虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

工作やブロックが好きじゃない子も工作やブロックをしなきゃいけないの? 5

2013-02-01 08:37:07 | 工作 ワークショップ

工作やブロックが好きじゃない子も工作やブロックをしなきゃいけないの? 1

工作やブロックが好きじゃない子も工作やブロックをしなきゃいけないの? 2

工作やブロックが好きじゃない子も工作やブロックをしなきゃいけないの? 3

工作やブロックが好きじゃない子も工作やブロックをしなきゃいけないの? 4

の続きです。

 


話が「工作やブロックが好きじゃない子も工作やブロックをしなきゃいけないの?」という

話題からずいぶん脱線してしまったので、

話をもとに戻しますね。

 

「工作やブロックが好きじゃない子も工作やブロックをしなきゃいけないの?」という質問は、

遊びが子どもの世界に自然に存在するものではなくて、

ひとつひとつパッケージにして分けられた

「大人がよかれと選別して子どもに与える個別の商品」と

なりつつあることからも生じる質問のように感じています。

 

こういう疑問が生じてくるのには、

子どもを、「自分の理想に近づくように育成する対象」

「自分の願望を満たすために教育する対象」として、

まるで大人の私有物であり、大人が作り上げていく生きているおもちゃのような

一方的なまなざしを向けている社会のあり様が背景にあるのではないでしょうか。

 

そういう雰囲気や行き過ぎがあるから、それへの抵抗、疑問、戸惑い、迷いなどから

こうした疑問が生じてくるのでは?

と思われるのです。

 

 

子どもを、「自分の理想に近づくように育成する対象」「自分の願望を満たすために教育する対象」として、

大人の私有物のように扱う考え方は、

子どもをターゲットにした商売の宣伝文句できれいに加工されて、

ごく普通の子ども思いの親御さんの心にも浸透しています。

 

その前提の上で子どもの遊びまでも、

子どもを大人の望む理想の形に作り上げるための方法や道具として語られていますから。

 

また子どもの世界が、

より理想に近づく育て方を説く指南書によって

マニュアル化され、子どもの遊びまで天才児作成アイテムのひとつとして、

大人の頭でイメージを固められてしまっています。

 

すると当然、人生を選び作り上げていくのは子ども自身で、

「親は無償の愛情を注ぎながら、そのサポートをするに過ぎない」とわかっている

子育ての本質的な部分からずれていない人にしたら、

「親の目標のため子育て」という線上で

良いものとして注目されて加工されているものひとつひとつに

ちょっと敏感に反応してしまのかもしれません。

 

「工作やブロックが好きじゃない子も工作やブロックをしなきゃいけないの?」という疑問も

そのひとつかな、と思っています。

 

もちろん、わたしにしても、「子どもに与えるこういう体験が、子どものこういう良い資質を引き出す」という話題や、

「こういう遊びがこういう能力の発達を助ける」という話題は何度も

このブログで紹介してきています。

 

でも、もしそれは、「植物の種には、太陽の光と水が必要ですよ。

そうすると、ほら、種だったひまわりは元気に芽を出し、今は大きな花を咲かせていますよ」と

伝えたいことをそのまんま言葉にしているだけで、

自分の持っている種(わが子)で、ひまわりの花を咲かせよう(自分の理想の子を作り上げよう)と模索している

親御さんたちに、

「ひまわりにしたかったら、光と水がなきゃ無理です」と説明しているわけではないのです。

その方の持っているのは、あさがおの種かもしれないし、すみれの種かもしれない、珍しい大きな花を咲かせる

何かかもしれませんから。

 

これこれは必要。これこれは大事。

でも、何を選び、どのように成長していくのかは、

子ども本人の仕事。失敗するのも、挫折するのも、成長するための滋養の数々。

子どもの生きる力、反抗する力、問題を乗り越える力を育んで、少しずつ手を離していく……。

 

そうした子育ての流儀のようなものを、子どもと接する中で繰り返しながら、

そうした日々を言葉にしてブログで伝えているだけなのです。

 

それでもブログを読む方の読み方によって、一部分だけが

誤解されたままひとり歩きしていくこともあります。

今回とは異なる切り口からですが、次のような記事を書いたこともあります。

 

ブログの記事が誤解を与えている?

ブログの記事が誤解を与えている? 2

 

子どもの人生の舵取りを子どもが幼いうちに大人が奪い取ってしまおうとする

情報が飛び交い、過熱しているために、

一方では、そうした子ども主体性を無視した文脈で語られていく言葉に

呑みこまれまい、

何か違う……何かおかしい……第一、目の前の子どもの現実にそぐわない……という

疑問を抱いて、どのように自分の態勢を立て直そうか、

考え込んでいる方々がいらっしゃるのではないでしょうか。

 

わたしとしては、「工作」「ブロック」といった遊びの区分自体が大人の目線によるもののように

感じています。

 

子どもの遊びはどれも地続きです。

 

ままごとをしている子が同時に草花を取ってきてお料理を始めて

工作に近い遊び方をすることもあるし、

草花を絞ってジュースを作るうち、色の混ざり方や素材への関心が高まって

理科実験の様相を帯びることもありますよね。

 

最近の子の遊びは大人の管理が行き届きすぎて

そうした自由な展開があまりないのかもしれませんが……。

 

ブロック遊びにしても、大人が作品の出来に期待を寄せなければ、

お店やさん遊びのアイスクリームやケーキになるし、

お人形遊びのお家にもなります。キャンプごっこをするなら焚火にくべる薪になり、

水筒になり、望遠鏡にもなります。

ゲームをする時には、すごろくの盤になり、コマにもなります。

 

そんな風に子どもの欲するものなら何にでも変幻自在に形を変えるブロックについて、

子どもの好き嫌いという線上で語ること自体にちょっとひっかかりもしています。

 

その言葉には、「ブロックで遊ぶなら、パズルのピースを増やしていくように

より複雑で難しそうな作品を作っていかなくてはならない」という焦燥感が含まれているようにも

思われるからです。

 

わたしにとって、子どもにどんな遊びの体験を用意するのか、

それがブロックか積み木かお人形か外遊びかといった違いは、

子どもといっしょに「目の前の素材の長所や利点を引き出すと、

どういう良さがあったのか、どういう面白さや他との違いがあったのか」結果を身体で味わうくらいのことしかなくて、

そこに好き嫌いを評価しようという気持ちはそれほどありません。

 

どんなにつまらないように見えるものにも

その良さがあって、

魅力があります。

たとえば落ちている石ころでも、ゲームのコマにもなれば、箱庭の材料にもなるし、宝探しの気持ちを満足させてくれるし、

地学への興味につながるかもしれません。「石ころ」なんて、「工作」や「ブロック」のように

遊びの名前として登場しないかもしれないけど、

そこから自分を楽しませてくれる魅力を引き出そうとする「遊び」の精神さえあれば、

どんな遊びにも変えられないすばらしいものになるのです。

 

結局、「何」をして遊ぶかではなく、

「どのようにして」遊ぶかが、遊びの要なんですよね。

 

ブロックの場合は、ひとつできるようになった時に、何個も何個も同じものを作りたいという思いを満足させてくれるし、

壊れにくいので持ち運んで配達遊びなどもできること、

お友だちが欲しがった時、新たに作ればいいという安心感もあるし、

作り方を習うことも教えることもできるし、自分で課題を作りだすこともできる利点があります。

それぞれの子が自分の能力や個性を投影しながら遊んでも、

それを受容するだけの自由度があります。達成感を得やすいです。

 

そんな風におもちゃとの関わりは、対象の魅力を見出し、引きだす力を

養う時間とも言えます。

 

そこで、遊びが何かってことにばかり大人が気を取られていると、

遊びの世界にしても

人から人に伝授していくものがあることが忘れられてしまう気もしています。

わたしが教室で工作やブロック遊びを大事にしているのは、そこにあるんですけどね。

 

というのも、「子どもには何が大事か」「子どもの遊びは何がいいか」論争に巻き込まれると、

最終的に、子ども同士、自由に外遊びしているのが一番いいんじゃないかな、

と思ってしまいがちなのです。

 

でも「遊びが何か」じゃなくて、

「遊びの対象」にしっかりコミットメントして、自分の想像力や思考力を活かしていったり、

そこから対象の良さを引き出していったりする体験を積んだ後に、

何の遊びをしても、その遊びがすならしいものになる、子どもにとって価値あるものになる、ということを

忘れちゃいけないと思っているのです。

話題を最初に戻しますが、

児童館のように外で遊ぶ空間もあり、さまざまなおもちゃもあり、異年齢の子どもたちが集う場で、

イライラしているのか、テンションが上がってふざけているのか、

ただただ物を壊す遊びしかしない幼児や小学生が大多数を占めているという

児童館の館長先生の嘆きを無視してはいけないと感じています。

 

 

 


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