フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

口承文学と集合無意識

2013年09月03日 08時58分10秒 | 社会・政治・思想哲学

 優れた物語や映画には、現実に人を動かす力がある。ただ感動させるだけではなく、実際に行動を起こさせ、人生を大きく変える。
 それは、物語にリアリティーがあるからである。人を動かすリアリティーは現実のことを正しく忠実に書いているだけでは生まれない。
 現実と物語の間に、人の無意識に働きかける深い関連性が認められなくてはならない。

 
 では、この深い関連性はなんなのだろうか。

 現実は人間の意識である。これに対し、物語は人間の無意識を表したメタファーである。
 その物語がいかに荒唐無稽の話であっても、人の心の奥の無意識を刺激するメタファーがうまく使われているならば、意識におおきな影響を及ぼす。その意識に対する影響が関連性である。

 ユングは個人を超えた民族的無意識を集合無意識と呼んだ。この集合的無意識があるのかないのかには争いがある。しかし、私はあると思っている。そうでなくては、日本人の言葉に出来ない特別な民族性がうまく説明できない。
 たまに日本人の集合無意識を探るため、日本の昔話を読むことがある。しかし、読んでも、いまいちピンとこないし、正直言って、それほど好きでもない。
 例えば、ウグイスの里である。あらすじを紹介しよう。
 若い木こりが森の中に今まで見たこともないような立派な館を見つける。そして、彼はそこで美しい女性に会う。女は男に豪勢な料理を振る舞い、楽しんでいってくださいという。
 次の日、女は男に留守を頼んで外出するが、奥の座敷をのぞかないでくださいと言い残して出て行く。
 何日かそれを繰り返した後、男は好奇心からその座敷をのぞいてしまう。その座敷の中にウグイスが1羽いた。 女の正体はそのウグイスであった。
「見るなと言ったのに、あなたは見てしまいましたね。これでお別れです」そういうとウグイスは飛び立っていってしまった。
 すると、大きな館は消え、暗い森だけが残った。男は森のなかに一人立ちつくしていた。

 いわゆる日本の昔話特有の「禁止を破る」パターンである。
 ただ、それが何を意味しているのかよくわからない。約束を破ることは良くないとの教訓以外に、心を打つものがあまりない。
 もし、何かを感じるとしたら、男のあわれさである。このあわれさをうまく強調すれば、物語をうまく再構築できるかもしれない。
 しかし、この「禁止を破る」パターンが日本人の民族性を表しているとは、どうしても思えない。

 私は昔話が昔のように人を動かす力を失った理由は、 口承ではなく文字で書かれ、内容が固定化されたからではないかと思っている。
 口承文学とは、文字によらず、口頭のみで後世に伝えられる形式の文学である。人の記憶が頼りであるから、物語の内容は固定されることはなく、新しいものが加えられたり、話の筋が変わったりする。
 内容が変わるからおかしいと思いがちだが、現代風に内容が変えられるからこそ、その時代にあった話が出来るのである。
 また、1つの仮説であるが、日本の昔話の口承は女性が多く(調べていないから実際のことはわからない)、女性の無意識が強く反映させているのではないか。それゆえ、男側の話というより女性の視点で語られ、男があまり満足しない内容になっているのではないか。そうでなくては、男がボーッとして何もしない理由が説明できない。
 
 ところで、意識から無意識へ誘うメタファーは、 人々の心に働きかけるだけの力がなくてはならない。そのメタファーは常に流動している。それを掴まえるためには、自分自身の無意識に入り込んで、集合無意識を探っていく作業が必要になる。
 例えば、私の無意識に強く働きかけた物語は、ウルトラマンレオである。 それに最近気づいた。多分、私と同世代の一部の人もそうだと思われる。
 ウルトラマンレオは、運命に翻弄されるという点では、日本昔話に出てくる男と同じようであるが、努力して戦うという点では、西洋の神話のパターンに近い。
 それゆえ、私は日本の物語より、西洋の物語のほうがしっくりくる。ただ、西洋の神話そのものには心が動かされない。そこに日本的もののあわれが必要である。ちょっと複雑なのである。
 私たちの世代の集合無意識は、和洋を混合した形で形成されている。それを掴まえないと、感動させることは難しい。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 秩父三十四カ所巡り | トップ | スピリチュアルやオカルトに... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

社会・政治・思想哲学」カテゴリの最新記事