日本会議唐津支部 事務局ブログ

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【中学歴史教科書8社を比べる】214 ⒅ 日朝関係(戦後)の描き方 33 <ⅵ 現在の課題3/3:在日朝鮮人 まとめと考察 -4- 日本残留の理由は?1/2>

2017年06月18日 | 中学歴史教科書比較(2)h28-令和2年度使用

【調査2】終戦直後の日本残留の理由はなにか? 1/2

~まとめ表(未確定案)再掲~

 

■残留理由に言及しているのは2社だけ ※これを検証する

・東京書籍 「帰国先の混乱など」

・帝国書院 「朝鮮本国での生活基盤をうしなっていたことなど」

 

■1939(昭14)年以後の「労務・軍務動員」者の動向

 終戦直後、(政府が把握している分で)日本滞在の約200万人の朝鮮半島出身者のうち、「強制に連行されてきた朝鮮人」(=労務・軍務動員者)は約100万人。

 そのほとんどがふるさと(※まだ国はできていない)に帰った。(昭和20年に最多になった、日本本土の ”根こそぎ動員:13~60歳の国民” と同じように)「強制的(計画的)」に徴用されたのだから、(無料運搬船で)帰れるようになってすぐ帰ったのは当然と言える。

 ※在日朝鮮人の一部(朝鮮総連や韓国民団など)や、共産党など日本人のほんの一部は、いまだに《在日朝鮮人は「強制連行(=徴用)者とその子孫だ」》と嘘をついて、”日本人の同情と反省”を誘い、”日本政府や企業などの責任”を追及して、金銭等を要求している。

 

<ウィキペディア:在日韓国・朝鮮人>より

・「帰国と滞在

 終戦直後の1945年8月24日、朝鮮人帰還者を乗せ釜山港へと向かった浮島丸が、連合国軍司令部の航行禁止命令により、舞鶴港への入港中、触雷・沈没して乗員約5000名のうち約550人が死亡する浮島丸事件などの事故もあったが、その後連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により送還事業が開始され、

 翌1946年までに徴用者を中心に140万名が朝鮮半島に帰還する一方、

 1939年9月の「朝鮮人労働者内地移住ニ関スル件」通達により朝鮮における雇用制限撤廃(自由募集)以前から滞在していた者を中心に約60万名が日本に残った。」

 

・「1959年に外務省は、朝鮮への国民徴用令適用による朝鮮人徴用は1944年9月から下関-釜山間の運行が止まる1945年3月までの7か月間であり、また、

 戦時中に徴用労務者として来た朝鮮人の内、そのまま日本に留まった者は1959年時点で245人に過ぎず、

 日本に在住している朝鮮人は、「大半が自由意志で来日・在留した者」とする調査結果を発表している。」

 ※「徴用労務者」=「労務動員者」+「軍務動員者」。約100万人・・・このうち日本に残ったのはわずか245人ということ。(松永)

 

<ウィキペディア:朝鮮人強制連行>より

・「終戦時の帰国状況

 終戦後、1946年3月までに在日朝鮮人のうち140万人の帰還希望者が日本政府の手配などにより朝鮮に帰還した。

 朴慶植によれば、日本の敗戦によって強制労働させられていた朝鮮人労働者は先を争って帰国した。
 ノンフィクション作家金賛汀は1945年8月15日を「強制連行、強制労働からの解放の日」であったとした。金はさらに「すべての朝鮮人強制連行者が、帰国を急いだ」が、「日本に進駐した米軍は朝鮮人の帰国を一時停止し、港に朝鮮人が集結することを禁止した。(中略)事態が混乱し、収拾が困難になるにしたがい、進駐米軍も、朝鮮人強制連行者を帰国させる以外にこの混乱を収拾する方法がないことを認め、彼らの帰国が再開された。」「強制連行者の多くは、この時期に帰国した」と書いている。

 金賛汀はまた、帰国する朝鮮人の未払い賃金を、朝鮮総連が各企業に請求して徴収したが、そのほとんどは労働者個人には渡らず、朝鮮総連の活動資金となり、また朝鮮総連から日本共産党にも渡された、と述べている。」

 

 では、「出かせぎ者とその家族:約100万人」のうち、約60万人が日本に残ったのはなぜだろうか?

~つづく~ 

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