2012.8.5 can tutku
「世界一小さな演劇祭」と銘打って、四週連続のリーディング公演。
なのだが、先週の「トランスパンダ」に引き続き、「リーディング」と聞いてふつうに思い浮かべるようなものでは、ない。
「もともと海外では、リーディングは戯曲のお披露目のためにすることが多く、そのリーディングでスポンサーを探して本公演に臨むんです」と、昔、リーディング公演のアフタートークでどっかの大学の先生が言っていた。
日本でひと昔前に流行ったリーディングといえば、
・必ず手にテキストを持ち、
・普通の芝居より動きが少ない(ことが多い)
というのが標準形。
ここに来て独自の進化を始めたのだろうか。
「トイガーデン」の公演は、30分ほどの短編三本を、開演から終演までエンドレスで繰り返す(幕間に休憩有り)。キャストはふたり。
会場のカフェはふつうに営業しているので、飲食しながら見ることになる。途中入退場自由、携帯電話使用自由、撮影自由、もちろん立ち歩きも。カフェでお茶飲んでたらたまたまなにか始まった、という風景にも見える(実際には飲食目的の人はいなかったようですが)。
『ハムレット』~第四独白より
第四独白というのは「To be or not to be; that is the question.(生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ、という訳でお馴染み)」で始まる、有名なハムレットの独白。
始まる前にその部分の英文が載ったプリントが配られる。真面目な学生の授業ノートのように、たくさんの書き込み。
机に向かっている彼は、第四独白の和訳を考えている。この単語の意味は…で、関係代名詞が…、みたいな独り言。
カウンターに向かっている彼は無言でPCを見ている。そこには「To be or not to be; that is the question.」という科白を繰り返す彼自身の姿が映っている(背景から見て撮影場所は同じ店内)。直立不動の姿勢ではじまり、だんだんエキサイトしてきて走り回ったり服を脱ぎ捨てたり、といった映像が繰り返しエンドレスで流れている。
和訳してる方の彼もじっとしてはいない。
座ったり、
寝たり、
歩きまわったり、床に頭をゴンゴン打ちつけたり。
服も乱れてきて、「Fly」という単語でははだけたシャツを翼のようにして床にダイブしたり。
「be動詞の意味がわからない!」ということばに、そうだよね、be動詞ってわかんないよね、と英語の授業を思い出して深く共感。
作家ってこんなふうにして執筆してるのかも、という妄想も浮かぶ。
ひとしきり苦悩したあと、服装を整えて「さあ、行こうか」といったん扉から出る。
しばらくして店内に入ってきてテーブルにつき、「お水、お願います」と店員さんに頼む。携帯電話をいじったり、カフェの客としての振るまい。
PCを見ていた彼が、映像を止めてトイレに入る。
彼が出てくる前にもうひとりがトイレに向かうと、中から「To be or not to be; that is the question!」と叫び声がする。
(be動詞は、ここに僕がいるという存在の意味だったみたいですね)
『ロミオとジュリエット』について
は紙芝居。絵を描いた宮川国剛画伯とのアフタートークつき。
金髪のロミオ
バルコニーのシーン
ここに挙げたのはどちらも比較的具象的な絵だが、仮面舞踏会の場面の象徴性、ラストシーンの薄れゆく意識をそのまま描いたような幻想性。天才の仕事である。
『マクベス』が王を殺すまで
坪内逍遙訳の『マクベス』のプリントが配られる。
自分たちの城に迎えたダンカン王を殺すよう、マクベス夫人がマクベスを唆すシーン(マクベス夫人の科白には一部〈中略〉の表記有り)と、殺害後の「マクベスは眠りを殺した」というマクベスの科白。
本を手にした彼が読み上げるのはマクベス夫人の科白。マクベスの科白は、黙読する。無言の間。だから話の流れを知りたい観客は、プリントに目をやり「科白を聴くのではなく読まなくてはならない」。
まさしくこれは「リーディング」。
スカートをはいたひとりがカーテンの奥から飛び出してきて、あちこち移動しながら三人の魔女の科白(坪内逍遙訳)をしゃべる。目線の先には「科白を書いた紙」があったりする。
(そういえばあちこちになんか張り紙があると思ってたんだ)
人形をどけると、そこにも「科白」
うしろにいるのが「魔女」
ネクタイの彼が、本を手にして「マクベス夫人の科白」を読み上げる。
途中、壁に目をやる。
壁の張り紙に「マクベス夫人の科白」
背中に張られているのは「魔女の科白」
魔女が後ろに立ってじっと背中を見ていたのは、そのためだったんですね。
マクベス夫妻の科白の間に、魔女は「言葉の書かれた紙」を至る所に張っていく。
たとえばこんなの
ネクタイの彼がPCを立ちあげる。
AKBの曲が流れる。魔女はカーテンの後ろに行ってしまう。なにやら激しい気配。
魔女が張った紙の言葉を指差し確認する。
カーテンの裏を覗く。
魔女は曲に合わせて踊っていた(わたしのデジカメは激しく動くものはブレて写る)。
歌と踊りは暗殺の時間。
音楽が終わり、その後の沈黙の中で「マクベスは眠りを殺した」という有名な科白が黙読される。
料金は投げ銭制。しかもお札の入らない貯金箱が置いてある(だからみんなあるだけのコインを入れていた)。
幕間には、途中で帰っていただいて全然構いませんから、といった説明。
あまりに謙虚というか遠慮深いというか控えめというか弱気というか。
これだけ面白いんだからもっと強気に出てもいいと思うんだけど。
「世界一小さな演劇祭」と銘打って、四週連続のリーディング公演。
なのだが、先週の「トランスパンダ」に引き続き、「リーディング」と聞いてふつうに思い浮かべるようなものでは、ない。
「もともと海外では、リーディングは戯曲のお披露目のためにすることが多く、そのリーディングでスポンサーを探して本公演に臨むんです」と、昔、リーディング公演のアフタートークでどっかの大学の先生が言っていた。
日本でひと昔前に流行ったリーディングといえば、
・必ず手にテキストを持ち、
・普通の芝居より動きが少ない(ことが多い)
というのが標準形。
ここに来て独自の進化を始めたのだろうか。
「トイガーデン」の公演は、30分ほどの短編三本を、開演から終演までエンドレスで繰り返す(幕間に休憩有り)。キャストはふたり。
会場のカフェはふつうに営業しているので、飲食しながら見ることになる。途中入退場自由、携帯電話使用自由、撮影自由、もちろん立ち歩きも。カフェでお茶飲んでたらたまたまなにか始まった、という風景にも見える(実際には飲食目的の人はいなかったようですが)。
(面白かったので写真いっぱい撮っちゃいました。
スクロールがたいへんになってしまいますが。すみません)
スクロールがたいへんになってしまいますが。すみません)
『ハムレット』~第四独白より
第四独白というのは「To be or not to be; that is the question.(生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ、という訳でお馴染み)」で始まる、有名なハムレットの独白。
始まる前にその部分の英文が載ったプリントが配られる。真面目な学生の授業ノートのように、たくさんの書き込み。
机に向かっている彼は、第四独白の和訳を考えている。この単語の意味は…で、関係代名詞が…、みたいな独り言。
カウンターに向かっている彼は無言でPCを見ている。そこには「To be or not to be; that is the question.」という科白を繰り返す彼自身の姿が映っている(背景から見て撮影場所は同じ店内)。直立不動の姿勢ではじまり、だんだんエキサイトしてきて走り回ったり服を脱ぎ捨てたり、といった映像が繰り返しエンドレスで流れている。
和訳してる方の彼もじっとしてはいない。
座ったり、
寝たり、
歩きまわったり、床に頭をゴンゴン打ちつけたり。
服も乱れてきて、「Fly」という単語でははだけたシャツを翼のようにして床にダイブしたり。
「be動詞の意味がわからない!」ということばに、そうだよね、be動詞ってわかんないよね、と英語の授業を思い出して深く共感。
作家ってこんなふうにして執筆してるのかも、という妄想も浮かぶ。
ひとしきり苦悩したあと、服装を整えて「さあ、行こうか」といったん扉から出る。
しばらくして店内に入ってきてテーブルにつき、「お水、お願います」と店員さんに頼む。携帯電話をいじったり、カフェの客としての振るまい。
PCを見ていた彼が、映像を止めてトイレに入る。
彼が出てくる前にもうひとりがトイレに向かうと、中から「To be or not to be; that is the question!」と叫び声がする。
(be動詞は、ここに僕がいるという存在の意味だったみたいですね)
『ロミオとジュリエット』について
は紙芝居。絵を描いた宮川国剛画伯とのアフタートークつき。
金髪のロミオ
バルコニーのシーン
ここに挙げたのはどちらも比較的具象的な絵だが、仮面舞踏会の場面の象徴性、ラストシーンの薄れゆく意識をそのまま描いたような幻想性。天才の仕事である。
『マクベス』が王を殺すまで
坪内逍遙訳の『マクベス』のプリントが配られる。
自分たちの城に迎えたダンカン王を殺すよう、マクベス夫人がマクベスを唆すシーン(マクベス夫人の科白には一部〈中略〉の表記有り)と、殺害後の「マクベスは眠りを殺した」というマクベスの科白。
本を手にした彼が読み上げるのはマクベス夫人の科白。マクベスの科白は、黙読する。無言の間。だから話の流れを知りたい観客は、プリントに目をやり「科白を聴くのではなく読まなくてはならない」。
まさしくこれは「リーディング」。
スカートをはいたひとりがカーテンの奥から飛び出してきて、あちこち移動しながら三人の魔女の科白(坪内逍遙訳)をしゃべる。目線の先には「科白を書いた紙」があったりする。
(そういえばあちこちになんか張り紙があると思ってたんだ)
人形をどけると、そこにも「科白」
うしろにいるのが「魔女」
ネクタイの彼が、本を手にして「マクベス夫人の科白」を読み上げる。
途中、壁に目をやる。
壁の張り紙に「マクベス夫人の科白」
背中に張られているのは「魔女の科白」
魔女が後ろに立ってじっと背中を見ていたのは、そのためだったんですね。
マクベス夫妻の科白の間に、魔女は「言葉の書かれた紙」を至る所に張っていく。
たとえばこんなの
ネクタイの彼がPCを立ちあげる。
AKBの曲が流れる。魔女はカーテンの後ろに行ってしまう。なにやら激しい気配。
魔女が張った紙の言葉を指差し確認する。
カーテンの裏を覗く。
魔女は曲に合わせて踊っていた(わたしのデジカメは激しく動くものはブレて写る)。
歌と踊りは暗殺の時間。
音楽が終わり、その後の沈黙の中で「マクベスは眠りを殺した」という有名な科白が黙読される。
料金は投げ銭制。しかもお札の入らない貯金箱が置いてある(だからみんなあるだけのコインを入れていた)。
幕間には、途中で帰っていただいて全然構いませんから、といった説明。
あまりに謙虚というか遠慮深いというか控えめというか弱気というか。
これだけ面白いんだからもっと強気に出てもいいと思うんだけど。