レモラ 日本版

弱主体性

コカコーラの赤い看板は100年後もコカコーラの味がするだろう

2017-06-19 | その他
#170618saulleiter

(ネタバレあり)
【展覧会の感想】 写真家ソール・ライター展 (おすすめです/6月25日まで)

(0) 何がうつっているか?
フォントは何か?
柵の形は? ファブリックの織り方は?
傘、帆布の存在
(会場でとったメモより)

(1) 図録を見ながらこの文章を書きたかったが、会場で図録として売られていたものは「図録」とは何か言えない感じの「書籍」で正直買う気になれなかった(サンプルを手にとる他の来場者にも同じような雰囲気が見てとれた)。「デイヴィッド・ボウイ展で売られていたようなのを図録というんだよ」と思うのは固定観念ではなく、ああいう図録の標準的フォーマットはそれなりの必然性があるのかなと初めて思ったりした。

(2) 展示はBxW→カラー→絵画→ヌードで構成されていて、個人的にはヌードも生々しくインパクトがあったが、やはり目玉は1950−60年代のイーストヴィレッジ路上で撮られたカラー写真である。その中で突出して私を引きつけたのは「パレード(1954)」、次に「Horn & Hardart(1959)」という写真で、ポストカードがショップにあるかな(ないだろうな)と期待したがやはりなく、図録のことなども合わせて、自分の視点は異質なのかなと思ったりした。ただ、リンク先の画像が会場で見た印象と全く違うように、上記2作品はハガキにしにくいのかもしれない。ポストカードに選ばれるような作品はプリントの発色などに左右されない、この作家の特徴的な「抽象性」を持っていることに気づいた。

(3) こうした抽象性を「みんなで理解しましょう」的な(会場からなんとなく醸し出されている)方向づけは非常に「日本的」な感じがする(感じる自分のほうがおかしいのか)。作家がコマーシャルフォトと縁を切って、そうした抽象性・美意識に専念したといったイージーなストーリーにもっていきたいような方向づけも意図されているのかもしれないが、私が思うのは、そうしたストーリーとは逆に、この作家の本質はコマーシャルフォトの本質と通底していて、その一貫性・凝縮性がひじょうにユニークなのである。

(4) いつの時代でも、誰もが自分にお気に入りの商品を探している。新しい人や物との出会いに期待している、自分を幸せにしようと努力している(私はイネスという女性の写真にひじょうに惹かれた)。そうしたヌードなエブリワンが下着をつけ服を着て傘を持って家を出て表を歩く。この色、この柄、この形を選んだ人たちが存在した、そうした人たちが交差点や通りに佇んでいた、その傘で外出したときこんな雨が降っていた、そうした遠い昔のある一瞬に間違いなく存在した人や物や自然現象がかなり偶然的な確率で写真となり60年後の日本で見られている。そして自分たちもそういう存在であり、後世に痕跡として残るかもしれないし残らないかもしれないし、しかし残っても残らなくても、さらに言えばそのとき自分が生きていてもいなくても、自分には全く関係ないことなのである。写真家も、そうした未来性を雑念として持っていなかったからこそ、結果として未来的な写真が撮れてしまった、そして後世の人たちから未来的な意味が付与されても、晩年の写真家にはそうした社会的な意味づけはリアルではなかったのではないだろうか。図案的な抽象性が素晴らしいのではなく、そのとき図案的に撮りたいと思ったことがかけがえのないことなのだ。
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