後日
バタイユならカニバリズムについて
僕が今読んでみたい観点から何か書いてあっただろうと思いを手にし
何かありそうな箇所をピックアップして読む。
『エロスの涙』の中にはゴヤが紹介されている。
そこにはサドと同時代を生きた人物としてゴヤを対置する。
(この本の中で紹介されているゴヤの絵の中に
「人食い人種()」「人食い人種()」を発見、僕はこの絵を知らなかった)
『エロスの涙』第二部 終わりー古代から現代へ
@@
サドは、いくつもの牢獄に閉じ込められて、時としては、憤怒の極限にいたのであり、ゴヤは聾になって、三十六年のあいだ、完全な聾状態という牢獄に閉じ込められたものである。フランス大革命は、彼らを、双方とも、希望へと目覚めさせた。彼らは、ともに、宗教を基盤とする体制に、病的な嫌悪を持ったのだ。けれども、とりわけ、過度の苦痛の強迫観念が、彼らを結びつけた。ゴヤはサドのように、苦痛を肉体的快楽に結合しはしなかった。とはいえ、彼の死と苦痛への強迫観念は、彼の中において、それらをエロティシズムに類縁づける痙攣的な激しさを持った。しかし、エロティシズムは、ある意味では、捌け口なのだ。それは、嫌悪の下劣な捌け口なのである。ゴヤの悪夢は、彼の聾と同様に、彼を閉じ込めたのだ。運命が最も過酷に閉じ込めたのがゴヤかサドかを人間的に語ることは不可能なのだ。サドが、その非常識の中にあっても、人間性の感情を保持したということは、疑いの余地がない。一方、ゴヤは全面的な非常識に到達した(それに、サドも総体的には、掟の限界内にとどまったということは、あり得るのだ。)
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次に同じくバタイユの著書『宗教の理論』から
動物性 1食べる動物と食べられる動物の内在性 より引用
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ある動物がなにか他の動物を食べるときに与えられるのは、いつでも食べる動物の同類である。この意味で私は、内在性と言うのである。
つまりそれとして認識された一個の同類が問題になるのではないのだ。食べる動物は、食べられる動物に対して超越性としてあるのではない。おそらくそこにはある相違はあるのだけども、他の動物を食べるこの動物が、その相違をはっきりと肯定しながらその他の動物に対立することはありえないのである。
ある種類の動物たちは、お互いに共食いすることはない・・・・。なるほどそれは正しいけれども、大鷹が雌鶏を食べる場合に、それがわれわれがある物=客体をわれわれ自身から区別するのと同じような仕方で、大鷹が雌鶏を自分自身から明確に区別していないとするならば、それはたいした重要さを持たない。そういう区別がなされるためには、物=客体がそれとして定置されることが求められる。もし物=客体が定置されていないならば、捕捉しうる差異は存在しないのである。
(中略)
動物の生においては、主人とその命令下にある奴隷という関係を導入するものはなにもなく、また一方に独立を、そして他方に従属をうち立てるようなものはなにもない。動物たちはお互いに食べ合うのであるから、その力は同等ではないけれども、彼らの間にはこうした量的な差異以外のものはけっしてないのである。ライオンは百獣の王ではない。それは水流の動きの内で、比較的弱小な他の波たちを打ち倒す高い波にしか過ぎない。
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再び『エロスの涙』
死の意識 1エロティシズム、死、”悪魔” より引用
《悪魔的》ということは、たしかにキリスト教に関係がある。けれども、一見したところ、キリスト教がまだはるか彼方にあったときに、最古の人類がすでにエロティシズムを知ったのだ。先史学の資料は感銘的である。すなわち、洞窟の壁画に描かれた最も古い時代の人間の像は、立った性器を持っているのだ。それらは、正確に言って《悪魔的》なものを、なんら持っていない。それらは先史代のものであって、その時代における悪魔は・・・なんと言おうと・・・。
《悪魔的》ということが本質的に死とエロティシズムとの合致を意味するというのが事実であるとすれば、そして、悪魔とは結局われわれの狂気にほかならないとすれば、われわれが泣くとすれば、長い嗚咽がわれわれを引き裂くとすればーあるいは、狂気じみた笑いがわれわれを捉えるとすればー、生れ出るエロティシズムに結びついた、死への( 畢竟滑稽ではあるが、ある意味で悲劇的な死への)顧慮、その強迫観念を感知しないでしないでいることができるであろうか。
補足
バタイユの新刊『純然たる幸福』の中にピカソの『ゲルニカ』について言及がなされている。
そこで語られている内容はもっともだし納得する部分も多いけれど、
それでも最高傑作と呼ぶには抵抗がある。(ん?代表作と書いていたっけ????)
もっとも自分の印象に対して正当性も優位性も求めてはいない。
ただ、そう思う。
バタイユならカニバリズムについて
僕が今読んでみたい観点から何か書いてあっただろうと思いを手にし
何かありそうな箇所をピックアップして読む。
『エロスの涙』の中にはゴヤが紹介されている。
そこにはサドと同時代を生きた人物としてゴヤを対置する。
(この本の中で紹介されているゴヤの絵の中に
「人食い人種()」「人食い人種()」を発見、僕はこの絵を知らなかった)
『エロスの涙』第二部 終わりー古代から現代へ
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サドは、いくつもの牢獄に閉じ込められて、時としては、憤怒の極限にいたのであり、ゴヤは聾になって、三十六年のあいだ、完全な聾状態という牢獄に閉じ込められたものである。フランス大革命は、彼らを、双方とも、希望へと目覚めさせた。彼らは、ともに、宗教を基盤とする体制に、病的な嫌悪を持ったのだ。けれども、とりわけ、過度の苦痛の強迫観念が、彼らを結びつけた。ゴヤはサドのように、苦痛を肉体的快楽に結合しはしなかった。とはいえ、彼の死と苦痛への強迫観念は、彼の中において、それらをエロティシズムに類縁づける痙攣的な激しさを持った。しかし、エロティシズムは、ある意味では、捌け口なのだ。それは、嫌悪の下劣な捌け口なのである。ゴヤの悪夢は、彼の聾と同様に、彼を閉じ込めたのだ。運命が最も過酷に閉じ込めたのがゴヤかサドかを人間的に語ることは不可能なのだ。サドが、その非常識の中にあっても、人間性の感情を保持したということは、疑いの余地がない。一方、ゴヤは全面的な非常識に到達した(それに、サドも総体的には、掟の限界内にとどまったということは、あり得るのだ。)
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次に同じくバタイユの著書『宗教の理論』から
動物性 1食べる動物と食べられる動物の内在性 より引用
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ある動物がなにか他の動物を食べるときに与えられるのは、いつでも食べる動物の同類である。この意味で私は、内在性と言うのである。
つまりそれとして認識された一個の同類が問題になるのではないのだ。食べる動物は、食べられる動物に対して超越性としてあるのではない。おそらくそこにはある相違はあるのだけども、他の動物を食べるこの動物が、その相違をはっきりと肯定しながらその他の動物に対立することはありえないのである。
ある種類の動物たちは、お互いに共食いすることはない・・・・。なるほどそれは正しいけれども、大鷹が雌鶏を食べる場合に、それがわれわれがある物=客体をわれわれ自身から区別するのと同じような仕方で、大鷹が雌鶏を自分自身から明確に区別していないとするならば、それはたいした重要さを持たない。そういう区別がなされるためには、物=客体がそれとして定置されることが求められる。もし物=客体が定置されていないならば、捕捉しうる差異は存在しないのである。
(中略)
動物の生においては、主人とその命令下にある奴隷という関係を導入するものはなにもなく、また一方に独立を、そして他方に従属をうち立てるようなものはなにもない。動物たちはお互いに食べ合うのであるから、その力は同等ではないけれども、彼らの間にはこうした量的な差異以外のものはけっしてないのである。ライオンは百獣の王ではない。それは水流の動きの内で、比較的弱小な他の波たちを打ち倒す高い波にしか過ぎない。
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再び『エロスの涙』
死の意識 1エロティシズム、死、”悪魔” より引用
《悪魔的》ということは、たしかにキリスト教に関係がある。けれども、一見したところ、キリスト教がまだはるか彼方にあったときに、最古の人類がすでにエロティシズムを知ったのだ。先史学の資料は感銘的である。すなわち、洞窟の壁画に描かれた最も古い時代の人間の像は、立った性器を持っているのだ。それらは、正確に言って《悪魔的》なものを、なんら持っていない。それらは先史代のものであって、その時代における悪魔は・・・なんと言おうと・・・。
《悪魔的》ということが本質的に死とエロティシズムとの合致を意味するというのが事実であるとすれば、そして、悪魔とは結局われわれの狂気にほかならないとすれば、われわれが泣くとすれば、長い嗚咽がわれわれを引き裂くとすればーあるいは、狂気じみた笑いがわれわれを捉えるとすればー、生れ出るエロティシズムに結びついた、死への( 畢竟滑稽ではあるが、ある意味で悲劇的な死への)顧慮、その強迫観念を感知しないでしないでいることができるであろうか。
補足
バタイユの新刊『純然たる幸福』の中にピカソの『ゲルニカ』について言及がなされている。
そこで語られている内容はもっともだし納得する部分も多いけれど、
それでも最高傑作と呼ぶには抵抗がある。(ん?代表作と書いていたっけ????)
もっとも自分の印象に対して正当性も優位性も求めてはいない。
ただ、そう思う。