ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして


宿題のままでは ・・・・・

2017-07-15 09:24:50 | 思い
 つい先日、暇に任せ机の引き出しの物を引っ張り出し、
整理もどきの時間を過ごした。
 すると、もう30年以上も前に書き記した文章が、
いくつか出てきた。

 その1つに、心が大きく揺れた。
原稿用紙6枚弱のものである。
 いつか挑戦したいと思いつつ、ずっと気にかけていた。
しかし、こんなにも長い月日が過ぎてしまっていたとは・・・。
 愕然とした。

 さて、この宿題にいつ向かうのか。
あの頃は、土曜日の午後や休日に県立図書館によく行った。
 読めない歴史資料にも、何度も挑戦した。
なのに、次第に忙しさに追われ、興味が別へ移っていた。

 そんな事情もあったが、その文面をここに転記する。
そして、「これを宿題のままにはしておけない。」
と、小さくつぶやく。


     *   *   *   *   *


     レポート・あの旅から

 甲州(山梨県)に、武田信玄がいた。
彼は1572年秋、大軍をひきいて古府中を発ち、西へと向かった。
 これは、大敵・織田信長を討ち、
京へと上ることが目的だったとする歴史学者が多い。
 その西上半ばの1573年春、彼は他界している。

 その途中であるが、亡くなる約半年前のこと、
当時三河(静岡県と愛知県の一部)の支配者であった徳川家康と、
信玄は一戦を交えた。
 彼は、家康を死の恐怖にさらす程の大勝をおさめた。
これが『三方ヶ原の合戦』である。

 家康は、この大敗によって、逆に強くなったと言われているが、
日本史的にはさほど大きなことと、されていないようである。

 私が小学生の頃、父はよく戦国物の小説を読んでいた。
特に宮本武蔵や忍びの者などに詳しく、
高学年になった私に、よく語ってくれた。
 だから、1つの血とでも言うのだろうか、
最近では、本屋へ足を運ぶたびに、
戦国物に惹かれて1冊2冊と買い求めていた。

 そんな読書体験の中から、
いつしか前述した合戦を詳しく調べてみたくなり、
ある年の春、浜松へと足を伸ばしてみた。

 ものの本によると、この合戦は、
浜松の北方に位置する台地「三方ヶ原」で行われ、
その激戦地は、『千人塚古墳』とも『根洗の松』とも言われていた。

 夕闇せまる浜松城(当時家康の根城)に立ち、浜松市中を一望した翌日、
三方ヶ原台地の南に位置する「千人塚古墳」を訪ねてみた。

 この古墳は、「三方ヶ原学園」という養護学校の広大な園内にあった。
一説によると、三方ヶ原の合戦で死した武田・徳川両軍の武士を、
葬ったものとされ、死者が千人にも及んだところから、
千人塚と言うとされていた。

 私は、現地調査が数多くの収穫になることを確信し、
静かな学園内の古墳と思われる丘陵を、一人散策してみた。
 学園の受付でいただいた薄いパンフレットを読みながら、
都会の喧騒を離れ、春を告げる鳥たちの声を聴いた。

 素敵な一時だったが、ここでの収穫はゼロだった。
三方ヶ原の合戦の激戦地は、千人塚古墳ではなかった。
 戦国期にまつわる伝説は、発掘調査の結果、
全く根拠がないとパンフレットに記載があった。

 限られた時間の旅である。
私は、急ぎその地を去り、次に「根洗の松」を探した。

 浜松近郊に、「根洗」という地名はあるが、
「根洗の松」という地名も名所もないのだ。
 でも、「根洗」まで行けば、それはあるものと信じていた。

 ところが、土地の方に尋ねても、首をひねるだけ、
その上、市の観光課に問い合わせの電話をしても、
知らないという有り様なのだ。

 全く収穫のない旅かと、肩を落とした。
ところが、何が私をそこへ案内したのだろうか。

 大通りに出るためマイカーで曲がった農道の隅に、
石碑を1つ目撃した。
 確かに「根洗の松」と大きく刻まれているのだ。
「これだ。」
 一人、歓喜した。

 車を降り、石碑付近の道を走り回った。
ここが激戦地なら、どこかに河原か何か、
石のいっぱいある所があるはずだと考えていたからだ。
 いくら走り回っても、周辺に石はなく、赤土の道路と畑、畑であった。

 「千人塚古墳」が違うなら、「根洗の松」以外に激戦地はない。
激戦地では、合戦の始まりに武田軍は、石つぶてを投げ、
徳川軍を挑発したと言われている。

 その挑発行為が、徳川軍を刺激し、
家康の命令前に戦闘が始まり、徳川軍は混乱し、
武田軍を大勝に導いたと聞いている。

 『石つぶて』と言う源平の合戦のような、
原始的で幼稚な戦法に、私は興味を持った。

 だが、『根洗の松』付近に石はない。全くないのだ。
するとどういうことが考えられるだろう。

 予定の時間がおとずれ、ここで私の旅は終えた。
そして、数日後、疑問は1つの推理として解けた。

 当時、信長はすでに多くの鉄砲を保有していた。
一方、山岳の武田に鉄砲の輸入は難しく、数も少なかった。

 その頃、鉄砲の飛距離は100メートル程度のもので、
威力もさほどではなかった。

 そこで武田軍は、剛腕な若者の投力で、
それを代替したのでないだろうか。
 織田の鉄砲隊に対し、武田の騎馬隊と言うが、
それと同時に武田には、
石つぶて隊が実在していたのではなかろうか。

 石つぶてが、武田にとって鉄砲同然の武力であったとするなら、
その武器を「戦場で調達する」、
つまり石をひろって投げるような不合理を、
信玄は断じてしない気がする。

 石は、武器として身に付け戦場まで運んだことだろう。
しかも、その石は投げやすく、
当時の鉄砲と同程度の威力を持つように、
重さや形などに工夫がほどこされていたに違いない。

 それが、戦国末期に出現してきた忍びの者が用いた手裏剣に、
つながっているのでなかろうか。

 さて、この推理は、今後の勉強できっと成否が分かると思うが、
その石つぶて隊に、11歳になる少年・善太がいた。
 そんな物語を書いてみたいと思うのだが・・・。




  『丘虎の尾』(オカトラノオ)が咲き出した
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