ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

何かを探して ≪前≫

2017-08-12 15:05:34 | 思い
 この夏、我が家の庭に、
1本の薄紅色の草夾竹桃が花を咲かせた。
 この5年間で初めてのことだ。

 種を蒔いたおぼえも、苗を植えたおぼえもない。
なのに、1本だけ、50センチ程にすっくと伸びたその先に、
しゃれた赤が鮮やかである。

 それにしても不思議だ。
何故今年、この一輪が。
 きっと、ここに庭ができた時から、根はあったのだろう。
根付いていた苗が、ようやく芽吹き、
成長して開花を迎えたに違いない。

 さて、そのようなことは、
草花に限ったことではないような気がする。
 知らない所で、徐々に徐々に変化をとげ、
やがてその成長した姿を現す。
 時に、その姿に私たちは驚き、感動する。

 しかし、そんな変容には、
必ず秘められた何かがあってのこと。

飛躍するが、この年令になってなお、
そんな何かが私にもあってほしいと願う。

 心の奥深くで、今もじっとしている何かを探してみた。
何故か、ずうっと消えない何か。
 あいまいだが、ふと思い出す何か。
確かに息づいている何かを記してみる。


  ① 
 草野心平という『カエルの詩人』を知ったのは、
もうすぐ40歳になろうとしていた頃だった。

 ある研修会で、彼の前衛的な2つの詩が紹介され、
息を飲んだのが、最初だった。

 その1つは、題が『冬眠を終えて出てきた蛙』だった。
その詩は、なんと漢字四文字であった。
 『両眼微笑』。それだけ・・・。

 その時、口はしばらく半開きのまま、
その後、片肘をついて手に頭を置いた。
 ただただビックリ。
そして「まいった。」とつぶやいていた。

 もう1つには、さらに驚かされた。
題は『冬眠」。
 その本文に目を疑った。
それは、『 ・ 』。つまり黒丸が1つだ。

 確かに「冬眠」とは「・」と言えよう。
「そんな馬鹿な。」と怒ることなどできなかった。
 すごいインパクトに脱帽しかなかった。

 彼は、明治36年に生まれ、85歳の生涯で、
多くの詩を残している。
 そのほとんどを、私は今も知らない。
だが、時折、訳もなく思い出し、
感傷にひたる詩がある。


     秋の夜の会話

  さむいね
  ああ さむいね
  虫がないているね
  ああ 虫がないてるね
  もうすぐ土の中だね
  土の中はいやだね
  痩せたね
  君もずゐぶん痩せたね
  どこがこんなに切ないんだらうね
  腹だらうかね
  腹とったら死ぬだらうね
  死にたかあないね
  さむいね
  ああ虫がないてるね


 遠くから虫の音が届くだけの、
静寂の秋の長い夜だろう。

 男女の蛙の何気ない、気ままなやりとり。
その空気感が、たまらなくいい。
 ぼやきとも、あきらめとも違う、
現実をふわりと受け止めあう男女の会話がいい。

 『さむいね』『ああ虫がないてるね』
その余韻が、この詩を知った時から、
どれだけ長い年月を経たのか。
 今もなお、そのまま私の中にある。

 もしや、ずっと二人に憧れて・・・?
いや、そんなことじゃなくて・・・。


 ②
     死んだ女の子

  とびらをたたくのはあたし
  あなたの胸にひびくでしょう
  小さな声が聞こえるでしょう
  あたしの姿は見えないの

   10年前の夏の朝
   あたしはヒロシマで死んだ
   そのまま6つの女の子
   いつまでたっても6つなの

  あたしの髪に火がついて
  目と手がやけてしまったの
  あたしは冷い灰になり
  風で遠くへとびちった

   あたしは何にもいらないの
   誰にも抱いてもらえないの
   紙切れのように燃えた子は
   おいしいお菓子も食べられない

  とびらをたたくのはあたし
  みんなが笑って暮らせるよう
  おいしいお菓子を食べられるよう
  署名をどうぞして下さい


 いつ頃、この詩を知ったのか、その記憶ははっきりない。
きっと若い頃だろう。

 舞台に上がった女性が、女の子を演じ、朗読した。
私は客席でそれを聞き、目頭を熱くした。
 おぼろげだが、この詩との出会いは、
そのようだったと思う。

 原詩は、トルコの社会派詩人ナジム・ヒクメットで、
1957年に発表されたらしい。
 当時、日比谷高校の社会科教師だった
木下航二さんによって、曲が作られた。
 原水禁運動の集会や歌声喫茶などで、
盛んに歌われたようだ。

 しかし、今もその歌を私は知らない。
だから、私にとって『死んだ女の子』は、
歌ではなく、あの女性が朗読した詩なのである。

 ヒロシマで死んだ6つの女の子が扉を叩く。
その叩いた扉の音が、
「胸に響くでしょう?」と私に問う。

 「冷い灰になり 風で遠くへとびちった」、
「紙切れのように燃えた子」。
 その無念さ、悔しさがたたく扉の音である。
それはどんな人の胸にだって、響くだろう。
 そう、あれからずっと私の胸の奥底にもある。

 胸の響きのやり場に困ったこともあった。
共感することで、その響きを静めたこともあった。
 今をしっかり生きることで、響きと向き合うことになると、
納得したこともあった。

 『署名をどうぞして下さい』
女の子の願いはそこに集約されていた。
 「それはそれ!」だが・・・。

 でも、あれから72年、
ずっと扉の響きの中にいて、
今、それを聞き続けることだけ・・・。
 それが、きっと、何かの芽吹きになると信じている。

                      <つづく>



   いたる所 姫ヒマワリが満開
  

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