千艸の小部屋

四季折々の自然、生活の思いを、時には詩や創作を織り交ぜながら綴りたい。

創作 淑乃は今 一

2015年01月18日 | 日記

          その一     

 淑乃は思う。
 我が身の来し方を。

 雪に閉ざされ、灰白色となった越後の山々、人々の暮らしを。
 つましく生きてきた我が身を。



 紫野(むらさき野)を思い浮かべ、
 我が子に紫乃(しの)と名付けたかったという母。
 紫野とはどこのことなのかと模索した。

 祖母に反対され、「淑乃よしの」と命名した経緯を教えてくれたのは叔母だった。


 拾遺集に平兼盛の歌がある。そして、歌合で壬生忠臣と「恋」の歌で競ったと囁いたのも叔母だ。

 淑乃が苦手な短歌を叔母は嗜む。

 しのぶれど 色に出にけり 我が恋は 
        ものや思ふと 人のとふまで 
                       (拾遺集 平兼盛)

(知られまいと秘め隠していたのだが、顔色に出てしまったことだ、私の恋心は。思い悩んでいるのかと、人から尋ねられるまでに)


 村上天皇のとき、天徳内裏歌合で平兼盛と競った歌人は壬生忠臣。

 恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり 
        人知れずこそ 思ひそめしか
                       (拾遺集 壬生忠臣)

(恋しているという噂が、もう立ってしまった。誰れにも知られないように、心ひそかに思いはじめたばかりなのに)

 競い合ったが、この二首はどちらとも甲乙付けがたく、判者は判定に困った。 天皇が兼盛の歌を口ずさんだので勝敗は決まった。忠臣は悲観して悶死したとの逸話は定かではないという。

 叔母多恵は感受性の強い女性として成長。読書を好み、想像力も豊かだった。

 母光代も原因不明の病に冒され、淑乃が物心ついた頃、黄泉の国へと旅立った。
 父も後を追うように、静かに息を引き取った。肺結核の後遺症だったが虚弱な体質も機縁していた。

 淑乃は祖父母に育てられた。祖母は母光代のことを、明朗闊達な人間だとしてあるときは褒め、生い立ちが計り知れないと貶した。父の療養中に、入院患者と看護婦として出会った二人は恋に落ち、雪深い越後にやって来た。祖母にとっては息子を奪われた女としての認識が強かった。父は病気の再発を畏怖していた。 二人の未来に自信が持てなかった。虚弱な父を、半ば強引に奮起させたのは母である。父の健康管理に励み、休職中だった県職の職場復帰をさせた。祖父母の農業を手伝う姿は何の屈託もなく従順な仕事ぶりだった。家庭内におだやかな空気が流れるようになり、順風満帆な日々だった。

 淑乃が生まれた。
 父も母も、祖父母も淑乃を慈しんだ。

 紫乃という名を付けたい。
 母光代は望んだ。

 この家を支えてくれる、しっかりとした明るい名前の方がいい。
 男児を望んでいた姑の反対に、
あっさりと、淑乃の名前を口にしたのも母だった。
 淑乃はいい名だ。
 清らかで女らしい名前だ。祖母は笑みを浮かべた。


 だが、母の病魔は、家庭に影を落とすようになる。頭脳の切れがよく自慢の嫁であったはずの母は、潤沢を失っていく。祖父母は鈍重になった母の悪口をいうようになった。

 叔母はいう。
 まだ小娘で気がつかなかったが、本棚の書籍と並んでいたのは詩集だったと、後年伝えてくれた。雪国の暮らしの中で、息子夫婦に先立たれた祖父母は、自分の娘多恵と孫淑乃を育てるのが手一杯だった。光代の本棚の本はいつか消えた。 祖父は土建会社に勤務する傍ら、農業にも勤しんだ。息子の遺族年金が家計を助けた。

 淑乃の母光代は詩心があったのではないか。
 恋する年頃になった叔母多恵は思った。
 どんな人生を経たのか、越後の地を離れたことがない多恵にとって、品格が漂よっていた兄嫁は都会の香りがして、ひそやかに憧れていた。

 兼盛の和歌を知ってから、勝手な憶測が渦を巻く。若い娘にありがちな推測だった。
 紫野は、紫の花がこぼれるように咲く草原なのか。信州にあるのか。
 紫野(むらさきの)という地名が京都にもあるようだ。

 義姉光代は兄と親しくなる以前、好きな男性がいたのではないか、忘れがたかった男性との思い出が紫野につながるとしたら・・・
 娘心の連想である。
 もっともらしく思えてくる。平安の和歌を無理にでもこじつけようとする。

 高齢の親族がいるのみと、兄夫婦の結婚式や葬儀には、親族の列席はなかった。

 頭が切れる人で、明るくて、誰とでも親しみやすく話せる人だったと、母光代の評判はよかった。

 淑乃が高校を卒業するとき、町役場で母の戸籍を調べたことがある。
 信州小諸近くの村、祖父母、両親も他界、兄弟、姉妹もなかった。
 越後で入籍したとき、すでに天涯孤独だったのだ。

 叔母多恵は、
幼くして両親を失った淑乃を、妹同然に可愛がってくれた。
 淑乃も姉のように慕った。



「淑乃ちゃん、私は淑乃のほうが好きだよ。穏やかな感じで、つつましく清らかなさまは名前に合っている。名は体を表すってほんとだね」

 淑乃も自分に合う名前だと思う。
 名前とは、いつ知れず自分にぴったりと馴染んでくるものだ。
 両親のことは忘れてしまう他なかった。
 やさしい姉、多恵がいて、家を切り盛りする祖父母がいる。
 育ててもらった恩は生涯忘れてはならないと思う。

 母がなぜ、「紫乃」と名付けたかったのか、あるいは「紫野」はどこの紫野だったのか、母の心の奥底に潜んでいる扉を開けたくもあった。

 幼すぎて、朧にしか浮かんでこない母の顔・・・
 写真に残っていても、なぜか面影は瞼から遠のいていく。

 叔母多恵が結婚。四人の子育てに追われている間に、祖父母が相次いで倒れた。祖父はくも膜下、祖母は心筋梗塞だった。
 神奈川で働いていた淑乃は、看護のため郷里に戻った。
 以来、祖父母の看護と介護の日々がつづく。仕事もパートでしか働けなかった。



 祖父母を看取った淑乃は、
結婚の機会を失った。
 心にあたためた恋は封印した。
 そして、いつか忘れてしまうのだ。

 祖父母の家屋敷は、叔母の一家が譲り受けるものだとして、遺産相続は一切拒否した。かねてから申し込んでおいた町営住宅(後に市となった)にようやく納まることができた。小さな仏壇には両親の位牌を安置、毎朝の供養は欠かさない。




 淑乃は今、
心の旅を始めたくなった。
 母の軌跡を辿りたいのではない。
 紫野、あるいは紫乃を探す旅は、もういい。

 淑乃は今、
自分の足で歩こうと思った。

 降り止まぬ雪空に思いを馳せる。

 遠い日に見果てぬ夢があったように・・・
                               (つづく)



あけましておめでとうございます

2015年01月03日 | 日記



 あけましておめでとうございます

 新しい年が始まりました。
 家族が揃い、にぎやかな新年を迎えることができました。
 娘たちの友人家族の訪問、大阪からの夜行バスで娘婿の妹ようこちゃんもやってきました。
 豪雪地越後魚沼のお正月を堪能してくれました。
炭火が赤く熾った囲炉裏を囲んで、呑んだ清酒「八海山」が、ことの他美味だったようです。
 大した正月料理はできませんでした(次女、夫が、昆布巻きや野菜の切り刻みの手伝い)が、「壷煮」、「雑煮」、「昆布巻き」、「紅白なます」、「下仁田ネギのチーズ焼き」等々も、「美味し~い!」を連発・・・

 一日の夕方になって茨城の娘一家が到着しました。



 早速、料理人のトール君が、腕を振るってくれました。
 我が家の、「神楽南蛮味噌」、「柚子胡椒」、「まるめろジャム」等々もお披露目?
 ようこちゃんは「う~ん、美味しい!」を何連発したでしょうか。

 キャンプに凝っている大阪の娘婿はっちゃんは、スペイン料理「アヒージョ」も披露してくれました。これも美味い!

 ようこちゃんは、アパレルのデザイナーなので忙しく、二日の夜、夜行バスで帰って行きました。
 大雪の中でのお正月、とっても楽しかったようです。
 八海山神社の初詣、魚沼の里では樽酒を振る舞われ、ご満悦だったようです。
 大雪の魚沼でのお正月、楽しんでくれてよかったことです。

 トール君の妹はイタリア旅行中だそうです。
 ようこちゃんも同世代、海外旅行好きなのも妹に似ているとトール君が言っていました。







 今年は羊年です。

 羊のように、温和で、おだやかな日々がつづくのを願ってやみません。

 今年も幸せな一年でありますように。





 (追記)

 三日の夜は、
はっちゃんが作った「アヒージョ」を、トール君が作ってくれました。



 熱々で美味しくいただきました。

 何品か娘夫婦共作の一つ、夫がかねてより食べたかった「キャベツ丸ごとロールキャベツ」は、ホクホクで柔らかく、堪えられない美味しさでした。胃腸がすっきりします。雪下に貯蔵しておいた新鮮で大きなキャベツを丸ごと使いました。中をくり抜いたキャベツをみじんに切り、ひき肉等々が詰めてあります。 スープをかけていただきました。



 大阪の家族も、松代から上越までの道路が吹雪いて大変な思いをしたようですが、午後九時頃無事帰阪できたようでほっとしております。

 今日は、最後の家族が帰ります。