駿河湾を震源とする地震で東名高速道路の路肩が崩れた。テレビでのニュースでは盛んに「もりど」と言っている。「盛り土」と書いて、なるほど建設業界では「もりど」と読むのかと感心した。各種の専門業界ではそれぞれ特殊な言葉がある
医学では「口腔」は「こうこう」ではなく「こうくう」と読む。法令用語では「立木」を「たちき」ではなく「りゅうぼく」と読む。「りゅうぼく」なら我々は「流木」としか思わないが。法律用語では「遺言」は「ゆいごん」ではなく「いごん」だ。もっともこの場合は我々の「ゆいごん」の方が変則的とは思うが。
「盛り土」だが、今朝のテレビでは「もりつち」と言っている。手元の4冊の小型国語辞典ではすべて「もりつち」で、1冊だけ「もりど」とも書いてるのがある。大型の1冊にも「もりど」はある。だが、その2冊でも「もりど」では項目は立っていない。
となると、「もりど」と言っていたアナウンサーとか解説者が間違っているのか。それにしても「もりど」なのか、と思わせてしまうのは、勝手な業界用語があるのが原因だ。大体、「俺達はこう読むんだからね」と言うのが勝手である。そんなに「俺達」だけが大事なら、一般の仕事に入って来るなよ。一人で勝手にやってろ。
校正の仕事をしていて、「へ」と「に」を書き分けない人が多いのに驚いている。ほとんどがすべてを「へ」で処理している。「へ」は名詞の「辺=へ」と語源が同じで、「の方に」と方向性を示すのに使われる。それに対して「に」は到達点を示す。
だからJR東海のCMは「そうだ、京都に行こう」だ、と書こうと思って、あれあれ、「京都へ行こう」だったかな、と自信がなくなった。
この二つの言い方なら、私は断然「京都に行こう」を採る。「に」で「京都に対する熱い思い」が表せる。「へ」なら、「ほなら、京都でもいてみまひょか」ぐらいにしかならないと思う。
もっとも、JR東海の場合なら、「京都へ」なら「京都に向かって」だから、途中下車しても良く、結局は京都までの運賃を払ってもらえる事になりそうだから、どちらだって構わない、とも言えそうだ。
「へ」の「方向性」はその途中経過に注目している場合もあるはずだ。「に」はその点で、途中経過は無い。そこが京都の場合なら、「熱い思い」かそうではないかに分かれるのだと思う。
すべてを「へ」で表してしまう人の場合には、私はそれを文脈を理解しながら「へ」と「に」に分けて直している。でも、何でこんなに言葉にいい加減な人が原稿を書いているんだろうと不思議に思う。
そうそう、「会社へ行く」と「会社に行く」の違いで、「へ」は方向性に注目し、「に」は到着点に注目した表現ではあるが、会社を目指している事に相違はなく、この文脈では意味はほとんど同じと言える、などと説明している専門家が居る(「問題な日本語」)。
こうしたいい加減な説明を専門家がしていて、そうした本が売れている事が私は本当に不思議でたまらない。
「会社」は場所と言うか区域と言うか、そうした面では狭い範囲になるから、「へ」でも「に」でも本質的な意味は変わらないのである。だから仕事をするためでも、忘れ物を届けにでも、どちらでも「へ」でも「に」でも通用するのである。範囲が一点とも言えるくらい狭いが故に「方向性」が「到着点」にもなるのだ。ただし、「方向性」と「到着点」では、やはり気持が「に」の方が熱いはずだ。
それなのに、この専門家は全くとんちんかんな説明をする。
「投票に行く」「旅行に行く」などでは「へ」は使えない。
方向性を前面に押し立てた「前へ前へ進め」「国会は解散の方向へ」などでは「に」は使いにくい。
あったり前じゃないか。「投票」「旅行」はそれが「到着点」とも言える行為の目的なのである。「前へ前へ進め」「解散の方向へ」が方向性を前面に押し立てた言い方なんだから、「に」は「使いにくい」のではなく、「使えない」のである。
「到着点」と「方向性」の違いを認めているのにも拘らず、その本当の意味が分かっていない。
「京都へ行く」でも「京都に行く」でもどちらでも通用するのは、「京都」の範囲が曖昧だからなのだ。京都のどこでも良い、との思いなら「京都へ行く」になるだろうし、京都のある特定の場所を想定しているなら「京都に行く」になるのだ。この場合に「京都へ行く」と言う人を私は信用出来ない。
結局、言っている、書いている本人の思いがどこにあるのかが重要になる。だから目的が曖昧になりそうな場合には十分に注意する必要がある。まあ、目的が曖昧だ、と言う事がそもそもはおかしいのだが。
医学では「口腔」は「こうこう」ではなく「こうくう」と読む。法令用語では「立木」を「たちき」ではなく「りゅうぼく」と読む。「りゅうぼく」なら我々は「流木」としか思わないが。法律用語では「遺言」は「ゆいごん」ではなく「いごん」だ。もっともこの場合は我々の「ゆいごん」の方が変則的とは思うが。
「盛り土」だが、今朝のテレビでは「もりつち」と言っている。手元の4冊の小型国語辞典ではすべて「もりつち」で、1冊だけ「もりど」とも書いてるのがある。大型の1冊にも「もりど」はある。だが、その2冊でも「もりど」では項目は立っていない。
となると、「もりど」と言っていたアナウンサーとか解説者が間違っているのか。それにしても「もりど」なのか、と思わせてしまうのは、勝手な業界用語があるのが原因だ。大体、「俺達はこう読むんだからね」と言うのが勝手である。そんなに「俺達」だけが大事なら、一般の仕事に入って来るなよ。一人で勝手にやってろ。
校正の仕事をしていて、「へ」と「に」を書き分けない人が多いのに驚いている。ほとんどがすべてを「へ」で処理している。「へ」は名詞の「辺=へ」と語源が同じで、「の方に」と方向性を示すのに使われる。それに対して「に」は到達点を示す。
だからJR東海のCMは「そうだ、京都に行こう」だ、と書こうと思って、あれあれ、「京都へ行こう」だったかな、と自信がなくなった。
この二つの言い方なら、私は断然「京都に行こう」を採る。「に」で「京都に対する熱い思い」が表せる。「へ」なら、「ほなら、京都でもいてみまひょか」ぐらいにしかならないと思う。
もっとも、JR東海の場合なら、「京都へ」なら「京都に向かって」だから、途中下車しても良く、結局は京都までの運賃を払ってもらえる事になりそうだから、どちらだって構わない、とも言えそうだ。
「へ」の「方向性」はその途中経過に注目している場合もあるはずだ。「に」はその点で、途中経過は無い。そこが京都の場合なら、「熱い思い」かそうではないかに分かれるのだと思う。
すべてを「へ」で表してしまう人の場合には、私はそれを文脈を理解しながら「へ」と「に」に分けて直している。でも、何でこんなに言葉にいい加減な人が原稿を書いているんだろうと不思議に思う。
そうそう、「会社へ行く」と「会社に行く」の違いで、「へ」は方向性に注目し、「に」は到着点に注目した表現ではあるが、会社を目指している事に相違はなく、この文脈では意味はほとんど同じと言える、などと説明している専門家が居る(「問題な日本語」)。
こうしたいい加減な説明を専門家がしていて、そうした本が売れている事が私は本当に不思議でたまらない。
「会社」は場所と言うか区域と言うか、そうした面では狭い範囲になるから、「へ」でも「に」でも本質的な意味は変わらないのである。だから仕事をするためでも、忘れ物を届けにでも、どちらでも「へ」でも「に」でも通用するのである。範囲が一点とも言えるくらい狭いが故に「方向性」が「到着点」にもなるのだ。ただし、「方向性」と「到着点」では、やはり気持が「に」の方が熱いはずだ。
それなのに、この専門家は全くとんちんかんな説明をする。
「投票に行く」「旅行に行く」などでは「へ」は使えない。
方向性を前面に押し立てた「前へ前へ進め」「国会は解散の方向へ」などでは「に」は使いにくい。
あったり前じゃないか。「投票」「旅行」はそれが「到着点」とも言える行為の目的なのである。「前へ前へ進め」「解散の方向へ」が方向性を前面に押し立てた言い方なんだから、「に」は「使いにくい」のではなく、「使えない」のである。
「到着点」と「方向性」の違いを認めているのにも拘らず、その本当の意味が分かっていない。
「京都へ行く」でも「京都に行く」でもどちらでも通用するのは、「京都」の範囲が曖昧だからなのだ。京都のどこでも良い、との思いなら「京都へ行く」になるだろうし、京都のある特定の場所を想定しているなら「京都に行く」になるのだ。この場合に「京都へ行く」と言う人を私は信用出来ない。
結局、言っている、書いている本人の思いがどこにあるのかが重要になる。だから目的が曖昧になりそうな場合には十分に注意する必要がある。まあ、目的が曖昧だ、と言う事がそもそもはおかしいのだが。






