カタカムナ考 10 (偽書考)

2017-05-15 13:10:15 | 日本語
カタカムナに戻ります。

前回は『東日流外三郡誌』という東北地方の古い歴史について書かれた本が、実は偽書であった、ということを暴いた本「偽書『東日流外三郡誌』事件」についてでした。

そこで、今回は、偽書とは何だろうか・・
ということを改めて考えてみたいと思います。
もしも『東日流外三郡誌』がフィクションとして公開されていたなら、
全く問題なかったはずです。

想像をたくましくすると、
フィクションであるはずのこうした物語が、年月を経る間に、いつのまにか真実の歴史とすり替わってしまう可能性は、全くないとは言い切れないのではないかと思うのです。

  東北に限らず、常に政治に翻弄されてきた庶民の立場から見た歴史観とも重なり、
  そうであったらどんなによかっただろう、きっとそうだったに違いない、
  偽書であろうがなかろうが、信じたい、という気持をかきたてられるのは、
  何も東北の人々に限りません。

と前回書きましたが、人々はたとえ偽書でもいいからこうした歴史を切望していたはずで、だとすると、この偽書は人々の切望を受け止める形で(人々の無意識の願望から、和田喜八郎という人物を通して)生まれた物語である
と言う風にも言えるのではないか。

歴史上に残る伝説の数多くはフィクションです。
古事記・日本書紀しかり。旧約聖書の創世記だってフィクションです。

前回の記事で、安本美典の言葉「真実は一つである」を引用しましたが、
今は少々疑問に感じています。

 真実って一つだろうか?
 それは誰にとっての真実なんだろう・・

ともあれ『東日流外三郡誌』は偽書で、今や疑う余地はありません。
あちこちからかき集めた、虚実あいまった情報を、適当に配置し、和田喜八郎が造りあげた本で、事実ではありません。
それでもなお、そこには尽きせぬ魅力があり、
だからこそ、人々を惹き付けてやまないのだと思います。

人々はこうした「もしかしたらありえたかもしれない歴史」を切望し、人々が切望することによって、あるいはこうした捏造された歴史が後世に残されていく可能性だってないとはいえないと思うのです。

歴史というのは、そもそも為政者、侵略者、権力者の側から見た「歴史」であって、それ自体真実かどうかわからないのですから。
庶民の側の偽書が、こうした権力側の歴史に取って代わられる時が来る、という可能性は否定できないと思うのです。

もちろん、だからといって何もかも無批判に受け入れるのは危険です。
私たちがいかに騙されやすい存在であるか、という認識は常に持っていたほうがよい。

それはさておき、
実は、カタカムナもこうした偽書の一つではないかと言われています。

カタカムナ発見の経緯が少々神がかっていること。
楢崎皐月が六甲山系の金鳥山で出会ったという平十字(ひらとうじ)は、その後彼の前に現れることはなく、
また、カタカムナ神社という名前の神社も存在していなかったこと。

そして、楢崎皐月の経歴、
戦時中軍関係の仕事をしていたとあるが、実は原子力開発に関わっていたという説もあり、また自衛同盟という右寄りの団体の中央委員でもあったこと(『謎のカタカムナ文明』参照)。

さらにまた、
肝心のカタカムナ文献が、楢崎の後継者である宇野多美恵の軽井沢の別荘全焼により全て失われてしまったという事実。宇野多美恵自身もその時焼死した。

貴重な歴史的文献が火事で失われるという、きわめて重大な事件の背景には、何らかの見えない力が働いた可能性があるのではないか。
つまり、カタカムナにはそれほど重要なことが隠されているのでは・・と想像をたくましくしてしまいます。

残されたカタカムナ文献は、楢崎がカタカムナ研究のために立ち上げた「相似象学会」が発行していた「相似象学会誌」という機関紙のみ。そして、相似象学会も宇野多美恵の死後消滅した。

こうした事柄の数々が、どうも怪しい、カタカムナは楢崎の捏造ではないか、あるいは、オカルト、秘教秘儀の類ではないか、と疑いの目で見られる原因かもしれません。

なぜ、楢崎皐月はカタカムナを一般公開しなかったのか。
なぜ、後継者を宇野多美恵一人に絞ったのか。
なぜ、文献が火事で焼失したのか。
なぜ、相似象学会は消滅したのか。

これらの問いに対する答えは、どこかにあるのかもしれませんが、
インターネット、あるいは入手可能な本を読んだ程度ではわかりませんでした。

でも、
カタカムナが伝える世界や宇宙の成り立ちは、
きわめてロジカルでシンプルで、現在の量子力学やフラクタルに通じるものがあり、
大変魅力的です。

そこで、
もう少し、カタカムナそのものに絞って、私自身の直感をたよりに、
一体、これはどのようにして私たちの元にもたらされたのか、
考えてみたいと思っています。

吉野信子(『カタカムナ言霊の超法則』の著者)はカタカムナ解読にあたり、
「相似象学会誌」を読みこんだけれど、そこには自分の探していたものはないと判断し、本を括ってしまいこみ、
直感でカタカムナ解読の努力をしたといいます。

同じ方法で考え続けていたら、
もしかすると、私にも何らかの解読の糸口が見つかるかもしれない・・

人はこれをオカルト、といいますが、
オカルト、というのは、そもそもラテン語のoccult(隠されたもの)という言葉から来ています。

科学的な思考も、今では量子論のように、素粒子の振る舞いが粒子なのか波なのかわからない、箱の中の猫は「生きている状態」と「死んでる状態」が重なりあっている、など、むしろオカルトに近くなってきています。

カタカムナ関係の本を読みこみながら、私自身の直感も鍛えていきたいと思っています。
(敬称は省略しました)

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