虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

「若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのか」という内田樹氏への質問 6

2011-10-23 19:39:44 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)

息子  「あの時代はノーベルが作った、あの時代にエジソンが生まれなかったら

今のような進歩はなかった……なんて、

ひとりの偉人の業績にばかりスポットライトが当たることがあるよね。

でも、ぼくはそうした何か大きな偉業がなされる背景には、その時代のひとりひとりが関わっている

ように感じるよ。

個人の才能の開花というものだけでなく、

そうしたすばらしいものを生み出すような市民に浸透する文化や

文学や、啓蒙をうながす思想なんかが、

背後にあったんだと思うんだ。

最近のマンガは面白くないって友だちとよくぼやくんだけど、

いろいろ調べてみると、漫画家が悪いというより、

商業主義が行き過ぎて、マンガ家が本当に自分の作りたいものが作れていない、

自由な表現活動が約束されていないって事情があるようだしね。

小説にしても、いい本を1冊読もうと思ったら数千冊のなかから選ぶような流れになる

物が溢れている今となると、本の相対価値が下がる一方でさ。

今後は、読む楽しみより書く楽しみにシフトしていくのかな

なんて思っちゃうよ」

 

母 「ほんとに、そうよね」

 

息子 「うん。ぼくがもっと読める本の冊数自体が少なかった時代は、

もう少し物語が楽しめたんじゃないかと思う理由はさ、

読む量が少なかったら、そこには自分自身で想像したり、

物語の先を自分の想像で作っていく楽しみがあったように感じるからなんだ。

 

今のように過剰に何でもある状態だと、

読み終わると同時に次はこれ、次はこれって

手をつけていない物にせかされるような心境でさ。

物語にじっくりなじめないよ」

 

母 「そうよね。話が逸れて悪いけど……。

お母さんは、ゆとり教育推進派でも何でもないんだけど、

でも、あまりにも安易に激しく『ゆとり』って言葉が攻撃されているせいで、

子どもには一方的に詰め込む以外の時間だって貴重なんだってことや、

子どもが自分自身の内発的な動機でイメージの世界で遊んだり、

自分の考えを追いかけたりする時間だって必要なんだってことが、

語ることさえタブーとなっているような雰囲気には不満を持っているのよ。

 

だって、土曜が休みになって、子どもが頭に何かを詰め込まれていない

時間ができたところで、その子の脳は休業中の機械みたいに

休止してるわけじゃないじゃない?

自分で見て、考えて、想像もしているわけよね。

もちろん、それがいいかどうかという白黒つけたいわけじゃないの。

ただ多くの人がいっせいに何かを攻撃しはじめたとたん、

攻撃しているものの中にある良い物まで根こそぎつぶしてしまうから、

気にかかるんだけど」

 

息子 「そうだよね。どんなものだって、一度支持されていたからには、

そこに良い物もあったはずだから。

それが何割なのか、どういう質のものなのかは別にして、反対派の意見だからって

全否定してしまうと、そこから得ていたはずのものを、みんなが失うことになるのは確かだ。

 

意見を言う時、攻撃的になる人は、

どうしても自己矛盾を抱えがちに見えるよ。

例えば、もっとお金使って遊んで経済を盛り上げていかなくちゃと言う一方で、

ゆとりは敵だ、子どもはもっと勉強しろ、下の者は上の指示に一切逆らわずに働け、

と言ってたりね。自分の生き方と言動がちぐはぐだったり。

 

教育の世界で攻撃的な意見が飛び交っている場合、

たいてい学校を社会訓練の場所と設定して、

子どもに高い理想を押し付けているけど、

そこからは大人自身も成長すべきもので、

教育を通していかに大人が自分を高めていくかという視点が見えてこないよ。

 

大人の側も、子どもの世界にある文化……お母さんだったら、それに触れるのは児童文学にあたるんだろうけど

……子どもに対する理解を深める方法をいろいろ

模索する必要があるんじゃないかな?

 

知的なものを正しく測定するのは難しいものだよ。

それは誰もがわかっているはずだけど。

成績を比べれば、子どもの全てがわかるような錯覚を捨てて、

大人同士が、子どもに対してどのような知的なものを伝承していくかってことや、

教育の質について語り合う必要があるんじゃないかな」

 

 

 

 

 

 

 

 


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