名取熊野老女物語

名取の熊野三社を開いた名取老女伝説について。

金蛇水神社と熊野信仰

2017-07-14 | 名取の熊野神社
金蛇水神社の聖水とは、
日本刀で有名な三条小鍛冶の名刀を創る時に使用した水と伝わります。


※金蛇水神社の霊水

熊野堂郷土史年表では、
「989年9月京都の三条小鍛冶宗近、勅命により宝刀を造る際、
岩沼の金蛇水神社のご神体を造り奉納する。」

三条小鍛冶宗近は熊野堂神社御宝物の金注連を造った人物と伝えられる。





金注連とは、名取老女が巫女である証拠のひとつで、名取老女が身につけていたと伝わるもの。
僧侶のかける輪袈裟、修験者の用いる結袈裟を製鉄にしたのが、金注連と考えられる。


名取に熊野三社を建てたのは、鉄を造るのに最適な環境にありました。
高舘山(熊野那智神社)は、一定に吹く強い風が自然のフイゴになったそうです。
なので、熊野飛龍大権現として不動明王の祀るのです。


※金蛇水神社の牡丹祭

その場所には、製鉄跡があったそうです。(詳細不明)
確かに住んでいてわかりますが、那智の風はとても良い気をもたらしています。
夏場は常に風が吹いていますが結構強い風です。
熱い夏には最適な風で、自然の扇風機になっています。

また金蛇水神社から仙台方面へ街道を(39号線)すすむと、
藤原実方のお墓があります。
「995年 近衛中将藤原実方、陸奥守となり熊野堂を通過し、栗木を渡り、
西多賀を経て国府多賀城に至る。(西多賀郷土史)」
998年12月、実方中将は、笠島道祖神にて落馬し没す。
その子孫紀州熊野別当となる。」



別当とは、9世紀から13世紀末頃にかけて、現地において熊野三山
(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の統括にあたった役職。

名取郡は、713年に置かれました。
715年に陸奥鎮所が太白区郡山におかれ、
720年に閖上の猟師により十一面観音菩薩を引上げ、後に高舘山に祭祀しました。
それが那智山観音大権現の由来となっています。
742年には、「稲田社」として現在の熊野堂、熊野神社境内に稲の神を祀ったとあります。

藤原実方の伝承には謎が多く、お墓のあるところから少し北上した所に、
猿田彦とアメノウズメを祀る道祖神がありますが、
そこで亡くなった(落馬)と伝わります。
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古来の陸奥街道で熊野へ行く道でもありましたが、熊野別当になった実方の子は、
熊野別当九代殊勝の娘と系譜に書かれている。
母は熊野別当祖泰救母とあり、穂積氏にあたるのです。



紀州熊野水軍による布教があった地に鈴木姓があり(発祥地?)、鈴木姓と熊野は
深い関係があるようです。穂積氏はその「ススキ」から由来すると考えられ、
鈴木屋敷というのがあるそうですが、そこには源義経が牛若丸の時に、
何度も訪れていたそうです。

なので、気仙沼周辺に義経伝承が多く、また熊野神社も海側に非常に多く
祀られている由縁は、鈴木氏や穂積氏が関係しているからです。


※藤白鈴木氏が代々神職を務めた藤白神社
(始祖は饒速日命 )

鈴を使った神事や祈祷とする由来や、小竹のササやスズという言葉から祭事に使うもの、
いずれにしても鈴は祭事に使用するものを意味し、穂は、ススキから由来します。

そう考えると、東北地方の海側に五十鈴神社が多く祀られていること、
室根山に穂積氏が紀州熊野から瀬織津姫を移したという伝承、
義経が逃れた伝承が多いのは、熊野信仰が深く関係していることがあげられる。
実方中将は、熊野信仰を陸奥へもたらすために必要な役目として派遣されたのではないか、
という妄想が広がります。

また、穂積氏は日本紀の「姓氏録」によると、
櫛玉神饒速日命(くしたまかむにぎはやひ)の後裔物部氏で熊野国造とある。
本拠は、紀州国牟婁(むろ)郡新宮であるが、いま、この地に鈴木氏が中心となっている。
この地には、鈴木一族が移住し、丸子の両氏をおさえて熊野社家の中心勢力を
かたちづくる大豪族に発展したと考えられる。(
資料:姓氏 丹羽基二著)

丸子氏は、遊佐町丸子に住み、鳥海山信仰に大きな影響を与えた一族であるといわれます。
鳥海山の麓、大物忌神社のある地域に丸子氏が移住しており、
古くから修験の場として栄えていました。
鶏を食べないタブー伝承もあります。
同じ熊野別当から派生した一族とあれば、その一派が出羽三山の修験になったとか。
なので、月山登山途中に「行者返し」という道がありますが、
出羽派と吉野派の派閥となり、いろいろあったのでしょう。

熊野縁起紀によると、
「第5代孝昭天皇のとき、紀伊国(和歌山)の山奥、
千尾の峯に、神人が竜に乗って、み姿をあらわした。
人々があがめ奉るなかに、一人の男が進み出て、十二本の榎のもとに
神を勧請した。神は、榎本の姓を賜った。
神は感じて餅にゆかりの丸子(わにこ)後の宇井、鵜居の姓を与えた。
第三の弟は、稲の穂を奉納した。神は穂積の姓を授けた。
この3人の祖は、漢の国からはるばる日本にやってきた司符将軍の末孫だという。
長男を真俊、次男を基成、三男を基行という」


室根山のムロが、牟婁から由来しているのは想像できます。
出羽国にあった山形県千歳山のあこや姫伝承と藤原実方の関係性、親子だったという説、
あこや姫はそれから笹谷峠を通り、川崎町にも登場し、青根温泉を見つけたという伝説も
ありますが、それ以降の北の方では、ぱったり途絶えています。

その場所に共通するのは、藤原実方伝承で、
岩沼~名取には、実方伝承が数多く残されています。
時代はあこや姫の方が古いのですが、それは先に日本海に鉄民の出羽三山信仰が
うまれていたからでしょう。
後に陸奥の太平洋側に同じ鉄民の熊野信仰がやってきたと考えれば、
あこや姫から名取老女に変わった巫女伝承がみえてきます。
とにかく東北は、「みちのおく」といわれるだけあって、
奥が深すぎて迷宮入りするのですが、それは「影」の部分が大きく関わっていたからです。

なぜ、影にされたのか。
それは、これから明らかにされていくと思います。
ということで、これからも私たちは、どんどん光をあてていこうと思っています。


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