トマス・ネーゲルは「コウモリであるとはどのようなことか(What is it like to be a bat ?)」という奇問を立てて、一躍心の哲学の寵児となった。
この問いは、エコロケーションという知覚方法を使うコウモリの「心」の主観性を我々が理解することは絶望的に不可能であること示唆している。
つまり、コウモリは耳を目の代わりにしているのだが、そうした感覚的様相の心を我々は共感できないのである。
こうした問いはバージョンを変えて色々立てることができる。
カラスであるとはどのようなことか。
自閉症であるとはどのようなことか。
統合失調症であるとはどのようなことか。
蛇であるとはどのようなことか。
サルであるとはどのようなことか。
・・・・・等々。
どれも類推不能である。
なんとなくわかるが、それも自分の主観性に引き付けて解釈しているにすぎない。
「そのもの」からは離れている。
場合によっては断絶している。
しかし、自分の気持ちを直接話さない動物の中で、かなりその心に共感できるものもいる。
犬と猫はその代表である。
この二つの動物はペットの代表であり、それを飼っている者は、その心を信じて疑わない。
これは主観性や言葉を超えた生命感情から湧き上がってくる自然的共感である。
夏目漱石の『吾輩は猫である』が示している通り、猫は擬人化しやすい。
そうした猫を主役にして心の哲学を構築するのは極めて興味深い。
つまり、「猫ロジカルな心の哲学」を構築するのである。
そのために次の画像をまず参照しよう。
また、次の動画も参照されたい。
http://videotopics.yahoo.co.jp/videolist/official/animal_pet/pe0d6d1ee0a70f69f2981188230aeacc6