DEBONAIR LIFE+LOVE

とりとめる

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2011年09月21日 | Weblog
変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ、変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を、われらに与えたまえ。
-ラインホールド・ニーバー

110913

2011年09月13日 | Weblog
『1973年のピンボール』で、ぼくがピンボールマシンに再開するシーンの美しさはずっと記憶の中にあって、
だけど、それがどう描かれていたのかは忘れていた。

先日読み返した時に「ああ、こういう風に書かれていたんだ」と、
それは金井美恵子の『軽いめまい』のスーパーのシーン(ここでは、読んでいて本当に軽くめまいを覚える)や、
映画『トレインスポッティング』のラストシーン、ユアン・マクレガー演じるマーク・レントンが
街中を逃走するときに彼が描く未来像のどうしようもなさと、それゆえの切実な想いと同じ手法だけど、
(ラストシーンで同じく走る『サタデーナイトフィーバー』でのジョン・トラボルタとの違い!)、
やっぱりピンボールマシンに再開する場面は再読(何度目かは覚えていない)しても美しかった。

庭の描写があまりにも美しくて、その場面に再開したくて、
よしもとばななの中で一番好きな『王国』を再読していると、
そのシーン、第1部にあったと記憶していたら第3部だった。

まあ、現代詩なんてまるごと一冊読み終えて、あとがきではじめて、
この本前にも読んだ!って経験があるからたいしたことないんだけどね・・・・

1109008

2011年09月08日 | Weblog
「あ、嬉しい。おじさまは、何時も、しんせつだから好きだわ、弱っちゃった、また好きになっちゃった、あたいって誰でもすぐ好きになるんだもん、好きにならないように気をつけていながら、ほんのちょっとの間にすきになるんだもの。此間ね、あたいのお友達が男の人に、一日じゅうお手紙を書いていたわ、人が好きになるということは愉しいことのなかでも、一等愉しいことでございます。人が人を好きになることほど、うれしいという言葉が突きとめられることがございません、好きという扉を何枚ひらいて行っても、それは好きで作り上げられている、お家のようなものなんです、と、そのかたの文章がうまくて、後のほうでしめくくりをこんなふうにつけてありました。わたくし旅行先でお菓子を沢山買って、それを旅館に持ってかえって眺めていると、誰が最初にお菓子を作ることを考えたのでしょうと、そんな莫迦みたいなことも書いてございました。」


「そうかい、人間では一等お臀というものが美しいんだよ、お臀に夕映えがあたってそれがだんだん消えて行く景色なんて、とても世界じゅうをさがして見ても、そんな温和しい不滅の景色はないな(後略)」


3歳の金魚(人間でいうと二十歳ぐらい)と一緒に暮らす老作家の話。
『密のあわれ』室生犀星

110906

2011年09月06日 | Weblog
ふと、この夏、甲子園球児が自分より年下であることに驚かず、
やっぱ高校生、幼いな、と感じていた。
出張の帰り、鞄の本を読み終え、キヨスクで『1973年のピンボール』を購入すると
翻訳会社をはじめた僕も鼠もぼくより年下になってジェイだけが年上であることに驚く。やれやれ。
(同じ年ぐらいな感覚)

110905

2011年09月05日 | Weblog
<『家電のように解り合えない』
のチケットを購入。
チェルフィッチュの岡田利規さん、ダンサーは森山開次くん、舞台美術は金氏徹平って
当日どうなっちゃうんだろうという組み合わせ。
岡田さんの空間、登場人物、時間の流れを絵画のキュピズム的にアプローチしていく展開と
ストーリー、音楽に身を任せる森山くん。
僕が今、日本の現代アートの中で、一番リアリティを感じるのは
彫刻をやっている人たちで金氏徹平はその中の一人。
もちろん彫刻をやっているそれぞれの人によって、
感じるリアリティは別のところにあって、小谷元彦さんは身体性とその気配に、
名和晃平は知覚、感覚のゆらぎ、金氏はその流動性の中にある。
インタビューを読むと今回の公演、舞台装置も毎回変えていこうかな、というようなコメントも。
初日と千秋楽のチケットはまだ残っていたけど、とりあえず1公演分確保。
ちょっと、ほんと、無茶苦茶楽しみ。

その次の週は、首藤さん。
次はシェイクスピアのソネットを題材にダンス。
前回の『ジキルとハイド』も面白かった。
今回、衣装はヨウジヤマモト。
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