旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

北国街道紀行2 小諸宿~海野宿

2012-09-08 | 北国街道紀行

「小諸宿」
 空には秋の雲だが、強い日差しと澱んだ空気は夏のまま。北国街道を歩く2日目は
懐古園(小諸城址)からスタートする。街道は小諸宿外れの本陣問屋を過ぎると、
右左と2度直角に折れて中沢川に沿って千曲川の河岸段丘を降りていく。
そして最後の段丘は降りずに右に折れてこんどは緩やかに登り始める。
まっすぐ千曲川に向かって下りていくのは「牛に引かれて善光寺参り」布引観音への参道。
分かれ道には「ひたり布引山道」の道標がある。

 この辺りの坂は富士見坂。野辺山高原越しに100km先の富士山が頭をだすそうだが、
きっと現代ではよっぽど条件が揃わないと見えないのではなだろうか。

やがてR18は河岸段丘を深くえぐった深沢川を橋でひと跨ぎする。
旧道はこの谷を渡るために橋の袂から上流に向かって谷を下っていく。
やぶ蚊とクモの巣に手こずりながら谷底に下りると、薄い鉄板が架かっていて対岸に渡れる。
が、対岸は薮が深い上に逆光でクモの巣も見え辛い、諦めて引き返すことにする。
谷底で深沢川を渡る旧道は橋の下を潜って、今度はR18の西側に現れ北へと並行する。

黄金色の田圃の向こう千曲川対岸の御牧ヶ原台地、浸食崖に懸崖造りの布引観音を遠望。
この辺りは左右に立派な門構えや蔵のある家が多く、道祖神や馬頭観音も見られる。

滋野駅近くには日本橋から数えて43番目となる牧家一里塚跡の碑、さらに立場茶屋跡に
江戸時代の大横綱雷電の碑が立つ。

「田中宿」
  枡形の雰囲気を残す常田南交差点からが田中宿。
戌の満水といわれる1742年の大水害で壊滅的な打撃を受け、更に幕末に大火に見舞われた。
大火後の家並みは平成になって生まれ変わった。

拡幅された旧道や改新築された商店や住宅は宿場の雰囲気で造り替えられている。
中心商店街の衰退が問題になっている中、田中駅前の小さな商店街は元気があった。

新しく生まれ変わった田中宿だが、所々に江戸時代の遺構が移築などにより残っている。
駅前の勝軍地蔵、本陣門、雷電の母が奉納した薬師堂の仁王像、剣持道祖神などが
目を楽しませてくれる。

「海野宿」
 田中宿から海野宿までは僅か2km。
ふたつの宿は合宿(あいしゅく)で、其々の本陣が月の前後半交代ででその役割を担った。
田中宿からしなの鉄道の東側を寄り添って進み、斜め踏切を渡ると「海野宿」。
枡形になっている白鳥神社前、中世の豪族海野氏の氏神で日本武尊を祀っている。
境内には土俵があり相撲の興行が行われていたそうだ。

 さて街道めしをいただいた「福嶋屋」は築100年、明治期の堅牢な蚕室造りの建物。
手打ち二八そばと、地元産のくるみのタレをからめた特製おはぎのセットを愉しむ。
意外とビールのお通しに出された辛ナスの漬物が美味くて印象に残ったのだ。

海野宿90余軒のうち宿場時代の出桁造りは7軒、その他は明治時代の蚕室造りの家が多い。
それにしても宿場時代養蚕時代の民家が切れ目なく続き、中央に用水が流れる様子は
宿場時代を想像するに充分。本陣は問屋を兼ねていて長屋門が残っている。
「小諸宿」から「田中宿」を経て「海野宿」まで11.8km。本陣を2日目のゴールとした。



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