羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

ことばのお見舞い

2017年06月14日 08時57分58秒 | Weblog
 母が施設に入所した6月5日から数えて、丁度、10日目になった。
 一日おきに脱いたり着たりしているが、声を荒げたり、暴力的な行動は一切ないことで、多少は救われている。
 
 この間、私のブログを読んで、介護関係の仕事をしている野口体操の仲間であるKさんからことばのお見舞いをいただいた。
 目から鱗が落ち、発想の転換ができ、こころが軽くなった。

 それにつれて思い出されるのは、野口三千三先生の『人間は皆、身体障害者であり、精神障害者である。とりわけ老人になればなるほどその程度は増すのである』
 もうひとり、養老孟司先生の『正常も異常も、それは程度の差でしかない』

 さて、いただいたことばの主は、脳性麻痺で医師の熊谷晋一郎さんである。
 Kさんからは、次のようなメッセージが添えられていた。
《人が人や物とつながる時に、いわゆる健常者としていわゆる障碍者として位置付けられている当事者として、そして医師として、客観性を持って記述されており、野口体操にも参考になるのではないか思いご紹介させてい頂きました。》

 以下、熊谷さんのことばをそのままここに、掲載させていただきます。

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「自立は、依存先を増やすこと、希望は、絶望を分かち合うこと」

 “自立”とはどういうことでしょうか?
 一般的に「自立」の反対語は「依存」だと勘違いされていますが、人間は物であったり人であったり、さまざまなものに依存しないと生きていけないんですよ。
 東日本大震災のとき、私は職場である5階の研究室から逃げ遅れてしまいました。
 なぜかというと簡単で、エレベーターが止まってしまったからです。
 そのとき、逃げるということを可能にする“依存先”が、自分には少なかったことを知りました。
 エレベーターが止まっても、他の人は階段やはしごで逃げられます。5階から逃げるという行為に対して三つも依存先があります。ところが私にはエレベーターしかなかった。
 これが障害の本質だと思うんです。
 つまり、“障害者”というのは、「依存先が限られてしまっている人たち」のこと。
 健常者は何にも頼らずに自立していて、障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされている。
 けれども真実は逆で、健常者はさまざまなものに依存できていて、障害者は限られたものにしか依存できていない。
 依存先を増やして、一つひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存してないかのように錯覚できます。“健常者である”というのはまさにそういうことなのです。
 世の中のほとんどのものが健常者向けにデザインされていて、その便利さに依存している事を忘れているわけです。
 実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態なのだろうと思います。
 だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。
 障害者の多くは親か施設しか頼るものがなく、依存先が集中している状態です。
 だから、障害者の自立生活運動は「依存先を親や施設以外に広げる運動」だと言い換えることが出来ると思います。
 今にして思えば、私の一人暮らし体験は、親からの自立ではなくて、親以外に依存先を開拓するためでしたね。
   熊谷 晋一郎

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 今回の母の施設入所は、どれほどの方々の力を借りて実現したことだろうか。
 人手不足といいながらも、自宅での私つまり娘ひとりに依存していた暮らしから、もっと多くの人に助けられる暮らしに移行できた、と考えることはできないだろうか。

 母のことはおいても、介護の現場をすこしだけ知った。
 施設開催の懇談会で話を聞き、新しい世界が開かれた。
 あくまでも個人の老いの問題でありながら、同時に難易度のたかい社会問題であることに気づかされた。
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