを落とし、ヘタに近いところから、輪切りにしていた。これがどうも、うまくない。最初にヘタを流しに捨てたり、先端の細いところになると薄くしたいのに指が太く押さえきれない。実に、フラストレーションを感じる、効率的でない。ん? そう、ヘタを押さえて細い方から始めればいい! そうすれば、切り終わるまで押さえるところがあって、ヘタぎりぎりまで切っていって、後は捨てるだけ。たった、これだけのことで作業がスムーズに運ぶ。気持ちも楽になり、あっという間に切り上げることができた。タッパーに入れ、醤油漬けにしたのでした。学ぶ場所は現場ってこと。事件は現場で起きてるんだ!ってセリフがあったね、むかし。
今日の一枚:太陽が顔を出した。6時半頃、JRの跨線橋を渡りまもなく。
≪東風を待つ 草木の姿 朱に染めて≫
ッピーと一鳴きして、遊水池の木道の柵に一羽のカワセミが現れた。まだ薄暗いが、ハッキリ、その翡翠色がとって見える。しかも、その鮮やかさときたら、いつも以上。心持、体も大きく見える。足を止め、しばらく見とれてしまった。また、ッピーと一鳴きし、朝の闇に消えて行った。綺麗な軌跡が脳裏に焼きつく。思わず口をついたのは「ありがとう」。
大学卒業まじかDT200というオフロードのバイクを乗り回していた。今朝の夢、それに乗って旅してた。
道を何キロも走って、街を走った。今日はここまでというところまで走った。ところが、宿も近くまで来ているはずなのに見当たらない。しかも、泥の川のような大水が出ていて二進も三進も行かなくなってしまった。そこへ、その大水の中、人が渡ってくる。マツコ・デラックスのようだし、マニアックな言い方をすれば、風の谷のナウシカに出てくる“森の人”のよう。良く歩けるものだと思うか思わないかのうちに、渡り終えた。するとどうどうだろう、目の前に現れたのは、とても綺麗な人。ボッティチェッリの「春」の女神のよう。「あなたの探してるところは、すぐそこよ」、と指さした。
木蓮の蕾がキラキラ、綺麗に朝陽に輝いてる。見上げれば、電線に雀の群れ。じゃれあうように電線を飛び渡る番い、寄り添ってる番い。そうか、そうだよな。あのカワセミも求婚の為に一張羅をまとっていたってこと、だ。春、春なんですね。
今日の一枚:神社の展望台から、6時半過ぎ。
「継承する」って、何? どういうこと、だろう。これから農を中心とした暮らしを目指すに際しての重要な課題の一つ。最近この中に微妙に3つのレベルがあるように思えてきた。そこで、はたして自分はどんな「継承」をしていきたいのだろうか、ノートしておこう。
まず、先人のやってきたことをそのままの形で受け継ぎ次世代に残すこと。これは、例えば、子孫を残すことと同じ意味だ。つまり、動物や植物、この地球号の乗員乗客たちは綿々と次世代へ命をつないでいく。全く選択の余地は入らない。ただ、ヒトだけ、がそこに「する・しない」の選択をすることがある(いい悪いの話じゃない、選べる、選べることがある、ということだけを言っている)。極端な言い方だが、「先人のやってきたこと」を「生きる」とでも言ったらいいかもしれない。「絶対的継承」なんて、大げさか。
「先人のやってきたこと」を「文化・伝統」とみなせば、(ひとまず)動物や植物にない面が出てくる。例えば、伝統農法という言葉がある。農業全書とか地方の地誌に記録がある。今世に出回っている野菜作りなどの本も同じ記録といえる。その書かれたことを実践することで、農業技術は「継承」はされる。つまり、「学ぶ」の語源であるところの「まねる」。この「まねる」ことによって、これまでのやり方が受け継げられてゆく。なるほど、確かにそうだ。…だが、「踏み込み温床」の温度の上げ方についてある方から伺った話を思い出すと、どうもこの「継承」にはもう一つ別な面がある。
そもそも、反省として立ち帰りたいのだが、「まねる」だけでいいのだろうか。つまり、書かれている通り、真似ををするだけで「継承」は達成されるんだろか…。廃れそうなこと、廃れてしまったことを記録からひも解き再現するという「継承」は達成されうるに違いない。ただ、庵主のつたない経験では、大概、本に書かれていることを試しても、どうも書いてあるようにいかない。何かを見落としてしまう。
「まねる」だけでは、「継承」として不十分、そのままの形で受け継ぎ次に残すということだけでは足りない。そこに、さらに、その時々の環境や状況の下で、これまで先人たちのやってきたことをいかに理解し採り入れ、どう発展させ次代に残こしていくかを考えなければならない。「進歩させる」ことも必要だ。さもなくば、昔に帰れないのと全く同じで、何か見落とし亜流へと流れ、その「継承」はどこかで行き詰まるか廃れていくに違いない。これを肝に銘じて置こうと思う。
今日の一枚:神秘的な青を見上げる。6時過ぎ、カワセミの川の土手の上で。
≪朝闇を シラサギ破り 梅香る≫
今日のもう一枚:11日、畑に出る。向かう途中、蕗の薹が顔出していた。ちなみにフクジュソウも。これらは何か農作業を始める指標になってやしないか…。
もう一枚:今度は今朝の様子、西に向かう飛行機、6時31分に日の出。写真は39分。