虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

本当に その教育法でうまくいくの? 勉強につまずくときの対応と予防 3

2011-05-19 15:04:05 | 教育論 読者の方からのQ&A
子どもの過ごす「時間」を「お金」で買うという感覚は、
習い事や子ども向けのサービスがあたり前となった現代では、
たいていの方が身に覚えのあるものだと思います。

どうせお金を出して時間を買うのなら、
お金に見合うような

目で確かめられるような成果を得たいし、
子どもの喜ぶ姿を見たいし、
将来に役立たせたいし、
家ではできないような濃密な価値のある体験をしてほしいし、
親の自分が不快な気持ちは味わいたくない、

と考えますよね。

でも、注意が必要なのは、お金で買う「子どもの体験」が、

親の財布のひもをゆるめるほど「親の満足度」が高ければ高いほど、

「子どもの成長に必要な何か」を奪っている
場合もあることなのです。

お金を払っている時間に、
もし子どもが泣いてばかりだと、
親は気が気じゃありませんよね。
チャリンチャリン~とお金を溝に捨てているような気になるかもしれません。

お友だちとケンカばかりしていても、
性質の異なるお友だちに邪魔ばかりされていても、
他の子のように積極的に参加せずに、
ぼんやり見ている場合も、同様の気持ちになるでしょう。


お金で購入した時間には、

親は「自分が価値があると思うもの」だけで埋めたいし、

親は「子どもに自分が取ってほしいと思う態度」だけ取ってもらいたいし、

親が「子どもに自分が抱いてもらいたい」と思う感情だけを抱いてもらいたい

と、思ってしまいがちなのです。

子どものためにお金を払って買う時間で、大人が満足するものは、
たいてい、
子どもが次のステージに進めるように
「最適な状態」に調理された体験です。


子どもの仕事は、魅力的にデコレーションされ、
食べやすく加工された料理を
「おいしい、おいしい」と口に運ぶだけです。

親は、効率的に栄養が取れているかチェックして、
体重計の目盛りを確認して、
その体験が、お金や親が子どもを連れて行くために使った時間や労働に見合っているか、考えをめぐらせます。

もし、もう少し、良い時間が買えるなら、
どちらを選んだ方が得か、検討するためです。

こうした時間は、子どもがより楽に、うれしそうでありながら、体重計の目盛りだけがアップするほど価値があります。

もちろん、上の話は例え話であって、
料理というのは、英語だったり、水泳だったり、プリントだったり、ピアノだったりします。

私は習い事の全てを皮肉っぽい目で眺めたり、批判する気はないのです。

でも、そうした「最適な状態に調理された体験」を消費主体の立場で
たくさん経験している子には、
共通する困った癖があることを危惧してはいます。


困った癖というのは、
「素のままの状態で、何かを体験することができない」ということなのです。

自分の体験していることから、
さまざまなグラディエーションで、
自分を成長させてくれる要素を引き出すことができなくなっている、
といったらよいのか……

子どもの「時間」に対する感性が変質しているのです。

とにかく最適に調理されて、「次にこれをすれば、こういうものが得られる」
という短期間の見通しが提示されているもの以外から、
いっさい学べないのです。

たとえば、子どもが、自分にとったら、かなり難しいと思われるものにチャレンジしたとします。
結果は「できなかった」で終わっても、
さまざまなグラディエーションで、
自分を成長させてくれる要素を引き出すことができる子は、

「今回は難しかったけど、次はできるようになりたい」と思ったり、

「どうやったらできるんだろう?」と何日も考えていたり、

「自分には難しいものもあるんだな」と自分の能力を把握したり、

自分ができることをできない友だちに対して理解を示したり、

「これからは年上の人の話をきちんと聞こう」と反省したり、

「自分には、知らないことやできないことが、まだまだたくさんある」と世界の広さを思い知ったり、

自分の立ち位置を確認して、自分のすべきことを俯瞰的に眺めたりと、

それは多種多様の感情や思いを体験から引き出すでしょう。



けれども、「素のままの状態で、何かを体験することができない」子は、
それができて評価されるか、できないかだけ認識して、
チャレンジしようともしないか、
チャレンジさせた相手が、自分にとって最適な形に調理していないことで
文句を言います。

確かに、お金を出して通信教材を取る場合も、習い事をする場合も、
やってできない場合、
クレームをつけてもいいのです。
自分は、もっと楽をしながら効率的に何か得られる別のものを
探しにいけばいいのですから。


素のままの素材に自分を投入して、
そこから自分の得られる何かを……
それが何であるかもわからない状態で、つかみとって返ってくるなんて、
思いもよらないのです。


素のままの素材に自分をどっぷりと投入できるなら、
道草を食っている時間も、
もう知っている内容の授業を受けている時間も、友だちとふざけているときも、マンガを読んでいるときも、ぼんやり考えごとをしているときも、
自分を成長させる何かをそこから引き出しているものです。
自分自身が何かしら変化し進歩しているのです。

そうした進歩は、知的ものだけではないでしょう。
精神的なタフさや豊かさといったものかもしれません。

私は「今や世界でもっとも勉強を嫌悪し、勉強しない子どもへと転落しています。」と表現されている日本の子どもの姿は、
知的な成長の欠如の問題ではなく、精神的な成長の停滞と大きく関わっているように感じています。
学習時間を増やすだけことだけが、この問題の解法ではないと思っているのです。


『アレクサンダー・テクニック』 小野ひとみ  春秋社
という心身のコントロール方法を扱った著書に次のような一文がありました。

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赤ちゃんがハイハイをして、やがてつかまり立ちをして、一人で歩けるようになって……という過程を見ていると、
自分の感覚だけをたよりに、試してみて、
自分の能力(たとえば「つかまれば立てる」)を発見している。
そうして発見したことが嬉しくて仕方がない。褒められるから
何かやっているわけではないのね。
自分の力を自分で発見して、そこから生まれる確信と喜びが
次の行動を呼んでいる。

自発的な学習とか成長というのはそういうものだと思うんです。

ところが大人になると、人から言われたことをなぞることが
学習だと思ってしまう。

自分の感覚を使って、自分で自分の能力を発見し、評価して次へ進む、ということがいつの間にかできなくなってしまう。
自分ではなく他人の評価で動かされるようになってしまうのね。

     (『アレクサンダー・テクニック』 小野ひとみ  春秋社)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「人から言われたことをなぞることが
学習だと思ってしまう。」のは、大人だけではありません。
幼い頃から、そうした教育方法に染まっている子も、
自発的にどんな体験からも学び取ろうとする子どもの柔軟さを失いがちです。

また、親が消費主体として、
「あっちの方が得か損か」という視点で、
子どもの体験を選別していると、
子どもも消費主体としての見方を身に付けます。

すると、浅い表面的な進歩だけを続けながら、
本気を出して、自分をぶつけてみることを恐れるようになります。

「これ」と「あれ」を得て次のステージに進もうなどという
まるでバーチャル世界のゲーム内を移動するように
現実を生きるなら、

「これ」と「あれ」が与えられていない場所では、

テレビを見るか、受動的に携帯ゲームに興じるかして
時間つぶさないことには退屈に耐えられないでしょう。

「今、ここにある時間にどっぷりとつかる。
いつのまにか自動的にはじまる学びの世界に
自分を投じる。」
本来、それができるのが、「子ども」という存在です。

「子ども」が「子ども」でい続けることができるように、
大人は何をすればよいのでしょうか。

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テッッシュ箱で ショッピングカート作り  ベビーカー作り

2011-05-19 12:41:56 | 工作 ワークショップ
前回の続きは今日中に記事にしますね。

2歳2ヶ月の★くん、2歳11ヶ月の○ちゃん、4歳の☆くんのレッスンです。

お店屋さんごっこで遊びました。
みんなショッピングカートとレジがとても気に入っていた様子。
そこで、ティッシュ箱を使って
ショッピングカートを作ることにしました。

5分で完成です。
カートの子どもを乗せる部分に乗せた黒猫ちゃんを見て、
○ちゃんが、「ベルトがないよ」と言いました。
そこで、ビニールテープでベルトを作りました。


2、3歳の間は、子どもが興味を持って観察するものを作って、
子どもの意見を取り入れて大人が作ってあげる工作も大事だと思います。

同時に、自由に切らせたり、折らせたり、
完成度を気にせず、本人が素材と自由に触れ合う工作も必要です。
作り方のコツは、
好みのサイズに切るときに一部分を残して、貼りあわせる際の
補強になるようにすることです。


★くんのカートには、ライトがつきました。


☆くんは、恐竜運搬車を作りました。

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