名取熊野老女物語

名取の熊野三社を開いた名取老女伝説について。

名取の熊野ロード

2017-07-11 | 名取の歴史散策
お手軽な熊野信仰を歩く道があってもよい、と考えるなら名取でしょう。
と、いっても車の往来激しい道になりますが。

名取に今熊野神社があります。
仙台市方面へ向かうと、熊野三社が祀られているのですが、
今熊野神社の側に今熊野遺跡があります。


※今熊野神社のしだれ桜はお見事。



縄文と熊野は関係しているから、遺跡があったから神社を建てたような気もします。
熊野信仰は、縄文の系譜を色濃く残しているといわれ、唯一、近畿地方に縄文が花開いた
のは、京都や大阪などの近隣から隔離されたような奥山の位置にあったことがあるといわれます。



渡来してきた人が稲作を伝えるようになるまでは、狩猟生活と漁労採集で暮らしていました。
哲学者の梅原猛氏が「熊野詣は縄文文化への復帰願望へのあらわれ」と評価
しているのは、名取を探訪していて実感します。

※垂水ダムのある五社山から流れ出る小川。



ちなみに、山形県にも今熊野神社があり、阿弥陀如来・薬師如来・観世音菩薩の三尊を祀る
とあり、観音堂や薬師如来も名取にもあります。
山形の方では出羽三山の月山神社の祭神である月読命の本地仏と伝わります。

今熊野遺跡について、縄文時代前期~奈良・平安時代にかけての複合遺跡。
ここは、個人のお墓ではなく、複数の人が埋葬された方形周溝墓が9基みつかっています。



方形周溝墓東北地方で初めて発見されました。
このような方法は、中部~関東~東北へ伝わったようです。
九州地方ではほとんどありません。

家族で埋葬されたことのほかに、先住民と渡来してきた別の民族が一緒に祀られている
場所だったと思われます。
人口が増え、お墓事情も変わってきました。
身寄りのない人もたくさんいたかもしれません。縄文人と弥生人(時代がかなり異なる)
人が一緒に埋葬されている墳墓もあります。

陸奥国開拓の時代より、かなり古い時代にはなりますが、
関東から東北のこの地まで、たくさんの人が開拓民として刈りだされ暮らしていました。
それは別にエミシ征伐とは何ら関係ありません。

今は、宮城農業センターの建設地になっていますが、北台地区というところでは、
縄文時代(6000年~6500年)の土こう、平安時代の竪穴住居が発見されています。
竪穴式住居は100軒以上発見されたそうです。



今熊野神社は、1600年4月に、伊達政宗の命によって造営。
熊野三所権現を信心していた女が、この地に建立したいと100日に及ぶ山ごもりを行い、
これを知った川上村の長が政宗に陳情し建立されたと言われています。
昔は、ここを「赤坂山」とよんでいました。

「ここで行われる熊野神楽は、仙台市茂庭の生出森八幡神社から伝承されたものと言われ、
その系統は熊野堂神楽の流れを汲む岩戸神楽で、榊流神楽と称する黙劇の祈祷の舞となっており、
拝殿の南側にある間口2間、奥行き2.5間の舞台に、楽屋が付属する神楽殿で奉納されます。」

生出森八幡神社は太白山に鎮座します。



さて、この道は39号線で車の往来は激しいところなんですが、
名取駅からそんなに遠くない39号線沿いに、いろいろ散策できる寺社仏閣があります。

今熊野神社から坂を登り、右手に今熊野遺跡あり。
しばらく直進し坂を下りたところで、藤原実方のお墓があります。
紫式部の源氏物語のモデルといわる実方中将のお墓入口にムラサキシキブが咲いていました。





またその先をすすむと、塩薬師如来があります。
ちょっとうっそうとした感じの森ですが、思ったより中へ入ると明るい日差しが心地良かったです。

塩薬師の伝説-------------------------------------------

塩ノ池の端に薬師瑠璃光如来を祀るお堂があった。
ある時野火で部落も寺字も類焼したが、薬師本尊は空中高く飛び、近くの松の木に難を避けた。
里人たちは、その地にお堂を建立して本尊を安置し、塩薬師と称したという。
本尊は室町時代の木造寄木作り座像で、漆に金箔を置いた見事な薬師如来像で、
蓮華座に安置されている。






また、「観蹟聞老志」には、往古老僧この地に来たり。
山下より湧き出ずる潮水を汲み塩を煮て、これを衆人に与えて病を治す。
郷土等薬師如来を祀り、塩薬師と称し、邑名を塩手と称したとある。
奥州名所絵図(宮城県図書館蔵)には、塩薬師について、
「大化3年丁未(647)の夏、大己貴命(おおなむちのみこと)を崇め祀る、
後世附会して塩薬師と称す、山上に薬師堂あり鐘楼拝殿云々」と
「道祖神社の北五丁余北の麓に禅刹あり塩福山永禅寺という、
北野に塩手山本唱院(本唱寺ともあり名取三名寺の一つである)あり」と当時の邑の様子が書いてある。

(※(有)石神のサイトから引用しました)





昔、熊野修験の人が歩いてきたであろう場所には、多くの古墳群があります。
何か意味があってと思うのですが、名取熊野三山は実方中将の伝承よりは後なので、
砂金と関係するならば、砂金とりのために新羅人がやってきていた所を、
熊野が後になってやってきてお社建てているものと思います。
そしてまたこの道は、奥州藤原氏の平泉に通じる道でもあり。
そんな道を散策していたら、楽しくなってきました。





帰りは熊野那智神社へお参り。

(写真は、2015年10月)

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