精神世界と心理学・読書の旅

精神世界と心理学を中心とした読書ノート

宦官を拒否した日本(1)

2017-02-13 22:52:13 | 日本の文化
◆「日本文化の選択原理」(小松左京)(『英語で話す「日本の文化」 (講談社バイリンガル・ブックス)』)(この論考は、もともとは1985年に講談社から出版された『私の日本文化論』シリーズ3冊のうちの一冊に収録されたものらしいが、今はすべて絶版で、そのかわり上の本に収録されている。)

「日本文化の選択原理」とは、このブログのカテゴリーで言えば「いいとこ取り日本」にあたり、このブログで追求し続けている「日本文化のユニークさ8項目」のうち、第5番目に関係する。

(5)大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明のの負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。

多くの論者が取り上げてきた日本文化の特徴だが、小松左京独自の視点もあるのでまずこの論考を短くまとめ、その上で、その選択原理とは何だったのかを私なりの視点で考えたい。

ふつう文明とは、その基礎にひとつの大きな原理があり、それに従って様々な社会システムや文化が成り立っている。日本も統一国家となるときにこのような文明の影響を受けているが、それはもちろん中国文明である。漢字の流入に続き、律令制や儒教も入ってきた。およそ1300年前のことである。ところが日本の場合、そのシステムのすべてを受容するのではなく、こちらの選択によってその大切な要素の一部を拒絶するのだ。たとえば、律令制度の重要な一部である、宦官や科挙の精度を受け入れていない。

律令制度の導入により、皇帝は血のつながった世継ぎを作らなければならないから後宮で何人もの妃をもたなければならない。日本にも後宮の制度は導入されたが、それを管理する去勢された男子・宦官の制度は日本だけが導入されなかった。宦官の制度の背景には、牧畜技術としての家畜の去勢技術があるが、この技術も日本には入ってこなかった。むしろ、家畜の去勢技術を知らなかったから人間を去勢する制度も持ち得なかったのかもしれない。

また儒教は積極的に学びながら、儒教の根本原則の一つである同姓不婚という制度は日本に入ってこなかった。これは、同じファミリーネームをもつ男女は結婚できず、また異なる姓の男女が結婚すると、互いにもとの家の姓を名乗るという制度だ。

西欧の近代文明やその制度を、非西欧諸国の中でも最も早く熱心に導入しながら、その根底にあるキリスト教そのものはかたくなに拒んでいるというのも、そのよい例だろう。

こうして見ると日本は、大陸の文明に強く影響されその多くを、あるいはそのほとんどを取り入れながら、文明の根幹となっているいくつかの重要な要素の受け入れを拒んでいるのがわかる。島国である日本は、外来文明による圧倒的な侵略、制服を経験したことがない。だから文明を主体的に「いいとこ取り」して受け入れることができた。つまり「それまでの日本人の、ごく自然に形成されてきた感覚と合わないものは、上手に外してしまう、という余裕があった」というのだ。

ただ、小松左京は、「日本人の、ごく自然に形成されてきた感覚」、つまり日本人が恐らくはほとんど自覚なしに行う取捨選択の感覚、その感覚の背後にどんな原理が働いているのかまでは論じていない。しかし少なくともそれは、中国文明導入以前から「自然に形成されてきた」、日本人独自の感覚であることは間違いないはずだ。私にはその選択原理こそが問題であり、しかもそれは「日本文化のユニークさ8項目」の他の項目、とくに次の2項目に関係しているように思われる。

(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

(3)ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した。

では日本文化の選択原理がどのようなものであり、上の二つの項目にどのように関係するのかについては、次回に考察したいと思う。

《関連記事》
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《関連図書》
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)
古代日本列島の謎 (講談社+α文庫)
縄文の思考 (ちくま新書)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)
 

日本がキリスト教を受け入れないのはなぜ? 

2017-02-13 13:55:53 | 日本の文化
「日本になぜキリスト教が広まらないのか」という問いにまともに取り組んだ本はほとんどないのではないか。しかし、このブログでこのテーマを扱った記事へのアクセス状況から判断すると、この問への日本人の関心はかなり強い。関心が強いのにこのテーマを扱う本が少ないのも不思議だ。調べてみると、一冊そのものずばりのタイトルの本が見つかった。以下の本だ。

◆『なぜ日本にキリスト教は広まらないのか―近代日本とキリスト教』(古屋安男)

読んで見ると、キリスト教プロテスタントの牧師の立場から、近代日本とキリスト教の関係の様々な問題を扱った講演集で、その中の一章「日本とキリスト教」が、タイトルにあるような問題を論じている。キリスト教の牧師の立場から、つまり信仰と布教という関心からこの問題を扱っているわけだが、やはりその立場上、日本での布教活動の何が問題だったのかという関心に終始し、深い文化論的な視点からの考察はない。その意味ではあまり参考にはならないが、しかし、布教上の問題しか視野に入らず、日本文化の本質に迫るような視点がないことを明らかにすることで、私がこれまで考察してきたような文化論的な視点の重要さが浮かび上がるのではないかと思った。

日本のキリスト教徒が総人口のおよそ1%ということはかなり知られ事実だが、この割合は韓国に比べてはるかに小さく、共産主義の国といわれる中国よりも少ない。韓国は30%以上がキリスト教徒と言われ、中国も総人口の5%がキリスト教徒と推定されるという。

著者は、日本のキリスト教徒はなぜこうも増えなかったのかという問いに、明治以降の日本でのキリスト教受容のあり方から答えようとする。日本での最初のプロテスタント・キリスト教徒の多くは、佐幕派の武士階級であった。佐幕派であったため立身出世の夢を断ち切られた若者たちが、キリスト教の精神での日本の近代化を志したのだという。ピューリタンの精神が武士階級の人々にとって共感しやすい一面があったのも、この階級の人々に最初に広まった一因かもしれない。

そして武士階級が最初の信者だったことが、その後のキリスト教の伝道の不振を招いたのではないかと著者はいう。教会は、武士階級を中心とした特権階級が集まるところとなり、庶民には敷居の高いところとなってしまった。韓国や中国では、まず大衆階級に入り、そこから中層、上層の階級にも広がった。ところが日本では、最初の信者の多くが武士階級であったため、上層にも下層にも広がらなかったというのだ。

しかし、最初に武士階級に広がったとしても、日本の庶民にも訴える力がキリスト教そのものにあれば、最初の受け入れ階級が何であれ、その障壁を超えて広がっていくはずだから、この理由は問題の本質を突いているとは思えない。

もう一つ著者が挙げている理由は、多くの人が指摘している日本の「天皇制」だ。天皇制があるかぎり、キリスト教は広がらないというのだ。天皇制が、日本でのキリスト教の布教にとって最大の障害だと言われることは、著者自身、否定できないという。「真の神を知らないから天皇を『神』にする」のだと著者はいう。まるでキリスト教の唯一絶対神と天皇とを対立するものであるかのように捉えているが、これはあまりに単純かつ表面的な見方だ。天皇を唯一絶対神のように崇める日本人がどれだけいるだろうか。むしろ天皇は、日本人の相対主義的な考え方の中に位置づけられてきたし、今もそうであろう。天皇の存在に象徴されるような日本文化全体の相対主義的なあり方こそが、キリスト教を受け入れない背景にあるのだ。

一方で著者は、日本の教会がもっと大衆的になれば日本にも信者は増えると希望的な観測をしている。日本では、キリスト教が武士階級をを中心とした知識階級にまずは入り、知識階級の宗教という性格を脱することができなかった。韓国や中国は大衆階級から上層部にも広がった。日本のキリスト教も教会が大衆的になることで、変化していくだろうというのだ。

日本にキリスト教が広まらない理由として、以上のような捉え方はきまめて表面的で、日本文化の本質への洞察が全く欠けているいることは、このブログの読者ならすぐに気づくだろう。

たとえば昨日アップした「キリシタンはキリスト教をどう変えたか」でも、遠藤周作の『切支丹時代―殉教と棄教の歴史 』に触れ、かくれキリシタンの信仰が、聖母マリア中心の母性イメージの信仰に変質してしまうことに触れた。これは、逆に言えば日本にキリスト教が広まらないことの本質的な理由を暗示している。つまり、あまりに父性的性格の強い唯一絶対神を信仰するキリスト教は、日本人の体質に合わないのだ。

それは、縄文時代の太古から日本文化を育んできだ土壌が、きわめて母性的な性格の強いものだからではないか。そのような土壌が、唯一絶対の父なる神を信じるキリスト教に対して拒否反応を起こさせるのだ。日本人の心には、縄文時代以来の自然崇拝的、多神教的な(全体として強力に母性原理的な)傾向が、無意識のうちにもかなり色濃く残っており、それがキリスト教など(父性原理の強い)一神教への、無自覚だが根本的な違和感をなしている。多神教的な相対主義を破壊するような一神教的な絶対主義が受け入れがたい。
詳しくは、このブログのカテゴリー「キリスト教を拒否する日本」を参照されたい。

ともあれ、プロテスタントの牧師という立場からこの問題を探ろうとしても、日本文化の根元に横たわる理由にまで思い至らないのは、無理からぬことかかも知れない。根本的な理由に目を向けてしまたら、キリスト教の布教者としては絶望するほかないからだ。

《関連図書》
ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
日本の曖昧力 (PHP新書)
日本人の人生観 (講談社学術文庫 278)
古代日本列島の謎 (講談社+α文庫)
縄文の思考 (ちくま新書)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)
日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)
アーロン収容所 (中公文庫)
肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)
日本人の価値観―「生命本位」の再発見