レモラ 日本版

弱主体性

引用:片岡義男 (約20年前の本あたりに諸々既に書かれているのかも)

2015-04-14 | 引用
#150409kataokayoshio (2015/04/13 追加)

日本語の外へ 片岡義男/著 筑摩書房 1997

 消費の担い手としてのひとりの人は、あまりにもひとりであり、あまりにも多くの部分に寸断され、あまりにもそのときだけだ。そしてあまりにも次々に、消費活動をしなければならない。ひとりの人という存在にあるべきひとつのトータルな意味は、かたっぱしから失われていく。ひとりの人とその周囲にあるべき固有の文化は消えていくのみだ。というよりも、そのようなものがあらかた消えて久しいところに、情報化社会・ソフト化社会は成立していく。
(P565)

 ごく早い時期、たとえば小学校の低学年で自己責任を関心の外に置く訓練を受け続けると、それ以後は個人としての生活の真の充実など、初めから思いもしない日々のなかを生きることになる。そしてそのような日々でも幸せで快適であったりする。なぜなら、あらゆるもののとらえかたや見かたがどこまでいっても私的だから、対象がなにであれ自分の都合だけで接していくことが可能だからだ。接したくなければ見なければいいのであり、見なければどんなものでもそれは存在しないも同然となる。
 そのような日々の結果として、なにひとつまともには知らないという状態が、自分のものとして手に入る。真の個人とは、正確で広い知識にもとづき、自分の頭を使って自前で考え、それに対して責任を負う人のことだが、じつはこの状態がごっそりと抜け落ちたままの自分を、自分として維持しなければならない。
 なにかあったときの彼らにとって頼りになるのは、まったく鍛えられていない、したがってごく浅い主観だけだ。浅い主観や心情を絶対化し、それをすべての判断の基準に使わざるを得ない。自分というものにきわめてファナティックにこだわった状態がそこに生まれる。そのような状態は独善と言われていて、それは幼稚さと同義語だ。情緒は曖昧なものだ、と普通に言われている。それは間違いだ。情緒や主観ほど固いものはない。それは頑固さに徹底することであり、自己改革力を放棄することを意味する。
 浅い主観をほしいままにしていると、最後のつけはすべて自分に返ってくる。客観というもの、つまり唯一の正式な場やそこでの厳しいルール、公共性、公共財などが決定的に欠けた社会を、個人の力という改革力がないままに、最終的には個人が一身に引き受けなければならなくなる。個人にまわってくる負担が並はずれて大きくなる。しかしそれを耐え忍び、なんとかごまかしつつかわしていくという、精神にとっても肉体にとっても不健康な日々のなかに、誰もが結果平等で囲い込まれる。

 (P483-484)

 創意は個人の自由な発想からのみ出てくる。ひとりひとりの頭がどれだけ質の高いことを考え、それを実行に移して達成できるか。これからのビジネスは質が決定していく。個人の自由というものを知らないままに来た五十年のつけは重い。自分はこれを試みてみたい、こう生きてみたい、というふうに自分のやりたいことを自前で見つけ、それを存分に追ってみる日々、そしてそれを支える柔軟なシステム、どちらも日本にはない。そこにあるのは、これまでという過去を守るルールが、現在および未来にもあてはめられているという、閉塞感のきわまった現実だけだ。過去を守るルールが現在および未来に対してあてはめられていることのもたらす、もっとも大きなマイナスの結果は、国の生産性の低下だ。
(P612-613)

 間違ってはいなかったものとして、戦後の日本にはなにがあるだろう。普遍的に作用する力を持った、基本的なルールのようなもの。新憲法だけがそれに該当する。そしてそれはアメリカによって用意されたあたえられたものであり、この五十年間の日本の現実は、ほとんどあらゆる領域で憲法違反であった。
(P613)
(※ほかにそうした普遍的なものを何も作ろうとも考えようともしなかった、という文脈で使われているのであり、新憲法がすばらしいとか著者は言っているのではない。:by 引用者)

 地域の安定をこんなふうに作っていこうという提案、そしてそれに沿って地域の各国と作っていくさまざまな関係の維持のなかにしか、日本の安定はない。威嚇にそなえる軍備というものが過去のものとして後方へ後退していくいま、日本にとっていちばんやっかいな、したがっていちばんやりたくない作業が、じつは地域内でのこのような関係作りなのだ。
(中略)
 地域のこれからというものを、日本はどうとらえているのか。平和がいちばんいいにきまっているが、ではその平和を作り出すために、日本はなにを提案するのか。なにをしたいのか、なにが出来るのか。国家が軍事力ですべて請け負いますという答えは最悪のものだ。そうか、そういうことか、それはいい、と地域各国が正しく読み取ることの出来る、どこの国も賛同するこれからの全体像が、日本に描けるのかどうか。もし描けるとしたら、それを実現させていくにあたっては、たとえば日本国憲法の制約などなにひとつない。

(P598-599)

 ここにはないはずの、したがってめざす理想として常に追いかけるほかない(アメリカの:by引用者)リアリティは、自由や民主そして人権などによって支えられている。多彩に異質な個人たちの自由競争を支えるこれらの理念は、ごくわかりやすいひとつの言葉に言い換えるなら、なんのことはない、公共性なのだ。
(P124)

 世界のありかたを出来るだけ普遍的なものに接近させようと試みることは、アメリカのリアリティのひとつだ。そしてそのようなリアリティは、アメリカ英語のアメリカ的な使いかたのなかにある。マイノリティだったHIVポジティヴ者そして発症者たちは、このような信念が持つ公共性によって、ステレオタイプとしての扱いから救い出されることとなった。アメリカのリアリティは、たとえばこのように機能する。
(P126)

 株主に対する配当性向は高く、株主総会における株主の権限は強く、彼らは企業の活動を自分たちの利益のために厳しく監視していた。企業間の敵対的な買収が盛んにおこなわれていた。会社の資金の調達は、主として株式や社債によっておこなわれていた。銀行の役割は短期の融資に限定されていて、長期の金融での役割はいまにくらべるとたいへん小さかった。企業を監査する機能もまだ銀行にはなかった。
 会社に勤めて働く人の一般的な状況は、きわめて不安定なものだった。彼らにとって会社に勤めて働くとは、個人の株主によって意のままに搾取されることとほぼ同義だった。一九一○年代までは会社に勤めて働く人たちの転職率は高かったという。雇用の条件も状態もきわめて不安定だったからだ。一般の労働者たちは経営とは遮断された低い位置に置かれていた。
 一九二○年代になると状況は急激に変化していく。結論をひと言で先に書くなら、勤労者たちの地位は重要な位置へ向上していった。国のなかに道路がたくさん出来て整備され、通信網も広がった。国内の市場は拡大していき、重化学工業は飛躍的に発展した。さまざまな重要産業の基礎的な中心部分で、高い技能を持った労働者が大量に必要になった。しかし当時の日本社会には、そのような労働者を世に送り出すだけの教育システムはまだ存在していなかった。だから企業は自分のところでそのような労働者たちを育てていくことになった。育っていくためには長期にわたって勤続していなければならない。勤続期間が十年以上である労働者の割合は、一九一八年には四パーセントでしかなかったのに、二四年には十六パーセントに上昇し、三三年には二十四パーセントにまで達したという。
 (中略)
終身雇用や年功序列賃金は日本の伝統であり、情や和などとともに日本独特のものであるなどという説は、まったくフィクションだ。すべては企業にとっての都合から生まれたものだ。
 日本が帝国主義的な戦争に深入りするにつれ、軍事を中心とした産業は好況を呈した。そのような産業では配当が良くなった。このようなとき個人の株主に向けて大きく資産が傾くのは、労働者との関係において不公平だという考えが出てきた。その考えにしたがって、株の配当率を増やすには政府の許可が必要とされるよう、システムは改められた。
 (中略)
 企業に対する株主からの影響力が弱められた。それと関連して、長期の資金を提供する役割を銀行が担うことになった。「資本、経営、労働の有機的一体」などという言葉が政府から出ていた。これはまさに戦後のものではないかと僕は思うが、じつはそれは戦前にすでに確立されていた。

(P463-465)

引用:水木しげる

2015-04-11 | 引用
#150411mizukishigeru

総員玉砕せよ! [講談社文庫] (み36-9) 水木しげる/〔著〕講談社 1995

 まあ、ベリリウ島等は、ものすごく生き残りが少なかったので、模範ということになり、ラバウルではベリリウ島につづけということがよくいわれました。
 しかしベリリウ島みたいな島で全員が一度に死ねるというなら、玉砕は成功する。
 ラバウルの場合、後方に十万の兵隊がぬくぬくと生活しているのに、その前線で五百人の兵隊(実際は三、四百人)に死ねといわれても、とても兵隊全体の同意は得られるものではない。
 (中略)
 この物語では最後に全員死ぬことになっているが、ぼくは最後に一人の兵隊が逃げて次の地点で守る連隊長に報告することにしようと思った。だが、長くなるので全員玉砕にしたが、事実はとなりの地区を守っていた混成三連隊の連隊長は、この玉砕事件についてこういった。
「あの場所をなぜ、そうまでにして守らなければならなかったのか」
ぼくはそれを耳にしたとき「フハッ」という空しい嘆息みたいな言葉が出るだけだった。

(P355-356)


引用:椹木野衣(1999)

2015-04-05 | 引用
#150405sawaraginoi

平坦な戦場でぼくらが生き延びること 岡崎京子論 新版 椹木野衣/著 イースト・プレス2012

 たしかに日本はもはや、かつての戦後の焼け跡がそうであったような意味では「廃墟」ではありえない。日本は、ちょうどぼくの両親にあたる世代の、それこそ身を粉にするような努力によって高度成長を遂げ、日本を世界の経済的頂点にまで押し上げた。彼らはたしかにベストを尽くしたし、そこに由来する恩恵に対しては、どれだけ感謝してもしすぎるということはない。しかし他方で、そうして実現された「復興」が、先に触れたような意味で、日本全体を「あらかじめの事故状態」に導くものであったとしたらどうだろう。どんなに異常な事故が起こっても、ある意味でその事故以上に現実の方が前もって異常であり、したがって、「日常」からズレることによってはじめてその姿をあらわにする「非日常」を相対化してしまい、最終的にはその異常そのものを消去してしまうような場所だったとしたら。
 そのような場所では、「成長」も「発展」もほんとうはあったのだろうか。そうではなく、ぼくらにとっての「成長」や「発展」の意味するものが、もはや破壊にすら見えないくらい徹底した最終破壊なのだったとしたら?もしそうだとしたら、やはりぼくらは依然として、「廃墟」のただなかに住んでいるのではないのだろうか?
 ただしそれは、お決まりの文学的想像力やノスタルジーでとらえられるような品のよい「廃墟」ではない。そうではなく、もっとたちの悪い「明るい廃墟」とでもいうべきもの、物質が溢れ、活気に満ち、明るく輝いている–そのような廃墟。民家の至近距離に超小型の中性子爆弾が現れるような信じがたい事故が起きてもなお、国家や企業を糾弾し、暴動を起こしてでもその非を問おうともせず、明るく笑って環境ホルモンだらけのファンシーな廃墟になじむぼくらの、その壊れ方。
 かつて「明るい未来」ということばがあった。それは、ある意味で実現されたといってよい。ぼくらが住んでいる場所は、たしかに「明るい」。しかしそれが「明るい廃墟」でない保証など、もはやどこにも存在しない。

(P24-25)