虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

親のコンプレックスと子どもの困った行動 続き

2017-01-11 13:53:21 | 機能不全家族・アダルトチルドレン
私の母は大家族の末っ子として生まれました。
 
もうこの子で終わりにしたい、もう子どもはいらない…そうした願いのもとで、はじめは、「すえこ」とか「しゅうこ」なんて名前が考えられていたようです。
でも、それはいくらなんでもかわいそう…ということで、静かでいておくれ、世話をかけないでおくれ…という母(祖母)の願望にちなんだ名前がつけられたそうです。

母は家族の中で一番幼い子として、兄弟姉妹にも母親からも特別に愛され大切にされて育ったようです。

母の両親、祖父と祖母は、きちんとお互いの顔も見ないまま、会話をかわすこともなく、お見合い結婚をしました。
祖父は芸能に秀でてハンサムで女性にもてた人らしく、結婚してからも、女性との付き合いも多い自由で気ままな暮らしをしていたようです。
祖母はとても劣等感が強い性質で、地味でまじめで働き者で、結婚してからは次々生まれる子どもと家事と畑仕事に明け暮れていました。
そんな対照的な両親のもとで、母はいつも苦労の多い母(祖母)のことを気遣い、決してワガママを言わず、心労をかけたり手を煩わせたりすることがないように、常に優しく気がつき我慢強い良い子としての子ども時代、少女時代を送ったようです。

母が子ども時代の話をする時、きまって繰り返されるのは次のような話でした。

私のすぐ上の姉は、病気をして熱を出すたびに、映画に行きたい、おいしいものが食べたいとねだって、聞き入れてもらっていた。
私は、病気になったときも、母(祖母)がかわいそうで、そんなことはとても言えなかった…。

母(祖母)はよく子ども達に「これを手伝ってくれたら、○○をあげるよ。」と言った。それで、一生懸命手伝ったけれど、一度も何もくれたことはなかった。
 
でも、母(祖母)は父(祖父)に苦労ばかりかけられて、自分のことを気遣うこともできずに、子育てに追われてばかりで、本当にかわいそうな人だった。
 
だから、一度も恨んだことはなかったし「○○はいつくれるの?」とたずねることもなかったのよ。

父(祖父)は子役のようにかわいらしい姪っ子を連れ歩くことが好きで、本当の子である私を散歩に連れて行くことは、ほとんどなかった。
父(祖父)が一度だけ優しさを見せたのは、私が大病して死にかけた時くらいだった。

母が学校の参観日に来ると「おばあちゃん?」と友だちにたずねられてたまらなくはずかしかった。しかし母が気の毒で気にしない振りをしていた。

というものです。
 
 
母は器用で、きれいなものが好きな人です。
子どもの頃、新聞の日曜版(?)だったかに、画家や切り絵作家の作品が、印刷されているのを毎週溜めていて、ある時、それを部屋のふすま一面に丁寧に貼ってました。ちょっと天然なのか…?
とても美しかったです。ベニヤ板でお人形用の立派な家を作ってくれもしました。

また、私と妹の服を、手作りするのが趣味でした。
何人か母のお気に入りのデザイナーがいて、そのなかなか洗練されたデザインの型紙で手作りするので、今のファッションにも通じるようなかわいらしさがありました。
 
私の場合ずんぐりむっくりな体型で、あまり似合うとは言い難かったのですが、父似で目が大きくて、きゃしゃな体型の妹は、「お人形さんみたい!」とよく褒められていました。
母は近所の人や、道で出会う人から、そうして褒められ認められることが、無上の喜びだったようです。
しかし、妹が堂々と自分をかわいい!と言ったり、服や持ち物を自慢するそぶりをすると、相手が幼稚園児でも容赦なく上から押さえつける時がよくありました。
私にすると、母も妹もふたりとも、だれかれなしに服を自慢したいのだなぁ…と感じていました。

私はしょっちゅう仮縫いで針がついた服を着せられるし、木にのぼったり穴をくぐったりするとき不便なので、おしゃれをするのがきらいでした。
それに、近所の人が何となく怖かったので、突然褒められると居心地が悪くてたまらなかったのです。
それで、母や妹の気持ちはさっぱりわからないし、何だか似ているな…と思っていたのです。

父は乱暴でギャンブル中毒の人(もとは子煩悩なので怒っていないときは面白くて優しいところがありました。)でしたが、仕事でほとんど家にいないので、家の中は母の夢で彩られていました。
手作りのお菓子やパンや飲み物、手芸や絵本やクラシック音楽や楽しいゲーム…イベントいっぱいのお誕生日会…などなどです。
しかし妹は目ざといタイプで、母の作るものより、友だちのように買った服がいい!買ったお菓子がいい!外食に行きたい!と何時間もごねて泣き続けることが多かったのです。

すると、母の方も意固地になって、ちょっと機嫌を取ったり、気をそらすために何か提案したりもしないで、どこまでも戦闘態勢で対応していました。
そして妹の性格や好みをことごとく批判していました。

私は、母が言うほど妹がひどい子だとは思えませんでした。
 
というのも、妹は活発で明るくてさっぱりしているので、近所中の子に好かれていたのです。
 
子どもが多い地域だったので、私も友だちに不自由することはなかったけれど、みなに好かれているとはいい難かったのです。
それで、妹は子どもの私の目からすると、とても魅力的な子に映っていました。

しかし母は、アンデルセン童話のアニメで、「ふたりのエルダ(エルガ?エルザ?)」という悪い魔法で日中、悪魔のような性格に変えられていて、夜になるともとの姿にもどる盗賊の娘の物語を見ながら、
 
「○○(妹の名前)のようだ…。寝顔だけはこんなにかわいいのに…。」とつぶやいていました。
 
母の話には、子役のようにかわいらしくて、いつも父(祖父)に散歩に連れて行ってもらっている姪の話がよくでてきました。
この姪は母よりいくつか年下で、母と同じように都会に出てきて結婚していました。
先に都会暮らしを始めていた母は、その姪を大事にして親しく付き合っていました。
その様子からは、母がこの姪に強い嫉妬心やコンプレックスを抱いているようには見えませんでした。

しかし母の妹に対する子育てには、この美しい姪に対するさまざまなもやもやする思いが含まれているのは確かでした。
母は妹が周囲から容姿のことで褒められたり、ちやほやされたりするのをすなおに喜ぶことはあまりありませんでした。
「でも、わがままで…」と付け加えたり、横にいる私を引き合いに出して、「この子は心がきれいで、頭が良いんです」と言ってみたりで…
その複雑な思いがうかがえました。

おそらく母は、姪に嫉妬している思いを認めたくなかったのではないでしょうか?
 
というのも、姪と祖父の散歩の話は、何かの折には必ずといって良いほど、母の口にのぼったのです。
 
しかし、母はだからと祖父や姪を悪く言うことは一度もありませんでした。
 
母の言葉にならない思いは、無意識の奥にしまいこまれて、自分でも気づかないうちに現実を少しずつゆがめていたのではないか…?と私には思われました。

第一、きちんと言葉にして考えることができれば、姪を連れていつも散歩していた父(祖父)は、愛情からではなく、単なる見栄えのする持ち物やペットのようにその子を扱っていた事実に気づくでしょう。
 
そして、そうした子ども時代の悲しい気持ちに決別できれば、妹に対する自分でも理解できないようなイライラした思いに悩んだりかと思えば特別扱いして甘えを助長させたりしなかったのではないか…?と思えるのです。
 

親のコンプレックスと子どもの困った行動 おわりです に続きます。