心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

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昨日の私と明日の私

2017-04-04 23:19:54 | 哲学

今、私は覚醒しており、意識をもっている。

もっと厳密に言うと、私自身を意識している。

意識には記憶の機能と予期ないし想像の機能が付帯しいる。

今自己を意識している私は「昨日の私」の記憶を保持し、「明日の私」の在り様を想像することができる。

「昨日の私」と「今の私」と「明日の私」は同一である。

これを通時的自己同一性という。

しかし、時間と存在の関係を熟考してみると、過去と未来は現在ほど「実在性」をもっていないことが分かる。

また、過去と未来では、実在性という性格において前者が勝ることが分かる。

そこで、実在性においては現在>過去>>未来ということになる。

ただし、現在の「意識」においては過去と未来という要因は極めて重要であり、それらに関して実在性が希薄だということにはあまり意味がない。

むしろ、過去と未来という契機があるからこそ、意識が時間的性格を帯び、プロセス的な構造を形成でき、その内容を豊かにできるのである。

「存在」というものを「現在目の前にある物体的存在者」という狭い意味に受け取り、それを「実在性」の指標とするなら、過去と未来の実在性は希薄だということになる。

それに対して、存在と生成を統一的に捉え、実在性というものをプロセス的存在論の観点から捉えるなら、過去も未来も現在と同様の実在性をもつものと理解されるはずだ。

これは「存在と生命」という問題系に直結する事柄である。

さらに、それは「意識と生命」の関係を示唆するものである。

今の私が「昨日の私」のことを想い出し、それを反省する意識の作用は、「明日の私」の在り様への関心から切り離せない。

ところが、物体的に孤立としたものを直接観察することをもって存在を理解しようとする立場からは、過去と現在と未来は切り離されてしまい、「現在」にのみ実在性が認められるのである。

自己も意識も生命もこうした物体的存在観ないし粒子的対象理解から捉えることができない、存在=生成のプロセス的現実性をもっている。

それゆえ「昨日の私」も「明日の私」もその現実性という点においては「現在の私」にいささかの引けも取らない同等性をもっている。

ここで、「実在性」を「現実性」と置き換えだが、両語の根本的意味は変わらない。

しかし、「実在性」と言う言葉は存在論的観念性を帯び、現実から遊離しやすいので、誤謬推理に誘導しやすいという難点をもっている。

それはまさしくホワイトヘッドが言う「具体者置き換えの誤謬」を引き起こし、「存在」からプロセス的生命性を奪取して、空虚な抽象的存在観念に誤導するのである。

また、こうした問題を考える際には時間と空間の不可分性ないし融合性を顧慮しなければならない。

時間を空間から切り離して考えるから、直線的に今点の数珠つなぎの時間系列ばかり連想して、「今はもうない過去」と「まだない未来」から「実在性」を剥奪してしまうのである。

その都度の「今」は、つねに直前の近接過去と直後の近接未来との生成的統合態においてあり、単独で存在するわけではない。

また、それにはつねに空間的広がりが付帯している。

「昨日の私」と「明日の私」についても、その存在論的身分を考える際には、ぜひこうしたことを顧慮しなければならないのである。

 

 

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