ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

真相は どこに

2017-07-08 20:32:19 | あの頃
 3年前の7月7日に、表題『ブログをはじめます』で、
このブログを開いた。
 その翌々日、表題『ジューンベリー』で、
本格スタートとなった。
 以来、週1回の更新を基本とし、
今回で160回にわたり、私の想いを綴ってきた。

 確かな数字はつかめないが、
読んでくださっている方々が、間違いなくおいでになり、
時には手紙や葉書、メール等々が届く。
 私の大きな励みになっている。

 ブロク開設にあたり、『シンボルツリーはジューンベリー 
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして』、
こんな言葉で、このブロクのテーマ説明を試みた。

 しかし、それが様々な理解を呼んだようだ。
今日までの私の歩みの、ちょっとした拾い物を、
置き忘れないようにしたい。
 そんな思いを説明したつもりだったのだが・・・。

 それにしても、この3年間で記した「拾い物」は、
様々だった。
 しかし、まだ拾い忘れている大切なものはあるような気がしている。

 これからもその1つ1つを私なりのやり方で、しっかりと掌に載せ、
形を整え、このブログに載せていきたいと思う。

 さて、そろそろ本題に移ろう。

 小学校入学時から高学年になるまでの私は、
引っ込み思案で口数の少ない子だった。
 とにかく臆病で失敗を怖がった。
友だちの輪には近づこうともしなかった。

 そんな私に、追い打ちをかけるようなできごとがあった。
その記憶をたどってみる。

 ▼ 1年生の秋だ。学芸会があった。
今とは違って、出演できる子は、
先生たちが決めた選ばれた子たちだけだった。
 当然私は、その対象外だ。

 当時、私の小学校にはまだ体育館がなく、
近くの公民館のような所が会場になった。

 今思うと、保護者が学芸会を見る日は、
出演する子以外は学校がお休みだったようだ。
 私も休みのはずだった。

 ところが、学芸会の前日のことだ。
休み時間に、教室の自席でぽつんとしている私に、
担任のT先生が寄ってきた。
 
 「あのね、明日の学芸会で、
『はじめの言葉』を言ってもらうからね。」
 ニコニコした顔で、私の耳元で言った。

 その日の放課後、学芸会の会場で前日準備があった。
私は、そこで忙しく動き回るT先生の後ろを小走りで追った。

 「お父さんお母さん、学芸会に来てくれて、
ありがとうございます。
 これからN小学校の学芸会を始めます。
どうぞごらんください。」

 私は、T先生の口まねをして、
その言葉をくり返しながら、
T先生の後ろをついて回った。
 先生と私だけの特別の時間だった。
楽しかった。
 そして、その言葉の全てをおぼえた。

 準備が終わった舞台に、T先生など数人の先生がいた。
私は、ゆっくりとマイクの前に立ち、お辞儀をしてから、
おぼえた言葉を言った。

 「明日も、その調子でね。」
別れる際、T先生は翌日の集合時間と公民館の待ち合わせ場所を、
教えてくれた。
 時間も、場所も、他の1年生とは違っていた。

 その朝、母は「こんな服しかないよ。」と言いながら、
洗い立てのシャツと半ズボンをタンスから出してくれた。

 私は、他の学年の出演者たちに混じって、
集合場所になっていた公民館の庭に行った。
 約束の時間が迫ってきた。
胸がドキドキしていた。

 一緒にいる他の学年の出演者たちが呼ばれた。
公民館に入っていった。
 私の『はじめの言葉』が迫っている。

 しばらくそこで待った。
だが、いっこうに私は呼ばれないのだ。
 時間が過ぎていった。
それでも何故か、私は呼ばれなかった。
 ドキドキは消えていた。

 きっとT先生は、私が来ていないと思っているのだ。
私は、集合場所を少しだけ変えてみた。
 そして、公民館に向かって、胸を張って立った。
「T先生、ぼくはここですよ。」
 大声を張り上げたかったが、できなかった。

 やがて、別の学年が集まってきた。
そして、公民館へ入っていった。
 最初の学年が演技を終えて、帰って行った。

 私の『はじめの言葉』がないまま、学芸会が進んでいったことを、
小さいながらも推測できた。
 それでも、私はT先生との約束通り、集合場所から離れなかった。

 いつまで経っても、T先生も他の先生も私に近寄ってこなかった。
私は、公民館の庭にしゃがみ、土いじりをしながら、
T先生との約束を守り続けた。

 さて、どのくらいの時間、そこに居続けたのか、全く記憶がない。

 長時間の末、
「こんなことを待ちぼうけって言うんだ。」と思った。

 すると、急に涙がぼたぼたと地面に落ちた。
いっぱい涙がでた。
 昨日のT先生との楽しい時間が、ウソになった。
そのことで心がいっぱいになった。
 それが涙になった。

 でも次に、私はしっかりと立ち上がって、公民館をにらんだ。
「こんなことで負けない。」
 家までの道々、何度もつぶやいた。

 ▼ その4,5年前になるが、
父はある労働争議で大きな会社をやめていた。
 私の小学校には、その会社の家族が多かった。
そのことが、影響したのかどうか、真相はどう探っても闇の中である。

 「はじめの言葉はなかったんだよ。」
夕食の時、そう伝えても、
父も母も、学校に問いただそうとも、
怒りをあらわにしようともしなかった。
 きっと、何かを察していたに違いない。

 3年生の時、私は2か月以上にわたり闘病生活を送った。
その時、担任も級友の1人も見舞いには来なかった。

 毎日、誰かの訪問を待った。
しかし、ついには待ちくたびれた。
 すっかりとあきらめた。

 私の存在感のなさがそうさせたのか、
それとも他の要因なのか、それもよく分からない。

 さて、そんなことをくり返し、孤立感を深めていく私だが、
高学年になるにつれ、徐々に変身をとげた。
 明るく楽しい、しかも行動的な男子になっていった。

 なぜそうなったのか。これまたよく分からない。
「あなたの性格よ。」
 母は、明るくそう言った。





サイカチ記念保護樹木
  (仙台藩亘理伊達家が入植した時に植えた)

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