移ろいゆく日々

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経済学に何ができるか

2016-10-16 10:18:22 | Weblog
 猪木武徳、中公新書(2012)の「経済学に何ができるか」を読了した。ここのところ、経済学に関係する一般書をいくつか読んでいる。きっかけは、大塚信一の集英社新書(2015)、「宇沢弘文のメッセージ」。2014年に逝去された経済学者、宇沢弘文の岩波書店における編集者を長く務めてきた元岩波書店社長、大塚信一の解説書だった。数理経済学の分野で画期的な功績をあげて、米国での評価が高く、ノーベル経済学賞もという呼び声もあったが、経済学の実践を意識して、自動車問題、公害の外部影響、そして成田空港問題と大変難しい、しかし誰かが手がけるべき問題を手がけてきた。宇沢の言う「社会的共通資本」、経済学で取り込まれないであろう領域を含む問題を取り組むという、火中の栗を学者として拾ってきた態度である。そして門下には多くの経済学者、経済人を輩出してきた。読まずにすごしてきた宇沢弘文は一般向けの書籍も多くあらわしており、その中で氏が強い関心を寄せてきた「地球温暖化を考える」岩波新書(1995)を読んだ。
 宇沢が取り組んできた問題を素人なりに整理すると、経済学が「人の経済に関する取り組みの理論化」を行うにあたって、理論化の前提となる系と与条件の外におかれた問題を経済の問題として組み込むことであったように思う。そこは倫理学であり、社会学であり、哲学の取り組みであって、狭義の経済学には当たらないことであったのだと思う。
 猪木武徳は、猪木正道を父にもつ、生粋の知的エリートであって、冒頭の書にもさりげなく分厚い知の組み立てが述べられている。小生の浅薄な理解ではとてもついてはいけないが、述べられたこと以外で興味が引かれたのは、宇沢や宇沢が師事したケネス・アロー、そしてウエヴレンなどに触れられていないことだった。猪木武徳は、経済学の元は倫理学である一方で、経済学は与条件の制約の中での学問であるので、最終的には政策判断は政治判断に委ねられるとの立場である。もっと砕いて言うと、経済学者によって正反対の政策提言を行うことは自明なのだと言っているように思った。宇沢はだからこそ、自身の倫理観で問題に取り組んできたのだが、猪木は経済学の限界を説くことで、むしろ経済学が文明に何をもたらすのかを明示しようとしていると思う。そして、
 経済学者は、その中で分かれる様々な専門分野から理論化を行い、また政策提言を行っている。例えば東日本大震災のあとも、例えば、戸堂康之、中公新書(2011)、「日本経済の底力」を著わしているが、ブックレヴューをみると星が1から5に評価が分かれる。愚才にはその是非はわからないのだが、提言の前提が人によって異なるとしたら提言こそが大事であって、その正否はないのかもしれない。
 経済学が21世紀も重要な位置を占めるのであろうが、今までの僕にとっては学生時代から自然科学ほどの位置づけを見出せなかった。しかし、猪木先生の説明は分かりやすく、そして宇沢先生の存在は経済学の実践を示しているのかと、経済学ができることについて思いをいたした。
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