世界珍し紀行

世界を旅して衝撃を受けたり、感動したり、恐怖体験したことなどを語る。

ヨーロッパの教会めぐり

2008年10月15日 | Weblog
キリスト教徒ではないけれど、ヨーロッパに行くと必ず教会に入ってしまう。
有名な教会から行き当たりばったりに出会った教会、とにかく足を運ぶ。

イギリスのロンドンで、夕方のミサに参加する。
大きなステンドグラスばりの教会内にぎっしりと人が入り、通路をはさんで向かい会う形で参列者たちが席に座る。
神父さまの合図で、私たちは賛美歌をうたい、おことばをきく。
大きな教会に荘厳なパイプオルガンの音がこだまする。
あまりに神聖すぎて、ただただ私はぴりぴりするほどの緊張感と人々がかもしだす感情なのかなんなのか、するどくなにかうったえかけられているような賛美歌や唱和の声にふるえた。
ある向かいの人は神父さまのことばをききながら涙し、あるひとはひたすら祈りをささげ、それぞれの思いをこの場にあらわしているようだった。
心があらわれるような光景だった。
こんなにも多くの人が、こうして集まり、祈りを一心にささげている。
私はそのなかで、なかば呆然としながらも、神のことを考えずにはいられなかった。
それは絶対的なものではなくて、心の中にいるそれぞれの神についてだった。
それとともに、ものすごいエネルギーを感じた。
教会のなかは外の世界とは完全にわけられた、異次元、、というより精神的な世界のようだった。
ミサが終わって、外に出ると、なんともいえない不思議な感覚を味わった。
まるで夢から覚めたような。


そんな体験があってからなのか、フランスに行ってもイタリアに行っても入れる教会にはみんな入った。
イタリアのコモ湖畔にある小さなさびれた教会に入れば、おばあさまが一人、座って祈りを一心にささげていた。ほかには誰もいない。そのときは邪魔をしてはいけないとそうっと教会を出た。だけれど、そのときもまたなにか心が揺さぶられた。

フランスの大聖堂は立派だ。ただ、観光客が多いのと雑多な感じはした。
しかし、モンマルトルまでくると雰囲気がだいぶ変わる。名の知れない教会では演奏会が行われ、これもまた静かに美しかった。

教会の楽しみはまた、かかげられた絵画にもある。
キリストやマリアさまや天使が描かれた絵を薄明かりのなかで見上げるとき、またことばを失うのだった。

日本のお寺での祈祷の場もまたそうであるように、祈りの場というのはほんとうに神聖だと感じた。一心であるということの美しさとするどさと、、、
その感覚を味わいたくて、どうしても足をふみいれてしまう。
自分もまた祈りの場を求めているのかもしれない。

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