越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

映画評『瞳は静かに』(8)

2012年02月28日 | 映画

 


 冒頭の子供たちが遊んでいるシーンで、

 アンドレスは「警察」役であり、捕まえた少女が「帰らせて」と嘆願したとき、

 オモチャの手錠をはずし逃がしてやった。

 だが、軍政下で「成長」した彼は、

 やがて自分の母を誘惑して反体制運動に引きずりこんだ(それによって、母と父を引き離し自分たちの家庭を台なしにした)と思えるアルフレドを

 セバスチャンが属する準軍事組織にそれとなく「密告」する。

 そして、家のなかの独裁者である祖母オルガには、

 彼女が嫌がるビー玉の音をわざと立てて心臓発作を起こさせてしまう。

 アンドレスは大人に反抗する「恐るべき子供」になりたくてなったのではない。

 現実がそうした子供を生んだのだ。

(『すばる』20121月号)

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映画評『瞳は静かに』(7)

2012年02月28日 | 映画

 本作のオリジナル・タイトルを翻訳すると、

 「アンドレスはシエスタ(昼寝)をしたくない」だ。

 父ラウルはアンドレス少年に嫌なことばかり押しつける家庭内の「暴君」だ。

 シエスタを強要され、大好きなテレビ番組「燃えよ カンフー」を見ることを禁じられ、

 水泳を習いたいというのに、

 「規律」を学ばないといけないという理由で柔道のクラブに無理やり入れられる。

 一見、面倒見のいい祖母オルガは、

 アンドレスにとって、父親以上に「暴君」の存在に思えてくる。

 母が交通事故で亡くなったあとで、母の家を処分してしまおうとするからだ。

 少年は「ぼくたちが大人になるまで売るのは待って」と頼むのだが、

 祖母には聞き入れられない。

(つづく) 




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映画評『瞳は静かに』(6)

2012年02月27日 | 映画

 祖母によってベッドに戻されたアンドレスに、歌がきこえてくる。

 ——偉大な魔法使いがガラスの車に乗ってやってきて、君にきく。

 忘れた少年のことや、ボール紙の馬でやってきた少女のことを・・・。 

 アンドレス少年は、魔法使いが活躍するような想像の世界に浸ることを許されず、

 冷酷な現実に向き合わされる。

 冷酷な現実とは、母が望まずして反体制運動の片棒を担がされたことで、

 一家が危険にさらされることであり、

 また、父や祖母が、

 外の世界で起こっているそうした不条理な弾圧を

 あたかもないがごとくに子供の前では振る舞っていることだ。

 それでも、

 内面の恐怖を隠しきれず怒鳴り散らしたり冷淡に命令する彼らの態度で、

 弾圧の実態は露呈してしまう。

(つづく)


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映画評『瞳は静かに』(5)

2012年02月26日 | 映画

 本作でも、

 アンドレス少年の母が愛人としてつき合うアルフレドという青年が

 そうした反体制運動にかかわり、母に活動のビラや本を預け、

 母はそのことが露見するのを極端に恐れる。

 アンドレス少年は、そうした事情をのぞき見ている。

 また、真夜中に、何者かによって追跡されたらしい車が急ブレーキをかける音が聞こえたとき、

 少年は寝室の窓のブラインド越しに、何者かが銃をかざして若い男女を襲撃し、

 証拠の文書をさがす場面を目撃する。

(つづく) 


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映画評『瞳は静かに』(4)

2012年02月26日 | 映画

 映画の背景になっているのは、

 一九七六年にクーデターを起こして大統領になったビデラ大統領らによる軍事政権

 下のアルゼンチン。

 その恐怖政治は、

 八二年にアルゼンチンがマルビーナス戦争(フォークランド紛争)に敗れ、

 翌年暮れに民政に移管するまで続いた。

 反政府派の都市ゲリラは「死の部隊」とも呼ぶべき準軍事組織によって秘密裏に弾圧され、

 ほとんど壊滅したが、そのときの行方不明者が、

 一説には三万名にものぼると言われている。

(つづく) 


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映画評『瞳は静かに』(3)

2012年02月25日 | 映画

 この映画の主人公であるアンドレス少年(小学校の低学年ぐらい)は、

 その遊びが彼を含めて七人でやっていた「警察・泥棒ごっこ」だ、

 とあとで祖母オルガに告げる。

 子供たちは軍事政権下の軍や警察による連行や拷問を真似ていたのだ。

 子供たちは、レンガが積みあげられた廃墟のような空き地で遊んでいるが、

 その空き地の壁の向こうには、謎めいたガレージが存在する。

 少年は父から、そこに近づくな、と警告されている。

 つねに閉じられた鉄の扉の横には、

 もみあげを長くのばしたセバスチャンという男が見張りに立っている。

 ときたま、サングラスをした男たちを乗せた車が中から出てくる。

 反体制派の知識人やそれらしき人物を襲撃して、

 暴行を加えたり殺人をおこなったりしている極右の準軍事組織のアジトらしい。

(つづく) 


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映画評『瞳は静かに』(2)

2012年02月24日 | 映画

 出演者の似顔絵と名前が入ったクレジットをバックに、

 「出てこい」「どこだ」といった脅しの言葉が流れ、

 その後、画面が明るくなり、

 ある男の子がもう一人の子の頭部にオモチャの銃を突きつける。

 さらに、さびたドラム缶に隠れた半ズボンの少年が「ここから出して」と懇願し、

 赤いシャツの少年がドラム缶を揺らしながら、

 「だめだ、おまえは死ぬんだから」と、言っている。

(つづく) 


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映画評『瞳は静かに』(1)

2012年02月24日 | 映画

少年は、すべてを知っているーーダニエル・ブスタマンテ監督『瞳は静かに』

越川芳明

  冒頭で、子供たちが「かくれんぼ」をして遊んでいる声だけが聞こえてくる。

 スクリーンは真っ暗だ。

 どこにいるのかな?

 猫かと思った。

 隠れなきゃ。

 たぶん、ここらあたりかな?

 やがて私たちにわかるのは、その遊びがたんなる「かくれんぼ」でないということだ。

(つづく)

 

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書評 中村文則『王国』(9)

2012年02月23日 | 書評

 アポリネールの「月の王」では、

 語り手の「私」は狂王ルートヴィヒと一緒に、

 「夜明けを迎えた日本のさわやかな雰囲気」を呼びさます音を聞く。

 一方、『王国』の語り手の「わたし」は、

 狂気の木崎から過去の自分を消されて、夜明けと共に日本の地を離れる。

 「捨てられるというのは、自由と同じ意味だ」とつぶやきながら。

 フォークナーのヨクナパトーファ・サーガ(連作)のように、

 ゆるやかにつながる物語群を予想させる見事なオープン・エンディングだ。(了)

(『新潮』2012年1月号より)


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書評 中村文則『王国』(8)

2012年02月22日 | 書評

 紀元後、シリア、パレスティナ、エジプト、

 小アジアあたりから中央・東アジアまでをカヴァーしたその思想は、

 教団としては、いまイラン、イラクのマンダ教を遺すのみとなっているようだが、

 クルト・ルドルフによれば、

 グノーシスに特徴的なのは、

 みずからの救済論を他のオリエントの土着の宗教の中に溶け込ますことをためらわない、

 宗教的なシンクレティズム(混淆)だという。

 木崎の思考の中に奇妙にも溶け込んだグノーシス救済論は、

 「わたし」の次のような言葉につながる。

 「この窒息しそうな世界で、もがいている全ての人達に対して、

 何かできないだろうか・・・翔太のような子供の運命を裏切る、わたしらしい何か」

(つづく)


 

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書評 中村文則『王国』(7)

2012年02月22日 | 書評

 木崎は、SM論のほかに、世界の異端思想にまつわる知識を披露する。

 たとえば、原始キリスト教時代の異端宗教グノーシスの世界観だ。

 木崎によれば、グノーシス主義者たちの考えは、人々が天災や疫病、

 貧困や飢えに苦しむような世界を創った神が完全な神であるはずがない、

 むしろ悪意に満ちた存在であるというものだ。

 彼らは聖書に書かれた神を崇めるのをやめて、

 もっと上位にいるはずの神を崇めねばならぬと考える。

 木崎は「わたし」に言う。

 「この発想は、施設で虐げられている孤児が、周囲の人間達にではなく、

 自分には本当の両親がいるのではないかと希望を抱く構図に似ている」と。

(つづく) 


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書評 中村文則『王国』(6)

2012年02月21日 | 書評

 「わたし」は、月の宴の夢を見る。

 その夢の中で、女性たちが支配する乱交がおこなわれている。

 ギリシアの娼婦フリュネ、血と肉を欲した残虐なハンガリーの貴族のエリザベートや

 アンゴラの女王ジンガなどが出てくる。

 月が近づき、誰かが「わたし」にお告げをささやく。

 「お前の中に」と。

 そのお告げは、のちに「わたし」が木崎によって殺されかけたとき、

 木崎の子を「お前の中に」宿せ、そして木崎を殺せ、

 という内なるマゾヒズムの声となって再生する。

(つづく)

 

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書評 中村文則『王国』(5)

2012年02月20日 | 書評

 木崎は「わたし」に、ホテルの一室で繰りひろげられているSMショウを見せて、

 マゾヒズムは相手の狂気を引き出し、それをどこまでも要求し、

   それによって相手を支配するのだ、と述べる。

 もし女が食虫花のように受け身で相手を殺すマゾヒズムの原理に徹したら、

 男のサディズムなど刃がたたぬ、とでも言いたいかのように。

 現に、木崎は言う。「サディズムの行き着く先は、殺人による破滅だ」と。

(つづく)

 

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書評 中村文則『王国』(4)

2012年02月20日 | 書評

 昼の権力、警察の目が届かないところがある、そんな闇の「王国」に君臨している男がいる。

 『掏摸』にも登場した木崎という男だ。

 彼は「わたし」とは対極にいる存在で、「わたし」に対する話しぶりから、彼だけが犯罪の全貌をつかんでいるようにも思える。

 「わたし」は、翔太の死が「わたしの人生を不意に深く切った亀裂」だと言い、理不尽な死というものに、

 あるいは「無造作で冷酷な事実」に納得がいかない。

 一方、木崎はこの世界では「幸福よりも不幸のほうが引力が強い」と言い、人が突如死に直面したとき、

 どうして自分が・・・といった不可解な思いを抱きながら死んでいくのを見るのが好きだと言う。

 木崎が不気味なのは、そんな自分のサディズム嗜好を隠そうとしないからだ。 

 なぜ木崎のような倒錯的な「化物」に「わたし」は惹かれてしまうのか。

 親友のエリも、似たような「化物(ばけもの)」に惹かれて身を滅ぼした。

(つづく) 


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書評 中村文則『王国』(3)

2012年02月19日 | 書評

 犯罪というのは、矢田という男に指示されるままに、ホテルの一室にいき、そこにいる男に眠り薬を飲ませて、

 ベッドの上で裸にして自分と一緒にいるところを写真に撮るというものだ。

 有名人や社会的な要人のスキャンダルを捏造するのだが、「わたし」には、犯罪行為の全貌がつかめない。

 その点では、彼女に指示している矢田にしても、ほとんど同じかもしれない。

 舞台は、若干の例外はあるが、ほとんどすべてが夜の池袋のラブホテル街だ。

「わたし」は、池袋に関して、「この街にはまだ盲点が無数にある」という。

(つづく)

 

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