レールの、その先へ…(屋根裏部屋<現在、空家>)

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トミックスの455系(磐越西線)(22)

2008年05月25日 | 鉄道模型(455系)
今回もダラダラですよぉ~(´・ω・`)


前回完成したS-19編成。


この編成のクハはクハ455-40でした。



記憶が確かならば、JR化後に広域転属配置された最後の車両です。


広域転属配置は今の若い方は知らないと思いますが、当時の新幹線が開業する度に、それまで在来線で使われてた特急車両などが、遠くの線区に転属していったのです。

例えば東海道で使われた車両が山陽線に行ったり、東北で使われてた特急車両が九州に行ったりなど。

特急車両に限らず色んな車両が各地を転々として行きました。

JR化後、こういった広範囲な転属は無くなった(他社に売却などの例はありますが)のですが、このクハだけはJR化後に大分から仙台に転属して来ました。

確かJR化直前にこの編成のクハが踏切事故で大破した為、転属処理がなされたのでした。



とはいえ、JR化から20年。この車両だけに限らず、よくぞここまで保ってくれたなぁという気持ちです。



ようやく我が家のレイアウトで試験運転です。

フライモーター車と従来のモーター車を併結させましたが、ガクガクしてしまいダメでした…。


加速度とトルクが違うので、ゆったりめなスピードでは協調してくれますが、低速域と高速域だとダメでした。

脱線してショートまでしてくれました…


あかべぇの工作に移りたいのですが、まだまだです…

トミックスの455系(磐越西線)(21)

2008年05月22日 | 鉄道模型(455系)
てな訳でS-19編成を完成させました。


実車のS19編成は仙山線のオプティカル電車で1年運用された後、郡山工場で磐越西線色に変更、さらに末期は東北色で終わりました。


またS19編成を語る上で外せないのが、S41編成です。

S41編成は、S19編成のオプティカル電車の前に「パッチワーク電車」として仙山線で1年間運用された後、S19編成にバトンタッチしています。

パッチワーク電車を終えたS41編成は磐越西線色に当初塗り替えられ1年間過ごした後、今度は「仙山色」に塗り替えられて運用変更されました。

で、S41編成の穴埋めが、オプティカル電車の役目を終えたS19編成だったわけで、磐越西線色に塗り替えられ、同区間で活躍しました。


455系仙山色もたった2年間で終わったので、馴染みが薄いですが、455系の東北色はどこも品切れですね…

また再生産してくれることを祈ります。

トミックスの455系(磐越西線)(20)

2008年05月22日 | 鉄道模型(455系)
タイフォンを蓋付きのものに交換しました。

東北地方で使われていた455系でJR化後に更新工事が行われた車両はだいたいこの形状でした。
(スリット式に蓋を被せたもの)

パーツの取付には難儀しました。
ピンセットだと上手く掴めなくて、力を入れると飛んじゃいそうでヒヤヒヤもんです。
(初心者にはかなりキツい…)


結局、爪で摘んで穴に差し込み、裏側からボンドを塗って仕上げました。

懐かしいもの

2008年05月19日 | 鉄道模型(全般)
455系を乾かせている間、部屋の掃除をば…(苦笑)


するとこんなものが出てきました。


「パノラマエクスプレスアルプス」のさよなら運転のチラシです。


懐かしい…もう引退してから7年経つんですね。


実物は富士急行の「フジサン特急」として残ってるのが救いです。

トミックスの455系(磐越西線)(16)

2008年05月15日 | 鉄道模型(455系)
右と左でウレタンの硬さが違います…(謎)

右はいつものトミックスのウレタンより硬め、左はマイクロエースのウレタンのような硬さ…


ちなみに2つは別々のお店で買いました。

右は予約して買った物、左は偶然手に入れることが出来たもの。

まぁ模型には影響がなかったので良かったのですが、こんな所に差が…。

手に入れた皆さんのはどうなんでしょう?

トミックスの455系(磐越西線)(14)

2008年05月15日 | 鉄道模型(455系)
磐越西線のお話の続きです。

ちなみに前回のお話は平成7,8年頃の話です。

もう13年前の話ですね。郡山から引っ越して以来、会津若松には2,3回しか行っていませんので、あやふやな部分が在るかも知れません。

間違っていたら申し訳ありません。

磐越西線の客車列車がなくなったのが、平成7年11月末でした。

客車列車は4両でしたが、455系6両に置き換えられました。

列車番号は変わらず、1221レ,1222レ,1237レ,1236レ→1221M,1222M,1237M,1236Mとなりました。

この列車らは朝1の列車と夕方ラッシュ(それぞれ19時発ぐらい)の列車でした。

それぞれ通勤・通学の足を担っていたわけです。

しかし、このダイヤ改正の頃、「魔の1223M」が誕生しました…。

郡山が7時台発、会津若松到着が8時台着と通勤・通学にはベストタイムの列車です。

ところがこの列車…




「455系S-40編成単独使用」





だったのです…。しかも、



「クロハ455締め切り扱い」



ですので、



「朝ラッシュ時なのに2両だけ」



というありえない列車でした…。


これは、「会津若松の留置が手一杯な為、終電で郡山へ送って留置させ、朝9時ぐらいに帰る観光客に合わせるために会津若松に戻す」というありえない理由でした。


こんな理由の為、


「たった2両だから東京のラッシュ並みに超満員」


だったのです…。



クロハは何故か締め切り(たぶん郡山で整備していたから)。



という訳で、この魔の列車で通っていた学生たちは、学校を卒業すると同時に免許を取り、鉄道という交通手段を捨てていきました。



また、新幹線連絡と高速バスに対抗するために、少しでも到着時間を短縮しようと、


「各駅停車を軒並み快速に格上げした」


のでした。


しかも「郡山~猪苗代が各駅停車で、残りは磐梯町と会津若松」とか、

「郡山、磐梯熱海は停車で、猪苗代から先は各駅停車」とか訳が分からない快速ばかりとなり、利用者には使いづらいダイヤになったのでした。


これは途中駅を利用するお年寄りなどを切り捨てる結果となり、軒並み不評を買い、やはり利用客離れを加速させました。


これにより、徐々に磐越西線の利用客が減っていったらしいです。


で、これを食い止めようとまたダイヤ改正→使いづらい→利用客減少→ダイヤ改正…のスパイラルに。



結局、グリーン室の利用がずっと伸び悩みだったクロハ編成は邪魔者扱いとされ、予備編成となり、磐越西線のダイヤも各駅停車が主体となったわけでした。


そんな悲しい歴史を持ったこのクロハ編成。


しかも磐越西線カラーで模型化させるなんて…。


この編成の模型を眺める度に、その複雑な歴史を思い返すのでした。