めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

見たくもない、無能集団の茶番劇

2017-06-06 13:52:58 | 日本人

ああ情けない、我々の代表である方々の見苦しい茶番劇と保身と言い訳。
これまで、何十年となくこの手の馬鹿げたやり取りを見てきましたが、
如何に彼らが国民の方に向いているのではなく、常に、自分達を操る
背後の組織にお伺いを立て、我欲のみが先行する幼稚で馬鹿げた発言。
自由主義社会から生まれた、国民を代表する方々の討論とは思えません。

こんな姿を、私達大人だけでなく、子供達も見ている事が解っていない
のが非常に残念であると共に、日本はいまだ、先進国とは言えない、
金と欲望が我が物顔でまかり通る発展途上国と言えるのです。
彼らが、身にならない議論に時間と国民の血税を使っている間にも
日本中で多くの国民が、日々の暮らしに苦しんでいるのです。
この混沌とした、明日の見えない日本社会を改善するために、
国民の代表として立候補して当選したはずです。
今更ながらですが、一体どの様な思いで国の代表となったのか、
大切な時間とお金を使って議論する器では有りません。

戦後、国を立て直すために、国民一人一人が頑張り、高度成長を
達成すると共に、世界でも有数の経済大国と成りました。
個人所得も増え、生活は便利に豊かと成りました。
この事を、私たち国民は、日本人の誇りとして胸を張ったものです。

しかしながら、実際は、高度成長も、バブルも、全ては、国民の為

と言う物ではなく、経済発展に依る膨大なる利益を目論む方々の
計算の下にあり、その支配下として政治家たちが思うように操られ
国民は、経済的に豊かになった事で幸せになったと思いきや、
実際は、多くの利益を彼らに与える為の僕に過ぎなかったのです。

日本の美しい自然は破壊され、人々は、経済力こそが幸せのカギで

有るかのように洗脳され、挙句の果ては、その経済力すら失って
現代の苦悩の時代と成ってしまったのです。
しかし、私たち国民の生産性が落ちれば、そこから吸い上げる利益も
大幅に下がり、挙句の果ては、彼らの経済収益が落ちる事を案じ
操り人形たちに、経済成長こそ日本の復活と言う謳い文句を持たせたのです。

所が、経済的にも、他人を顧みない競争にも疲れた日本人は、

今や疲れ果て、未来を夢見る事すらできなくなっているのです。
経済的に苦しくなっても、人間的な繋がりを育ててこなかった国民は
多くの人々が孤立をし、戦後の様な、人と人の力を合わせて戦うと言う
マンパワーが全く育ちません。あらゆる組織、街、企業、学校、家庭に
至るまで、この局面をお互いに協力し合って乗り越えると言う力が無く
ただ、政府や大手企業の言い成りにしかなれないのです。

例え経済的に豊かと成っても、それを直ぐに搾取される仕組みの社会は

いつまで経っても人々に幸せを感じさせることは出来ません。
今や日本社会は、未来を夢見られる一部の人達と、未来に絶望する
多くの庶民に分けられてしまっているのです。

未来を夢見て国を担うべき子供たちが、平等にスタートラインに立てず、

子供の時点で、未来が決められているのが今の日本社会です。
不況の時代と言うのは、大多数の庶民の話であって、一部の人達にとっては
バラ色の社会であると言えます。

その彼らに操られるの私達が選んだ代表たちであり、私達の思いとは

全く逆の政治を行っている事から、つまらない茶番が生れているのです。
経済力を人間の価値とした社会をつくって来た結果は、例え、経済的豊かな
先進国とは言え、そこに生きる人々は、経済力で価値が決められ、人としての
心豊かな価値は必要とされず、一部の裸の王様たちが牛耳っているに過ぎず
いつまで経っても国民はこの苦界から逃れられないのです。

どんなに我儘で、我欲に満ちていようと、経済力が有れば勝ち組に居られる

本当につまらない社会と成っているのです。
どんなに夢を持とうと、経済力が無ければ夢を断念しなければならない
若者たちが多くいる事を、国政に関わる方々は恥じなければなりません。

しかし、彼らの多くも選ばれた人たちから生まれたとなると、これもまた

茶番の1つに過ぎないのかも知れませんが。
かつて日本人は、どんなに生活がすさんでも、更には、どんなに裕福で有ろうと
人としての在り方を常に自らに問う民族でした。
人の身なりや言葉だけで、その人の価値を決めたりせず、お互いの本心で
やり取りできることを美徳と考える国民でした。

所が、西洋から入って来た消費経済は、人々からお互いを思いやる気持ちも

敬う気持ちも消してしまい、経済力こそ人の価値であるかのような社会を
作り続けて来ました。
明治から何度も行った戦争すら、経済を優遇する為に行われたものであり、
その度に傷つき苦しい思いをしたのは国民でした。
例え戦争が終わっても、中身は変わらず、やはり、一部の人達を豊かにする
国民を置き去りにした政策がとられ続けた事が、日本人から幸せな生活を奪う
最大の原因となったのです。

しかし、この事に、お坊ちゃんやお嬢ちゃんは気が付きません。

何しろ、豊かな消費経済で育った方があまりにも多いからです。
子供たちに、努力すれば思いは達成される、夢は叶えられると言った言葉は
日本社会に於いては死語であり、努力しても決して這い上がれない人たちと
遊んでいても人の上に立てる人々に分けられてしまったのです。

もちろん、経済的に豊かであっても、ある程度は努力と才能が無いと、

社会ではやっていけないのですが、努力を人一倍し才能も有るのに、
経済的に豊かでない事で先への夢を断たれる日本社会は、先進国とは言えず、
国民の一部しか幸せになれないと言う国は、所謂独裁者の国と変わりません。

高齢者に対する福祉政策も子供たちに対する優遇措置も、国の経済を潤す為の

布石であって、将来的に安定した収入を得るための措置に過ぎません。
より多くの人が働ける経済政策、経済支援も、一人でも多くの国民からの
税収を得るための手段と言えます。

更には、消費を促す、様々なメディアを通じたコマーシャルの優遇も

国民の得た所得を確実に企業が吸い上げ、より発展する為の方法と言えます。
国民は、必至に働き、働いた分放出する事で、より多くの収益が集まると言う
昔からの消費経済社会の構図が有る限り、多くの国民は、奴隷の様に
一部の富裕層の為に働き続けなければならないのです。

しかし、働く人が少なくなれば、例え大手企業と言えど存続できません。

国民が多く自活できなくなっている現代社会は、庶民だけでなく、これまで
多くの収益を得て来た企業にとっても由々しき問題なのです。
とは言え、この日本を支える多くの国民に対するケアが、余りにも低く
常に自分達の収益の事ばかり考えているのが大きな問題なのです。

これは単なる所得差ではなく、経済優先の世界が作り上げた差別の問題です。

経済的に豊かである事と、人間的な価値の高さが同じとする錯覚が
多くの富裕層や政治家たちにあり、同じ日本人でありながら、同じ人間として
考えられず、常に自分達の下に有る階層として考えている事が問題です。
自由平等の世界というのは、日本に於いてはいまだ達成されず、目に見えない
あらゆる社会に於いて、この人間的差別が、日本社会が豊かになれない
影の理由でもあるのです。

社会に於いて、様々な差別行為が当たり前に存在していて、同じ仕事を

していても、お互いにいがみ合っている人々は何処にでも存在しています。
しかも、彼らが同じ仕事をする方法は一つしかなく、それは経済的メリット
でしかないのです。
会社に於いても学校においても、日本人は、お互いの事を思いやる以前に
自分の利益を考える民族に成っているのです。

この事は、子供の時の、人として成長する為の教育がいかに成されていないか、

人の中で生きて行く為の教えが無く、全て、数字や点数によって判断される
人間の価値を教えられる事に依って、社会はますます、打算に満ちた
殺伐としたものと成っているのです。

その最たるものが、国民の為に話し合う場が、あの茶番劇なのです。

しかし、彼らは、しょせん表に見せる仮の姿であり、その背後で操る
より打算に満ちた人々は、決して姿を見せることなく、陰でほくそえんで
国民が苦しむ姿など見向きもしないのです。

こんな、子供だましな討論で大切な時間を潰している間も、お隣の国では

着々と殺人兵器が量産されています。
更には、世界を牛耳る先進国を妬む刺客がテロの場を物色しています。
日本は、大丈夫と言う幻想は、もはや誰も抱く事は出来ないのです。
本気で日本社会を良くしようと思っているのか、日本国民を戦争から守ろうと
考えているのか、全く意思表示が出来ない無能の集団が、日本を動かしている
その事が、日本人にとって一番の不幸であることは言うまでも有りません。