DEBONAIR LIFE+LOVE

とりとめる

091029

2009年10月29日 | Weblog
後日

バタイユならカニバリズムについて
僕が今読んでみたい観点から何か書いてあっただろうと思いを手にし
何かありそうな箇所をピックアップして読む。

『エロスの涙』の中にはゴヤが紹介されている。
そこにはサドと同時代を生きた人物としてゴヤを対置する。
(この本の中で紹介されているゴヤの絵の中に
「人食い人種()」「人食い人種()」を発見、僕はこの絵を知らなかった)

『エロスの涙』第二部 終わりー古代から現代へ

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サドは、いくつもの牢獄に閉じ込められて、時としては、憤怒の極限にいたのであり、ゴヤは聾になって、三十六年のあいだ、完全な聾状態という牢獄に閉じ込められたものである。フランス大革命は、彼らを、双方とも、希望へと目覚めさせた。彼らは、ともに、宗教を基盤とする体制に、病的な嫌悪を持ったのだ。けれども、とりわけ、過度の苦痛の強迫観念が、彼らを結びつけた。ゴヤはサドのように、苦痛を肉体的快楽に結合しはしなかった。とはいえ、彼の死と苦痛への強迫観念は、彼の中において、それらをエロティシズムに類縁づける痙攣的な激しさを持った。しかし、エロティシズムは、ある意味では、捌け口なのだ。それは、嫌悪の下劣な捌け口なのである。ゴヤの悪夢は、彼の聾と同様に、彼を閉じ込めたのだ。運命が最も過酷に閉じ込めたのがゴヤかサドかを人間的に語ることは不可能なのだ。サドが、その非常識の中にあっても、人間性の感情を保持したということは、疑いの余地がない。一方、ゴヤは全面的な非常識に到達した(それに、サドも総体的には、掟の限界内にとどまったということは、あり得るのだ。)

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次に同じくバタイユの著書『宗教の理論』から
動物性 1食べる動物と食べられる動物の内在性 より引用

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 ある動物がなにか他の動物を食べるときに与えられるのは、いつでも食べる動物の同類である。この意味で私は、内在性と言うのである。
 つまりそれとして認識された一個の同類が問題になるのではないのだ。食べる動物は、食べられる動物に対して超越性としてあるのではない。おそらくそこにはある相違はあるのだけども、他の動物を食べるこの動物が、その相違をはっきりと肯定しながらその他の動物に対立することはありえないのである。
 ある種類の動物たちは、お互いに共食いすることはない・・・・。なるほどそれは正しいけれども、大鷹が雌鶏を食べる場合に、それがわれわれがある物=客体をわれわれ自身から区別するのと同じような仕方で、大鷹が雌鶏を自分自身から明確に区別していないとするならば、それはたいした重要さを持たない。そういう区別がなされるためには、物=客体がそれとして定置されることが求められる。もし物=客体が定置されていないならば、捕捉しうる差異は存在しないのである。
(中略)
 動物の生においては、主人とその命令下にある奴隷という関係を導入するものはなにもなく、また一方に独立を、そして他方に従属をうち立てるようなものはなにもない。動物たちはお互いに食べ合うのであるから、その力は同等ではないけれども、彼らの間にはこうした量的な差異以外のものはけっしてないのである。ライオンは百獣の王ではない。それは水流の動きの内で、比較的弱小な他の波たちを打ち倒す高い波にしか過ぎない。

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再び『エロスの涙』
死の意識 1エロティシズム、死、”悪魔” より引用

《悪魔的》ということは、たしかにキリスト教に関係がある。けれども、一見したところ、キリスト教がまだはるか彼方にあったときに、最古の人類がすでにエロティシズムを知ったのだ。先史学の資料は感銘的である。すなわち、洞窟の壁画に描かれた最も古い時代の人間の像は、立った性器を持っているのだ。それらは、正確に言って《悪魔的》なものを、なんら持っていない。それらは先史代のものであって、その時代における悪魔は・・・なんと言おうと・・・。
《悪魔的》ということが本質的に死とエロティシズムとの合致を意味するというのが事実であるとすれば、そして、悪魔とは結局われわれの狂気にほかならないとすれば、われわれが泣くとすれば、長い嗚咽がわれわれを引き裂くとすればーあるいは、狂気じみた笑いがわれわれを捉えるとすればー、生れ出るエロティシズムに結びついた、死への( 畢竟滑稽ではあるが、ある意味で悲劇的な死への)顧慮、その強迫観念を感知しないでしないでいることができるであろうか。




補足
バタイユの新刊『純然たる幸福』の中にピカソの『ゲルニカ』について言及がなされている。
そこで語られている内容はもっともだし納得する部分も多いけれど、
それでも最高傑作と呼ぶには抵抗がある。(ん?代表作と書いていたっけ????)
もっとも自分の印象に対して正当性も優位性も求めてはいない。
ただ、そう思う。

091028

2009年10月28日 | Weblog
某日

「女性アーテリスと、その時代」展 @資生堂ギャラリー
「Dairy」操上和美展 @ライカ銀座

ライカ銀座に置いてあるエリオット・アーウィットの写真集、
「裸のマハ」と「着衣のマハ」の前で
鑑賞者(男性)が「裸のマハ」の前に群がっていて
「着衣のマハ」の前には二人の女性が立っている。

絵に対する見入る姿勢の違いも面白い
決定的瞬間を捉えた一枚を観て
思わず声を出して笑ってしまう。
他に人がいなくてよかった。

プラド美術館でゴヤは一人、ゴヤの部屋を用意され、そこに展示していたけれど
この「着衣のマハ」と「裸のマハ」は異なる部屋に並べられて展示されていた。
(プラド美術館は、元宮殿なので、部屋と部屋が廊下で結びつくのではなく
直接部屋と部屋が連結している、その中を)
鑑賞者が絵の前を移動している中で、この二枚は並べられ展示されている。
たしかにこの二枚ゴヤの部屋にあるより、他の絵と連続して
(部屋は異なるけれど、一つ一つの部屋の形はほとんど同じで通路がなく連続して)
鑑賞する方が面白い。
プラドでは特に裸のマハに男性による人だかりはなかった
(それでも男女ともこの部屋では裸のマハの方を熱心に観ている印象はあった)

ゴヤの代表作の一つ「我が子を食らうサトゥルヌス」(通称 「黒い絵」)を
前にしたときに感じた、イメージのギャップ、
もちろん、直接絵を前にする以前からこの絵のことは知っていたし、図録等で目にしたこともある。
我が子を食らう、という行為がどれほど悲痛な行為なのか、悲劇的な行為なのか
またはおどろおどろしい行為なのか、
図録では感じることのできない感情が黒い絵の前で生じるのだろうか、と思っていたのだが
むしろ、図録で観るより実物から受けるのは、どこか滑稽な印象で滑稽さが感じさせる悲しさだった。
(おどろおどろしい絵、悲痛な絵、悲劇的な絵がこのゴヤの部屋には他にたくさんある!)

中沢新一の『カイエ・ソバージュ」を読むのを再開し
いまは第3巻『愛と経済のロゴス』を読んでいる最中なのだけど
第2巻『熊から王へ』の中で未開の地で行われていたカニバリズムについて紹介されており、
これが非常に面白くスリリングな論考なのに対して
ゴヤの「我が子を食らうサトゥルヌス」で行われている息子を食べてしまう
・・・何故、いまぼくはここで”息子”だと思ったのだろう
あの絵の中から性別を判別できるような要素はあっただろうか
これを書きながらいまあの絵の中から食われる子の性別を判断する要素を思い出すことができない。

息子だったか娘だったか確かめずに文章にしながらその流れで
息子、と書いたのは、親が食べる対象は娘にはなり得ないだろうという
先験的な、それこそが未開地の人によって行われたこの行為を
”野蛮”と名付けるような、何かがぼくに食われるのは息子だと思わせたのだろう
そして、その何かがおそらくこの絵の印象を、
滑稽な、その滑稽さが悲しい、と感じさるのではないだろうか

そのようなことを考えながら
後日、リニューアルオープンした山種美術館で手にした能のチラシに書かれていた演目が「安達原」
物語は寝屋を営む主人の女が実は鬼で宿泊客を食べるという筋で
これはいい機会だと思い、久しぶりに能を観にいく予定

091026

2009年10月26日 | Weblog
某日追記

織部を購入したときに木製のバターケースも予約。
木製のバターケースのよさは適度な湿度、
冷蔵庫の中でも冷えすぎずバターが固くならない
バターの油が木にもよく相性の良い素材、などなど。
昔から欲しくて先日、別のギャラリーで行われた個展に足を運んだ
そのときは初日で売り切れだった。

自由が丘のギャラリーでは常設作家なのだけど
バターケースは1年待ち、とのこと
まあしょうがないね、と話していると
融通をつけてくれて予約キャンセルが会ったら連絡をくれることと
制作に時間がかからない木のバターケースで気に入ったらそれを購入し
それでも欲しい山桜がよければ、それでいい、と
お言葉に甘えそのような形で予約を入れる。

ある作家と料理研究家を囲む食事会にも誘っていただくが
会費が高い!あと、仕事していたら、その時間は厳しくないか?、と内心思う。

展示されていた椅子も素晴らしかった。


某日
竹久夢二展

ゴーギャンを観た際に手足の大きさが
どっしりとした安定を感じさせる
(ゴーギャンのことはまとめておきたいんだけど・・・)

夢二の描く女性も手足が大きい
そして手が表情豊かでエロティック
バットとか杖を握る手にゾクゾクっとする


某日
TOKYO FIBER ’09 SENSEWARE
アイ・ウェイウェイ展-何に因って?

アイ・ウェイウェイはミニマル・アートに感じる窮屈さを感じさせないし
コンセプトを設定することが単なる遊戯にすぎないことや
実体化したときに、こんな程度か、とがっかりすることがある。
(一般市民に参加を呼びかけたプロジェクトを
ドキュメンタリー映像作品として放映しているが
その中でアートっぽいことをいっている参加者の発言は
うんざりする程つまらない)

素晴らしい。展示作品は少ない。森美術館、入場料高い。

同じ会場の別室で放映されていた日本人の若手の映像作品もよかった。
六本木ヒルズ展望台の期間限定(?)のダイニングバー、アホっぽい。


TOKYO FIBER ’09 SENSEWARE

新素材にが導く新しいデザイン
参加しているクリエイターも名前の通った人たちばかり
佐藤可士和さんのコンセプト丸見え、というか・・・
企業のブランディングや広告でやっていることは正しい、と思うけど・・・
(アイ・ウェイウェイをこの展覧会の後に観る)

松本陽子/野口里佳 展の関連イベントでダンスパフォーマンスを観たかったのだが
仕事で間に合わず、この日は展覧会2つで切り上げる。


某日

魔舞裸華視 森村泰昌 展
ベルギー近代絵画のあゆみ展

森村さんの扮するフリーダ・ガーロ
フリーダ・ガーロの自画像よりもフリーダ・ガーロ本人を感じさせる。
そのストール、ルイ・ヴィトン製だったんですね(笑)

「ベルギー近代絵画のあゆみ展」は森村さんの会場と近かったのと
損保ジャパン青郷青児美術館は企画展よりも常設されている
ゴッホ、セザンヌ、ゴーギャンを観て帰ろうと立ち寄る。
(ゴーギャンはゴーギャン展に貸し出し中だった)

そういえば文化村でベルギー幻想美術展(?)やってるんだな



某日

光 松本陽子/野口里佳 展

スペインで美術館巡りをしていると
バルセロナ現代美術館の企画展のタイトルがスペイン語だったけど、
ニューマンとかロスコとかステラが飾ってあるんだろうな、と判別でき、
それまで近代以前の作品ばかり観ていたので内心ほっとした。
(入って観ると、先にあげた画家ももちろんあるのだけど
立体作品や映像作品が多くて面食らった)

松本陽子の作品も系統としては同じところに含まれるだろうけど面白みに欠ける。
なんだかスタイルが先にある感じ

野口里佳さんの砂漠の写真で使用したカメラがマミヤと後日知る。
中判カメラ欲しい・・・


某日

昨年、メイプルシロップヌーボーの存在を知り
試食させてもらったところ、あまりの美味しさに
びっくりするような値段にも関わらず
(一瓶:250グラム、5000円)購入したのが
今年のヌーボー前には食べきっていたので
購入しようと思っていたのだけど、時機を逃し、がっかりしていたら
六本木の明治屋で発見。何ヶ月か経っているので値引きされていた。
来年もこれぐらいの時期に買えばいいね、というので
あんまり動かなかったら仕入れしなくなっちゃうよ、と話しながら帰宅。


某日
桂文珍独演会

子供の頃、関西の情報トレンド番組で司会をしていて
胡散臭い人だと感じていたけど
落語を聴くきっかけを作ってくれた人。

落語って語り手が出るなあ、と改めて感じる。
オチがカッコいいな、と思い、このカッコよさが聴いてみようと思うきっかけだったけど
今の僕はそんなにかっこよくなくてもいいかな、と少し思った。

まだ九月です・・・