猫田ジャレの 『 天然!にゃー語 』

~ 見ネコ聞くネコ言うネコの とびきり天然な日常 ~

心残り

2011年02月27日 | 本・文学・取材等



我々信州児童文学会の、師であり同志でもある、児童文学作家、はまみつを先生が、2月22日にお亡くなりになった。

昨年6月から7月にかけて、自身の活動の集大成とも言うべき「はまみつを童話のせかい展」を開催したばかりで(写真上・本家「にゃー語」に関連記事をUP。2010過去ログ参照)、

8月4,5日の、毎年恒例、信州児童文学会の「夏の会」でも、とてもお元気だったので、あまりに突然のことに、言葉を失い、愕然とした。

訃報を知ったのは23日の夕刻。全く知らなかったのだが、昨年12月より入院、約3ヶ月の闘病の甲斐なく、亡くなったという。

77歳、まだまだこれからも、充分活躍できるお年であった。

2月25日に、先生の地元、塩尻市のホテルで告別式があったので、とにかく、最後のお別れだけは言わなくては、と駆けつけた。



昨年の後藤竜二氏のときもそうであったが、花に囲まれた祭壇の、真ん中に飾られたはま先生の遺影を見て、ああ、ほんとうに、あちらの国に旅立たれてしまったのだ、間違いはないのだ、と確認する。

思ったより、参列者は少なめであったように思うが、招かれた僧侶が9人、弔電は実に100通を越えていたのには、驚いた。


そして、はま先生と生前親交の深かった方々からの弔辞が、5,6人はいたのではないか。
こちらの方の葬儀は、東京とは違って、火葬を済ませてからになるので、1時からの告別式と、続いて七日の法要が終わってみたら、既に3時半だったのには、驚いた。

長さを全く感じさせない、いいお別れ会であった。



もっとも、「いい」というのは、今だからそう思い、言えることなのであって、式の最中はといえば、やはり最初から最後まで泣き通しになってしまった。

何がよかったかといえば、それはみなさんの「弔辞」。

さすがは、ものを書いている人たち、もしくは、“あの”「はま先生」と親交が深かっただけの方たち。実にうまいことをおっしゃり、泣き所のツボを得ている?というか(もちろん、意識的にではないだろうが)、情感までたっぷりと、聞かせてくれた。


信州児童文学会からは、現会長の羽生田敏(はにゅうだ・さとし)先生、はま先生とは共に「とうげの旗」創刊に携わり、同じ信大教育学部の一級下だったが親友でもあられた、和田登先生のお二人が弔辞を読まれた。

ほかに、弔辞の先陣を切られたのは、はま先生の中学時代の教え子で、現在上智大学の教授であられる、おそらく(自称)「はま塾」の一番(唯一の)弟子であろう、確か秋山さんとおっしゃる方(不明確ですみません)。
それから、はま先生が月一でコラムを執筆されていた、松本地区を中心の購読エリアとして持つ新聞、『市民タイムス』の編集委員であられる赤羽康男さん。
はま先生の地元、塩尻市片丘地区の方、先生の松本深志高校時代のご学友の方、などであった。

特に、秋山さんは中学で出会ってから40年、毎年夏と冬には会って語り合い、後に酒も酌み交わす仲となったそうで、それが情感たっぷりと語られるのは、非常に興味深く、うらやましい限りであった。
また、タイムスの赤羽さんも、数ヶ月に一度、奥様の手料理を楽しみながらの激論も、さぞかし楽しかったろうなぁーと、やはりうらやましくなる。


はま先生との思い出を、みなさん、たくさん、たくさんもっておられるようであった。



私は、出会ってからまだ5年、それも、夏の会と3月の総会と、年にせいぜい、大勢で2回会うのが関の山だったので、みなさんのように、そんなに沢山、思い出があるわけではない。

それでも、その短い中にも、強烈に心に残っている話や、楽しかった思い出が色々ある。それだけ、インパクトの強い、個性的な、楽しい方だった。

と、同時に、どこか近寄りがたい雰囲気も持っていらして、気軽に喋りかけられないような、気もしていた。



それは、あの、ニコリともせずに冗談を飛ばす“強面”のせいでは決してなく、どこか孤高の人、といった雰囲気があったからである。信州児童文学会のお二人は、はま先生のことを、本当の“文士”であったと讃えた。

たしか、赤羽さんの弔事の中にあったと思うのだが、はま先生が語った印象深い言葉の中に、「宮口しづえのことを書きたいなぁ」(はま先生は宮口しづえ先生の一番弟子)というのと、「この年になったら、本物とだけ付きあいたいよ」というのがあったが、ああ、これなのか、と思った。


ちょっと見は、コワそう、だけど喋るとユーモアに富み、笑い転げるほどにおかしい。
が、本等のところは、どうなのかな。

はま先生は、“芸術家肌”の人だったので、比べるのもへんであるが、例えば気さくで面倒見のいい、童話教室などもお持ちの和田先生とは、ちょっと感じが違うのであった。
世間ではおそらく、和田先生が神経質な芸術家肌で、はま先生は気さくなお方、ととられていたかと思うが、実はその逆で、はま先生こそが孤高の芸術家、和田先生はどちらかと言うと職人気質なのではないだろうかと思う。

まあ、そんな内輪にしかわからないことを、ここで言うのも、読者の方には??かと思われるのでやめておくが、ようするに私には、お慕い申しているにもかかわらず、ちょっと近寄りがたい存在であった、ということである。

もしも、受け入れてもらえなかったら、どうしよう。私の考えなど、取るに足らないと、心の中で切り捨てられてしまったら・・・。

赤羽さんにおっしゃったところの、私が「本物ではない」と見抜かれてしまったとしたら・・・。

それはとてつもないほどの、恐怖である。



     *   *   *   *   *



昨年の夏の会の中で、ある、今後の方向性を決める上の、重要な会議があった。

まだ、公にできないことなので、詳しいことは書けないが、その中ではま先生が、実に重要な、本質を突いたことをおっしゃられた。

私はその発言を聞いて、なんてすごいことをおっしゃる方なのだろう、と、心底、感動した。また、まったく自分の考えていることと同じであった点もあり、それがすごく嬉しかった。

そのあとで、司会者が私に意見を求めたとき(色んな人の意見を聞くために、それまで発言のなかった人にふったまでなので誤解のなきように)私は、おそるおそる、だが、思ったことを正直に口にしてみた。

こんなことを言ってもいいものだろうか、という不安は、ものすごくあったのだが、心のうちを正直に話してみた。

言わずには、いられなかったからだ。


言い終えたとき、本当に冷汗の出る思いであった。

うまく伝えられたかどうか、もわからない。

が、言ってしまった、という、後悔よりは満足感の方が強かった。



会議の後、ふと、遠方に座っておられた、はま先生が、私のほうを見て

「ネコタさぁーん!!」

と、手をふってくれた。

その、力強い声を聞いて、ああ、受け入れてもらえたのではないだろうか、

と、勝手に解釈した。

安心感と心強さが湧いてきて、すぐにでもはま先生のところに駆け寄りたいような心境になった。

が、不器用ではにかみ屋のため、たぶん私は、何もできなかったように思う。



その夜の懇親会は、普段の、和室大広間で、座卓をつき合わせての宴会、ではなくて、ホテルのまあ、そんな内輪にしかわからないことを、ここで言うのも、読者の方には??かと思われるのでやめておくが、ようするに私には、お慕い申しているにもかかわらず、ちょっと近寄りがたい存在であった、ということである。

もしも、受け入れてもらえなかったら、どうしよう。私の考えなど、取るに足らないと、心の中で切り捨てられてしまったら・・・。

赤羽さんにおっしゃったところの、私が「本物ではない」と見抜かれてしまったとしたら・・・。

それはとてつもないほどの、恐怖である。

バイキングのような形式だった。

それでなくても、大先生たちに、お酌をしてまわるようなことが、恥ずかしいのと、なんだかこびているような気がして、ふだんからできないタチである。
この中では、まだ若造、というのもあるし、入ってまだ5年足らずの“新参者”という引け目もある。

バイキングのようになってしまうと、なおさら自分の席を固持して、居座ってしまうのだった。

したがって、はま先生だけでなく、他の先生ともほとんど喋らず、こういうときに必ず、気さくな北原幸男先生や和田先生が、ご自分の方から(もちろん、端から順に、であるが)回ってきてくださるので、それを待っていて、少し喋ったくらいである。



はま先生は、翌日の早朝からご用があるとかで、その日は宿泊せずに帰るという。

お酒のお好きなはま先生との、このあとの二次会で、いつもの激論を戦わせていらっしゃるのを、“見るのを”楽しみにしていたのだが、お帰りになられてしまうのなら、残念だなぁと思う。


他の会員の方たちが、それでは、はま先生をお見送りしよう、というので、ホテルのロビーにたむろして、わいわいと、迎えが来るのを、先生と一緒に待っていた。

大勢の人が見送りにきたためか、はま先生は終始ご機嫌で、いつものように冗談を飛ばし、快活に笑われ、楽しそうにしておられた。


私は、やはり何も言えなくて、帰り際になってようやく、「先生、手紙書きますから。」

やっとのこと、それだけ、伝えたのだった。


はま先生は、このとき何もおっしゃらなかったので、私の言った言葉が、ちゃんと聞こえていたものかどうかは、わからない。

が、せめて、それだけでもお伝えせずには、いられなかったのだ。




私の大学サークル児文研の仲間や、古い文学仲間など(特にサークル・拓のメンバー)は、私が、物怖じせず、どこでも、初対面でも、誰とでもよく喋ると思っているようだが、それは、仲間内だから、なのであって、そうでない場合、私は、信じられないほど、萎縮し、自分が出せなくなってしまう、ものすごい小心者なのだ。

(と、ここでふと思い出したのだが、若いときの自分は、確かに仲間内で思われているような、怖いもの知らずで物怖じしない、図々しい人間だった気もする。何しろめちゃくちゃ尖がっていて、「生意気が服を着て歩いている」ようなものだったからだ。このような小心者になったのは、たぶんにKに戻り、閉鎖的な田舎社会で信用だけが総ての個人商店を営む中で、自分をなるたけ押さえて生きるようになったためと、恥ずかしながら3,40代になってみて、ようやく、大人としての分別がついてきたためかと思われる。)



言葉でうまく伝えられない場合、私は昔から、よく「お手紙」を書く。

書くほうが、自分の思っていることを、素直に伝えられるからである。





はま先生の訃報に接したとき、びっくりしたのと同時に、私は、ものすごく、後悔をした。


先生にお約束した「お手紙」は、結局、書けなかったからだ。


理由は色々あったのだが、一番の原因は、二日目にあった、「とうげの旗」の合評会で、私の書いた「スポット」について色々言われ、落ち込んでしまった私は、例によって、自分にとって書くこととはなんぞや?みたいな本質までさかのぼって考え込んでしまい、自信までも、喪失してしまった。(これは、合評会でヤラれると、いつも起こる現象です・笑。小心者のくせして、ものすごい負けず嫌いなので。)

(この辺のことは、もしかしたら、去年の本家「にゃー語」と夏のブログに、ちらちらと「心情」だけを綴っていると思うから、興味のある方は読んでくださってかまわないのだが、なんだネコタは、エラそうなこと言って、ほんとはただ合評会でヤラれて凹んでるだけじゃね、と笑ってやってください
(^^;)ゞ)


あと、私のようなものが、先生に思い(文学的なこと、ですよ、念のため)をお伝えしようなどというのは、やっぱりおこがましいのかな、と思ったというのもあるし、

正直に申しますと、去年の私は出歩きまくっていたので、単にゆっくりじっくり、手紙を書く余裕がなかったというのもある。というか、目先のブログとかを、優先させてしまったといった方が、正しいかもしれない。


もう少し落ち着いて、考えがまとまって、何らかの方向性とか自信が出てきたら、と思っていたのだが、その機会は、ついに永遠に失われてしまった。


永久に、私の気持ちをお伝えすることが叶わなくなってしまったことは、後悔しても、しきれるものではない。


せめて、夏の会で、先生の「童話のせかい展」でのお礼をお伝えできたのだけは、よかったが、自身のHPに、そのことをUPしていたこと、パソコンをおやりにならないはま先生のために、HPの文をプリントアウトして、感想と共に見て頂くつもりでもいた。


ほかにもまだまだ、聞いてほしいこと、お伝えしたいことが、山ほどあった。

はま先生なら、なんとおっしゃってくださったかな。

ちょっと怖いけど、聞いてみたかった。


ネコタさんのはね、文学じゃないよ、って言われちゃうかな・笑。

そしたらまた、落ち込むのかな。



     *   *   *   *   *



参列者の心のこもったご葬儀の後、お清めの精進落しの会場へ行って、そこで、信州児童文学会の仲間たちと、宴席をともにした。

はま先生を失った直後だけに、会員の方々の、生身の笑顔が、たまらなく懐かしく、温かかった。
体調を崩されていた宮下和男先生のお元気そうな姿に安心したり、北原先生の、「なんだかんだ言ったって、ここへくれば(みんないるから)、楽しいんだから。」という、いつもの明るさに励まされた。

祭壇には、両脇にはま先生の主なご著書と、若かりし日のお写真数点、そして「赤い鳥文学賞」、「塚原健二郎賞」、「産経児童文化賞」の素晴らしい楯が飾られていて、故人の業績を称えている。



と、円卓に、原稿用紙のコピーがまわってきた。

作家はまみつをの、絶筆となった原稿の、コピーである。

市民タイムスのコラム『甘柿 渋柿』、1月27日付のものである。


ところどころに、沢山、直しが入っている。例のはま先生の個性的な文字が、さらに力を振り絞って書かれたような、壮絶な文字の数々に、言葉を失った。

この短い文の中に、奥様への感謝の気持ちを表し、自分の体長の悪いことをさほどうかがわせぬほどにさらりと書いた、心にくいまでの演出である。

が、タイトルは「シメ切り」。


はま先生は、何を思ってこれを書かれたのかな。

人生、最後のシメ切りを力を振り絞って、律儀に守られて、旅立たれようとしている。

シメ切りとは、自身の人生の終焉のことをも、さしているのか。




同人の山崎玲子さんが「追悼集を作るから。」と言った。

そうだ、それがいい。それが、一番だ。


人は葬儀を済ませることで、亡くなった方との決別をするのだと聞く。


我々、書いている人間は、

書くことで心の隙間を埋め、気持ちを昇華し、書くことにより、なんらかの決着をつける。

書くことによって、亡き人とのお別れを、ようやくするのだ。


そこに、この、絶筆の原稿も載ることになるのだろう。


写真は、『市民タイムス』紙に載った、はま先生のコラム。




「酒の好きだった父のために、今夜は沢山用意してございますので、どうか、浴びるほど飲んで、父を送り出してやってください。」

喪主を務めた先生のご長男が、挨拶をした。


はま先生とご一緒に、最後に酒を酌み交わしたいところであったが、ほかの用もあり車で来たため、飲めなかった。


はま先生のことだから、3月6日に長野でやる信州児童文学会の総会に「おい、ワシもまぜろや」と言って現われそうだから、そのときにでも、ぜひ、もう一度飲みなおそうじゃ、ありませんか。

春を告げる総会は、もう、じきだったのに。



それにしても、

これから先、

はま先生のいない、総会も夏の会も、

なにより、はま先生のいない信州児童文学会なんて、

さみしすぎ、つまらなすぎです。



あのときは夢にも思わなかったが、夏の会で、みんなでわぃわぃとはま先生をお送りしたのが、結局それが、信州児童文学会の仲間との、最後となってしまった。

はま先生は、きっと寂しがりやだから、ああやって楽しく、にぎやかにお別れできて、よかったのかもしれないな。やっとそう、思えるようになった。

記憶の中のはま先生は、実に楽しそうに、ずっと笑っていらしたまま、である。



あのとき「来年、」といいかけて、いたずらっぽくかぶりを振った笑顔は、なんだったのかなぁと、ずっと気になっていたが、はま先生、それはきっと、このことですか?

病床で推敲されていたという、最後のご著書『信州むかし語り2 山と民の話』は、4月に刊行予定だそうですね。

それとも、もっと楽しい、ヒミツの計画でも、あったのですか?


答えは、永遠に風の中、である。




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