名取熊野老女物語

名取の熊野三社を開いた名取老女伝説について。

復曲能:名取ノ老女

2017-10-15 | 名取老女伝説
10月1日(日)記念すべき、名取の狂言と、名取老女の能がお開きとなりました。
10月は始まりの月なので、よいスタートです。

名取市文化会館に始めていってきましたが、まさか、ここで名取ノ老女の能が観られるとは!
ずっと名取老女の歴史探訪をしていたので、まるで、身内のような親戚のお祭りのようで、感無量。
もちろん、歴史クラブの皆で鑑賞してきました。

名取老女の能が復活したきっかけは、東日本大震災でした。
震災から5年になるH28年に国立能楽堂で「復興と文化 老女の祈り」でした。



それから1年後の今回、名取老女の地である地元で能を披露することは、
名取老女がとても喜んでいることと思います。
名取老女は実在していない大日如来の化身とされていますが、
それに値する巫女はいました。

狂言「名取川」は、野村万作、萬斎親子。
声のオーラといいますか、音の響きがすごかったです。

名取ノ老女は、能楽師:梅若玄祥。
今回の能では、孫娘が登場しています。

能も、鎮魂のような働きもあるような。
詳しいことはわかりませんが、能曲の部分に秘められた言霊の力があると感じます。
最後、地謡の部分で、護法善神が出現します。
「 地謡(じうたい)」は、謡曲の地の文の部分を大勢で謡うことですが、
8人程度の人が、舞台から右に2列に並んで謡われる部分です。

護法は、災難を去り、悪魔を払う。
私は最後の護法に喝!を入れられた気分・・・。

「それ我が朝は栗散辺土の小国なれども 人の心のやわらかなれば、
大きに和らぐと書きて、大和の国とは申すなり」

「然るに衆生済度の誓ひ、熊野三所権現と顕れ、岩田川の波をわけて、
水のまにまに、荒れたる国土に道をつけ、危なふ駈け路の谷を走れば」

「下にも行くや 足はや舟の 浪の打ち交ひ 水馴れ竿 下れば差し、
上れ行く、綱手頼もし梛の葉に、かく神託の道遠し、年は経たりぬる
名取の老女が、子々孫々に至るまで、二世の願望三世の所望
みなことごとく願成就の、神託あらたに告げ知らせて、神託あらたに告げ知らせて、
護法は上がらせ給ひけり。」


「神託あらたに告げ知らせて」を2回繰り返すところ、何かあるのかな?
ま、感慨深い能でした。

-----------------------------------------
余談ですが名取老女とは関係ないんですけど?(たぶん)
能楽師の梅若家の祖は橘諸兄と伝わるとあった。

橘 諸兄(たちばな の もろえ)は、奈良時代の皇族・公卿。初名は葛城王(葛木王)で、
臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となる。
敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子。
母は橘三千代で、光明子(光明皇后)は異父妹にあたる。

ということで、こういう所でも、ご縁を感じる。
名取ノ老女を演じることになったのは、陸奥開拓で早くにきていた葛城一族がいたからですね。
特に郡山ですが。
今も、先祖は脈々と過去の清算をしているということです。

互いに敵であったか、味方であったか、
その償いを反省したり、復讐するものでもなく、
新しい道を開くための新しい歴史を作るために、
一人一人が、その自覚をもって他人に対し、真摯でいることが、
何よりも先祖供養になることを知っておくべき。
そんなことを学ばされた能でした。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

朝日を抱きて誕生

2017-09-09 | 巫について
旭若神子の「旭」の由来は、「朝日」と言うように、
太陽を天に身ごもった子の意味がある。

「~南島のユタと呼ばれる巫女が、ユタとして生まれ変わるときに
唱える「オマイマツガネ」との比較にも十分に応えられる可能性がある。
オマイマツガネは、男性であるがユタの呪力の始祖となるべき
神話的人物であって、彼は母親が天の太陽によって身籠った子である。
「日光感精説話」とも呼ばれる、そのオマイマツガネの詞章には、
「このわが身は朝日様がみかた様です」と訳されるようなものもある。
「梓神子の由来」には、姫は「朝日をいだきて誕生」と記されている。

※憑霊の民俗:川島秀一より

旭神子の朝日より、旭を使う意図にもいろいろありそうです。
いろんな説が考えられると思いますが、
この漢字にも「日」があてられている。
何の日を当てるのかは、「九」という漢字。
九は、虫の旧字で中国が由来している。
それが蛇といわれる由縁がある。

漢字の成り立ちは、
「日」は「太陽」を、「九」は折れ曲がって抑えつけられている様子を表す。
「(押さえつけたものをはねのけて)光が地平線に出て輝く」様子を表現している。

他にも九羽のカラスが由来。
カラスは太陽なので、9つの太陽を示す。
他にも九尾の狐伝承もあるように、「9」がキーワードとされる。

数でいえば、オーラソーマのカバラでは、
「2」は、新しい数字。例えば、9+2=11→1+1=2。
死と再生の意味があるのですが、陰陽でも陽は9とされる。
また、9のケタに、秘密がある。
9のケタはすべて結果は9になる。
9×1=9、9×2=18→1+8=9、9×3=27→2+7=9・・・・

「9つの鏡」というのがあり、9という数字はすべての数を含めても必ず「9」になるという。
鏡は太陽のこと。
9つの太陽神は、中国が由来らしいのです。

「扶桑」という大きな樹がありました。
四川省の三星堆遺跡に(さんせいたい)扶桑があるのですが、
扶桑は十の太陽が宿るところであり、太陽はそこから鳥に乗って順番に
空へ巡同に出かける話がある。
熊野のヤタガラスも太陽神です。

天空に10個の太陽を射る話は、オロチの神話にあります。
そのうち1つを射たので、太陽は9つになった。
太陽が10個あったために、大地が大干ばつとなった。
その為、弓の名手が天からおり、矢をいると、どさっと3本足のカラスが落ちてきたと。
中国の少数民族の間で多く語られている射日伝承。
日本では、「天の岩戸」として伝わりました。

極東ロシアの日本海に面した地方に暮らすオロチという先住民族に次のような神話がある。
昔、大地が固まりきっていないころ、太陽が三つあり、
できたての大地は熱くて生き物が住めなかった。
その時、ハダウという神が二つの太陽を弓で射落とし、一つだけ残した。
その後、ハダウはワシとカラスを創(つく)り出し、それから人間が生まれた。
あるいは、太陽が三つあったころは大地がとても熱く、人は水中や空中で暮らしていた。
そこで二つの太陽を射落としてようやく涼しくなり、地上で暮らすようになった。

オロチ族は、中国、朝鮮半島、日本、台湾などに見られる。
オロチ、ウデヘ、ナーナイはツングース系の言語と文化をもつ人々。
ツングース系の人々の遠い祖先は、古代中国で「東夷(とうい)」と
呼ばれた弓矢のうまさで知られた人々と関係する。

(オロチの射日神話:国立民族学博物館 佐々木史郎)


※アムール川流域と支流の経路。
アムール川に住んでいたオロチ族などの住民は、北海道へ渡り、
オヒーツク文化をもたらし、アイヌ文化と融合しました。

共通して考えられる射日伝承や天の岩戸、招日伝承(アイヌラックル)は、
大干ばつに襲われたことを記したものと、それによって
暗黒の闇の世界を「魔」と考え、その世界から解き放つための光としてもたらされた伝承
と考えられます。

旭神子は、闇から光を照らすあらゆる日(太陽)を示し、
「生きている世界も死の世界にも、人々の魂を光の世界へ導くことを生業とした祈祷である。」
と、いえるかもしれません。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

伊達政宗と葛西氏と旭神子

2017-08-10 | 巫について
伊達政宗生誕450年という事で、仙台では少し盛り上がっているようですが、
伊達政宗は先天性の目の病があり、隻眼(せきがん)=片目の失明でした。
「独眼竜」といわれていましたが、今より当時の時代を考えると、
相当な苦労をされたと想像できます。
実の母に毒を盛られた話もあり、幼少の頃から、片目という障がいについて、
苦労が多かったのは、前回でも書いた話ですが、
目の病は非常に多く、また、そのような方への差別という苦い体験は、
伊達政宗自身、身にしみて感じていたわけです。

アサヒ和歌神子伝説は、ネフスキイ(ロシアの日本民俗学者)の資料による。
オシラサマ研究で、東北の巫祖伝承を初めて採取し、研究の対象にした事で
価値があるといわれています。
巫祖伝承を研究した第一人者は、ロシア人だったのです。

その研究の中で、ワカと呼ばれる巫女の始祖伝承について、
「宮城県栗原郡」や「福島県伊達郡梁川」の八幡神社の地名が記載され、
これらは大和宗縁起のアサヒ和歌神子伝説によるものがあります。

これらの「アサヒ和歌神子伝説」は、巫女のあいだで口頭によって伝承されています。
例えば、岩手県二戸・一戸地方のイタコたちは、旧六月十九日のスズミコと、
十二月十七日にオトシトリという行事に参集するが、前者はイタコの始祖の
「アンチサ(梓)神様」が山籠りから帰還した日、後者は彼女が亡くなって
「若宮大神宮」と成られた日と伝えている。このような巫祖を祀るときに
巫女たちが、それぞれの師匠から伝えられた巫祖をめぐる話を披露しあったという。
その中で、伊達政宗について盲巫の間で口承されてきた事があります。

「昔は目の見えない者だの、皆、殺したったそうですよ。
そしたところで、仙台の伊達公の殿様の子供さんが目が見えない人が出たそうです。
そしたところで、その子供だから捨てるわけにはいかなかったそうです。
だから、その子供さんがおがって(育って)「私は目が見えなくても、こういうように
育ったんだけんども、民家でも私のような人だったら、どなたでも捨てられねがんべ」
って何やらそこ、あだうち(お返し)上げたいと思ったそうです。
その娘さんが片桐リュウコウさんという人だったそうです。
その方が、山形かどこかだかに月山様があるそうですね。
そこさ三年三月オコモリして、そうして帰りしなに、こういうふうな私たちの先代の
ことを伝えてくれたそうです。
そのときの山下がりが六月の十九日だったそうです。
それをスズミッコとして、その人祀ってやんすから。」

※憑霊の民俗:川島秀一より

月山様というのは、山形の羽黒神社のことです。
羽黒神社でオコモリした話が口承とされています。
-----------------------------------------------------------
「宮城県栗原郡」や「福島県伊達郡梁川」に伝承されている
盲巫始祖伝承ですが、旭巫女は宮城県栗原郡、貝田巫女は梁川八幡宮となっています。
この2つの共通点に、何があるのでしょうか。
まず、伊達政宗の娘と、葛西氏(名前は不承)の娘が同じように盲巫として伝承されている事。
もう一つは、ある像です。

陸奥国の石巻や栗原郡を占拠していた武蔵出身(秩父平家)の豪族、葛西氏がいます。
伊達家と同じように、旭という名前の伝承がありました。

「登米の寺池城を本拠としていた葛西氏に、朝日という姫君がいた。
朝日姫は、葛西氏の家臣で志津川城主の千葉大膳太夫の妻となったが、
葛西氏が滅亡してしまい、流浪の身となってしまった。
その後、この地に現れ、里人達は行き場のない姿を哀れに思い、
白山神社の傍らに庵を建てて住まわせた。
朝日姫は、わが身の境遇を嘆き悲しみ、明け暮れに泣き暮らしたために、
盲目となり、世すぎのために巫女となり、「おかみ様」と呼ばれ
この地で一人寂しく没したという。」

※みちのく悠々漂雲の記 宮城県より

葛西氏の娘とされる朝日の伝承地は、
宮城県栗原市高清水佐野丁という所。
この場所は、旭神子始祖伝承の地と重なるのですが、
こちらのサイトの写真をみて、気になった物がありました。

これは、盲巫と関係するのか不明ですが、「ある物」が2つを結びつけていると
わかりました。

それは、神馬に乗った貴族の像。
祠の内部に鎮座されている像ですが、梁川八幡宮でみた像とよく似ているな~と思ったのです。


朝日姫住居跡にある像 ※みちのく悠々漂雲の記 宮城県より

2015年9月、福島県伊達郡梁川の八幡宮で、
「600年の時をこえて御尊像(応神天皇)特別公開」があり、
ご開帳に行ってきたのですが、その御尊像とよく似ているものでした。




梁川八幡宮



馬に乗っているのが、応神天皇とされており、
あまり大きい像ではなかったのですが、
その馬は、朝鮮半島から渡り北海道を通ってやってきた馬なのです。
大きくどっしりした道産子馬(どさんこ)と言われ、梁川八幡宮の馬と、
栗原市高清水の馬のどっしりとした特徴が、よく似ているのです。


どさんこ馬

つまり、旭神子の高清水と、貝田ワカ神子の梁川八幡宮盲祖伝承の共通点は、この像にあるのです。
八幡神社は応神天皇を祀っています。




三十三観音

また、梁川八幡神社は、伊達政宗と愛姫が初めて出会った場所で、
ここで愛姫(めごひめ)を迎えました。
正宗公は当時13歳、愛姫は11歳。
伊達政宗初陣の地であり、伊達政宗にとって、縁の深い神社です。
貝田という名前の由来は不明ですが、貝田駅があり、地名は残されています。


(政宗嫁とり)
※出会った日は、雪の多い真冬だったそうです。雪は足音が聞こえないので、敵に見つからない為に、
あえて雪の多い日を選んだ話があります。

妄想ですが、名取老女は、位の高い高貴なお姫さまだったと思います。
しかし、目が見えない人だったので、盲人のために修行をし、悟りを開くことができ、
そのような人に対して門戸を開いた人であったと。
それから多くの盲人が救われた為、「旭巫女」として伝承されたのかもしれません。

また、盲人の巫女に対し、旭という漢字を用い、
そうでない巫女は、朝日という漢字を用いるように使え分けるような意図もあったのでは?と。

さて、何度も旭や朝日というように、
盲巫に関係なく、多くの伝承には、アサヒという姫や巫女の名前が多く使われています。
「アサヒ」とつける理由は何でしょうか。

つづく。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

盲巫の始祖伝承

2017-08-02 | 巫について
名取老女は、1054年岩沼の志賀に生まれたとあります。
名取老女は、1123年に熊野三社を勧請したとあり、(熊野堂縁起)
死去したのは、1138年説(老女物語)と、1123年説(名取老女由来記)と
ありますが、御年70歳と推定されます。

熊野宮縁起によると、名取老女が鳥羽院の皇女の病を治した伝承がありますが、
鳥羽院政期は、1123年のこととされ、山伏が名取老女のもとへ訪れたのは、
1135年~1141年といわれます。
しかし、熊野堂縁起では、能曲に登場する有名な歌となっている部分、
山伏が梛の葉を熊野堂に持参し名取老女に授けたのは、1166年とあるので、
名取老女が亡くなった後となります。

名取老女の年表については、史書により異なるもので、詳細は明らかではありません。
それより古くは、719年、羽黒大権現(高舘山)を祀る(封内風土記)とあるので、
名取の熊野信仰は、熊野信仰のみではなく、出羽三山信仰や蔵王信仰など、
複数の山信仰の痕跡が残されています。その修験の聖地として広まった背景に、
平泉・中尊寺の存在が大きかったことは言うまでもありません。

さて、前回の旭神子の実態について、盲巫の始祖伝承というものがどんなものであったかを
知る必要があります。神を祀る神社に対し、民間信仰にある巫女とは、個人に向けた祈祷にあります。
命ある全ての人に対する祈祷です。

紀州の熊野信仰は、色どられた神道になっているように見えます。
東北の熊野信仰は民間信仰がいまだに息づいている。
しかし、その部分は今では影になって見えていません。

名取老女が登場する背景に、貧困、差別、格差など、戦乱の中で生きる庶民の不安から
拭い去ることを希望し、将来の不安から払拭すべく巫に託してきた人々の信仰が見えてきます。
その名取老女が「巫」であることを前提に考えないと見えないというのは、
本来の熊野信仰は、かなり古いアニミズムの祈祷が原点にあると考えるのです。

つまり、熊野信仰は、天地創造を行ったのは自然神であり、そこから生まれた人間である私たちは、
大地に生き、自然神と共に働きかける「神と人との共同作業」であることが根本にあります。
「ヒト(人)あっての信仰」という事に尽きるのです。

それは、差別もなく、私たちは自由な体をもって生まれていい。という思想です。
現代人が、片方の目しか見えていない偏った世界になっているのは、
神という崇高なモノへの期待感でしかないからです。
大地は人の足で成り立っている。そのことを踏まえて、盲巫の存在を知ることが大事であることを、
名取老女が訴えているように聞こえます。

世界の伝説・神話では、目を失う話や、逆に目が見えるようになった話があります。
傷をいやし、病を治すのに「水」がよく使われています。

それは聖書でも同じです。ヨハネの福音書9章の一部。
イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、
だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。
ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。
わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。
夜が来る。すると、だれも働けなくなる。 わたしは、この世にいる間は、世の光である」。
イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、
「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。
そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。

-----------------------------------------------------------
ここでは名取老女伝承から少し離れて、旭の巫女についてまとめてみます。
盲巫の始祖伝承は、3つに分けられます。(※1)
1、文書として伝来したものを対象とした。
2、盲人たちが組織した大和宗教法人大乗寺の縁起を対象とした。
3、口承レベルの始祖伝承で、文字を持たない盲人が管理してきたものを聞書対象とした。

日本では、昔、盲人たちは、残酷にも殺されていたそうです。
火で焼かれたという話。
その為、盲人や障がいのある子供たちが生まれると、殺されないように、逃したり、
かくまったりする家があったそうですが、そのような子供たちが自立するために、
多くの盲人たちがタタラ製鉄に従事していた話があります。

タタラ場というのは、山奥にあります。
片目や片脚の伝承、これらは職業病ではなく、障がいを持っていた人たちのことを差しているとも考えられます。
今より昔は、突然失明する病気が多くありました。

弱視の人も含め、多くの人たちは、その報いは過去や先祖のカルマにあると考えられ、
そのカルマを消すために祈祷を行ったり、場合によっては殺害されていた事もあったそうです。
しかし、タララ製鉄しか行く道がなかったわけではありません。
盲人の巫が多いのは、目が見えずとも他にも優れた能力があることを証明したい人はたくさんいました。
後に祈祷や呪術を行う巫としての職業的能力を身につけることになります。

神仏習合になると、神道も仏教も生き残るために、盲人を勧誘してきたこともあったでしょう。
生き残りをかけた思想に、天台宗は修験と結びつき、盲人の教祖を育てあげたとも考えられます。
そのきっかけとなったのが、人康親王でした。

そのような時代(872年)に、人康親王(さねやすしんのう)という盲目の皇子が生まれます。
人康親王は、平安時代前期の皇族。仁明天皇の第四皇子。
母は贈皇太后・藤原沢子(贈正一位太政大臣・藤原総継の娘)。光孝天皇の同母弟。
病気を(両目を患った)理由に出家し、親王は琵琶の名手になったそうです。
江戸時代には座頭・琵琶法師等の祖とされ、琵琶法師が毎年徳林庵に集まり琵琶を演奏し、
親王の霊を慰めたとあります。徳林庵には、 蝉丸・人康親王供養塔があります。
蝉丸とは、平安時代前期の歌人・音楽家。詳細は不明。第59代・宇多天皇の皇子・
敦実親王の雑色(下級役人)、第60代・醍醐天皇の第四皇子などともいう。
琵琶の名器とされる「無名」を愛用し、盲目の琵琶法師だったとも。
 
「これやこの 行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも逢坂の関」(百人一首)。

人康親王の母、光孝天皇が盲目であった皇子の為、天皇は憐れみ、来世の六根を願い、
検校・別当・匂当・座頭の盲官を設け数々の保護を与えて来た伝統によります。
 盲目であれど、悟りを開き、仏の道へいけることを伝えているもので、
琵琶は、盲目集団が「妙音菩薩」の系譜をひく神仏の加護を受けたことを意味しています。

妙音菩薩とは、簡単いうと、霊鷲山(りょうじゅせん)に来て法華経を聴聞した菩薩様が、
美しい声で土方(じっぽう:十方)を世界に広めるといった意味があります。
その結果、光孝天皇の考えや人康親王により、盲人が殺されることはなくなったそうです。
--------------------------------------------------------
大和宗に戻し、ここに伝わる始祖伝承について。

岩手県川崎村の大和宗聖徳山大乗寺に「教祖貝田大法尼 旭大法尼精霊塔」が
建てられています。(名取老女和讃がある)

(※2)

大和宗は、盲人で組織された宗教ですが、大乗寺にたくさんの「オシラサマ」が保管されています。
目の神、蚕の神、農業神、馬神などの信仰が由来にあるオシラサマは、巫女が祀具として用いたものでした。

オシラサマは岩手県の民間信仰のひとつ。
大乗寺には、包頭型184体、貫頭型16体、合計200本のオシラサマが奉納されています。
貫頭型の中には、武士や烏帽子をかぶった人面型のもの、
オシラサマを収納するお宮と一緒に仏像や、お金、経文も残されています。
 大量のオシラサを保管している理由は、口寄せのオカミサマが亡くなり後継者がいなくなった為、
祀ることもできず粗末に扱うこともできなかったオシラサマが自然に大乗寺に納められるようになったといわれます。
10月16日には、僧侶や現在活動しているオカミサマたちが遠方から集まり、
それぞれのオシラサマに赤い布を1枚着せて(コロモガエ)を大切に祀っているそうです。



※大乗寺のオシラサマ

また、大和宗の組織化について、独特な関係がありました。
大和宗では男性盲僧がおこなう儀礼と女性巫女者が行う儀礼が異なっているにも関わらず、
統一化できたのは、婚姻関係にあったことです。
男女の違いは、仕事面では男性は、祈祷、占い、八卦、マッサージを行うが、
女性は占いや八卦を男性師匠から習っていたが実際にはあまり使っていないという。

女性の弟子は、女性の師匠からしか修得できない儀礼として口寄せやオシラサマアソバセを習うが、
男性は習わない。男女で修行内容が異なるので、修行期間も異なっていた。
このような男女の弟子による違いを超えて大和僧と女性巫者の婚姻関係と
それぞれの弟子たちをとりこんで形成される擬制的な家族関係がありました。(宗教研究88巻:2015年)

つまり、名取老女が旭とよばれたのは、旭の巫女という女性とされるが、
夫の盲巫もおり、夫婦関係にあったと考えられるのです。

地元に伝わる「老女と烏宮」の伝承では、紀州の老婆は、
目を患って同じように熊野の神社に千日詣の願掛けをしたら、夢枕に神様が現れ、
「奥州に脚の患う老婆に較べれば、お前はまだまだ信仰心がたりない。
奥州へ下って老婆を訪ね、共に熊野に参るがよい」とお告げがあった。
 紀州の老婆は杖を頼りにやっとの思いで奥州中田の宿で草鞋を作って暮らしていた老婆の家にたどり着いた。
二人が手をとりあって熊野へと旅立つ間、中田の老婆はひと足運ぶ度に足は軽くなり、
紀州の老婆は一歩毎に目は明るくなって熊野に着いた時には二人の病は治っていた。


二人の老婆の関係は、二人の盲巫の始祖として伝承されているものと似ています。
また、烏宮を男性、老女を女性と考えると、二人の間が夫婦であるように設定されていようにも読みとれます。
病や障がいをもっても、熊野神に祈祷すれば、誰でも奇跡を起こすことができる。
といった伝承があったようです。

 大和宗の管長は、4名おり、妻はみなオカミサンとして活躍していました。
このような婚姻関係は、岩手県南部で広くみられた風習で、盲目の巫女(盲巫女)の方が、
盲僧より尊ばれていたそうです。これは女性巫女への儀礼依頼が多かったことにあります。
 では、なぜ旭とよばれた人が、盲人の教祖になったのか。その歴史を遡るとインドへ辿りつきます。
---------------------------------------------
 東北地方の巫祖伝承は、仙台藩領の地神盲僧があり、
口寄せ巫女は藩政時代から天台宗の中尊寺が管轄していました。
しかし、中尊寺に対する得度料や志納金の徴収をめぐって対立が続いたため、
1937年に「天台大和教」として独立しました。(※2)

 1946年、仙台にある土井晩翠記念公園では、「主婦の友」と題した座談会があり、
土井晩翠の奥さんが、その会の中心となってシャーマン思想を唱えていたそうです。
天台宗大和教は地神盲僧派であったのが、1953年頃に盲僧派は、天台宗から切り捨てられ、
この頃から、シャーマンが迫害されるようになっていきました。

 地神盲僧というのは、土地神のアニミズムな要素を含んでいる言葉です。
後に陰陽師に影響され、陰陽道に結びつけられます。
琵琶をもった盲僧(地神盲僧)が地神経を唱えて地神や荒神の祓いをして歩いたことも伝えられており、
歩き巫女といわれるように、その土地の穢れや怒りを鎮めるための、行脚(遊行)と考えられています。
 
 大和宗の縁起について、「教祖貝田大法尼 旭大法尼精霊塔」の碑文の裏に、
「目連尊者(もくれん)」の話が書かれています。
岩手県南部~宮城県北部にかけて陸前北部で活躍していたオカミサンとよばれる巫女は、
アサヒ和歌神子伝説の他に、「目連救母伝説(盂蘭盆会うらぼんえ)」という、
アサヒ和歌神子以前の伝承として語られる説話があるそうです。

御釈迦様→目連尊者→慈覚大師→貝田和迦巫→旭 という系譜で伝わっている。
 目連が日本におけるお盆及び盆踊りなどの行事の創始者とされています。 

「大和宗の縁起を尋ねるに其の昔御釈迦様が御弟子の目連尊者に伝授された招霊の秘法・・・」
という文言で始まるのですが、「招霊の秘法」とは、「口寄せ」のこと。
 「目連尊者が亡き母の恋しさから、或日釈尊にお問いなされた。
いかにして亡き母に会えるやと」といった「目連救母伝説」が具体的に書かれているものですが、
目連救母伝説と、「アサヒ和歌神子伝説」が合体したものが、「大和宗の縁起」になったと考えられるそうです。


※目連尊者

 目連救母伝説は、簡潔に述べると、良き行いをしていた母が亡くなった後も、地獄で苦しんでいる姿を娘は、
なんとかして救済したいと目連に願います。
そこで、目連尊者は御釈迦様とコンタクトをとり、母に供物を与えたり水を与えるように願い、
それが聞き入れられると母は地獄から救われるようになった話になっています。

これが、日本でもお盆に行われる施餓鬼(せがき)に通じるもので、
あの世へ行っても問題なく過ごせるように、といったことを巫女の神托や祈祷、
呪術によって霊と御釈迦様との交信により、天上させる役目もありました。
 亡くなった人が、地獄といわれる低い状態から、天上(天国)という高い状態へ魂(波動)を
変える方法というのは、私たちには理解しがたい事かもしれない。
しかし、イタコや口寄せといわれた人は、霊との交信ができるような方法を学び、
道具を使って行っていたことがわかっています。

例えば、
 宮城県栗原地区の口寄せ技法では、弓による口寄せが最後まで行われていました。
オカミサンたちのほとんどが、「目連救母伝説」を伝承しています。
 亡くなった母に会いたいと思っていた目連が釈迦に相談したところ、
母の声だけを聞かせること(口寄せ)ができる方法を教えられる。

その方法とは、壇持山の東の方から7尺の桃の木をとってきて、弓台を作り、
西の方から3尺2寸のホチク(日本では柳)をとってくる。
それを弓糸に用いる。それから南の方へ行きそこにいる観音様がきている麻から糸を抜いてきてそれを弓糸に用いる。

また、目連の母親は地獄に落ちているので、そこから救い出す道具として西の方から手に入れてきた
絹の糸か真綿(蚕のまゆ)を必要としたといい、それによって目連は口寄せを通して
母親を救うことができたという話になっている。(※3)
実際の弓は、梓(あずさ)弓の木で作られます。

口寄せという儀礼は、巫女が語る目連救母伝説と対応していることになっているのですが、
東北地方の植物を使った道具が特徴です。巫女の祈祷については、後で詳細を述べることとしますが、
「貝田」と「旭」という二人の関係が謎の部分が多いのです。
二人の教祖を勧請しようとした大和宗があるのですが、
「旭」は、宮城県高清水町(栗原市)で、「貝田」は福島県梁川町に関係する伝説地になっています。

 しかし、「貝田」という人の実態は不明で、梁川八幡宮にその由来があると伝承されていても、
その痕跡がありません。しかし、梁川八幡宮といえば、伊達政宗ゆかりの地。
伊達政宗といえば、独眼竜です。
ここに結びつける話が、盲巫さんの証言にありました。
つづく

※1 盲僧と盲巫の始祖伝承:石川正己
※2 憑霊の民俗:川島秀一
※3 巫女が伝える目連母伝説―陸前北部の口寄せ縁起:川島秀一
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

旭神子とは

2017-08-01 | 巫について
名取老女が熊野信仰を開いた話から探訪が始まり、
気仙沼の室根神社や瀬織津姫神社、御崎神社へと参拝してきましたが、
最後に立ちよったのが、補陀寺でした。

補陀寺は、寺伝によると寛平2年(890年)、
天台宗の補陀寺と号して赤坂小沢田に開かれたと伝えられている。
保安4(1123年)、名取の老女(旭神子)が、名取郡に熊野三所権現を勧請し、
奥州を巡礼して三十三ヶ所の観音堂を建立、補陀落寺を三十番札所と定めたという。



その後、廃絶したのを葛西家臣で細浦館主熊谷直元公が文亀元(1501年)
正法寺九世虚窓良巴禅師を招いて細浦に曹洞宗補陀寺を開創。
天文七(1538年)、宝鏡寺六世周庵文懊和尚が現在の地に移し、
中興開山したとされている。

この六角堂は、八世梁有智和尚が、宝歴十一(1761年)
札所再興を祈念発願し、弟子の日東遼天和尚によって翌十二(1762年)
に完成されたものである。





八角堂を通例とする和尚円堂としては全国でも稀な六角堂で、
軒を支える組物や屋根組みの構築など技巧を要する。
堂の内外は朱塗りで、一辺の長さが2.69m、高さ8.26mある。
屋根は六角錐体、赤瓦葺(元こけら葺)。
天井に墨絵の龍を描く。



唐様の須弥壇に入母屋造で千鳥破風や軒唐破風をつけた、
こけら葺の家形厨子をのせ、恵心僧都の作と伝えられる秘仏の如意輪観世音座像を
安置している。
正面に、仙台瑞鳳寺十四世南山古梁禅師の額「観世音」を掲げる。
棟梁は気仙沼三日町の瀬左衛門という。
享和二(1802年)の修理文書が残る。
江戸時代中期の社寺建築として貴重である。




---------------------------------------------
補陀寺には、名取老女の絵が残されているそうです。
名取老女は「旭」とよばれた巫女でした。
巫女であることは以前から知っていましたが、旭神子とよばれた巫女の
実態を知って、まさか、と思いました。
いや、そうなる予感はどこかであったのかもしれない。

これは、熊野信仰や名取老女だけを調べていたら、見えませんでした。
しかし、「旭神子(若神子)」だけを調べると、見えたのです。
名取老女は、盲巫の教祖だったのです。
「あさひわかみこ」というのは、ある独特な宗派をもった教祖のことでした。
若神子というのは、巫女のことを表す言葉なのですが、
「盲人の巫女」の総称を、「旭神子」と言うのです。
(単に朝日という名前だけの巫女もいます。)

名取老女は盲人の巫女か、夫が盲巫だったという事。
いずれにしても「盲人」の教祖となった人が、名取老女となっているのです。


その実態を知り、私も目が見えたような感覚です。
盲巫たちが伝承したのが、旭神子であり、それは名取老女だったのです。

気仙沼から帰ってきてすぐに、名取老女について改めて資料を確認しようと思い、
整理をしていたところ、
「熊野堂郷土史」の最後の方に用語集の記載に気づきました。
1年以上、そのままにしていた資料だったのですが、
その一部分の行を読むと、一関にあるお寺について書かれていました。

「名取老女」の項目に、
「岩手県川崎村の大和宗聖徳山大乗寺に『教祖貝田大法尼・旭大法尼精霊塔』
が建てられている。(名取老女和讃)」

「名取老女和讃」というのは、実際のところどんなものかわかりませんが、
名取老女を奨励するような五七調の歌が残されているようです。

「お墓は、熊野堂の板碑群で有名な大門山に葬り往生院とされる(三浦家文書)」
「下余田の老女の墓や熊野三社は、老女の子孫が建てて祀ったものと考えられる(名取老女旧跡記)」


※大門山遺跡(石組)

・・・気仙沼から帰ってきたばかりなのに、「岩手県川崎村」といえば、
かつて、「磐井郡」とよばれた地区にあたり、エミシ征伐の合戦場になっていた地でもあります。

大和宗聖徳山大乗寺というお寺の存在は知りませんでした。
知らなかったというより、知らされていなかっただけなのです。
大和宗聖徳山大乗寺とは、盲人たちが組織した宗教法人です。
あとで、詳しく述べますが、盲人たちが口承で伝えてきた旭神子の始祖伝説があります。
-----------------------------------------------------------
そのお寺の実態を知った私は、曽祖父を思いだしました。
私の父方の曽祖父は、若くして全盲になり、盲巫になった人です。
目が見えなくなった恐怖と不安で、神道の道に入ったと父から聞きました。
実家の奥の北側に神棚が今でもあるのですが、当時は、近所の人たちがたくさん拝みにきたそうです。
父は、曽祖父が毎日祈祷してくれたおかげで、我家は安泰でいられるといつも言っていました。
父は、そんな曽祖父がいたから、実家の祖神を大事にしています。
それが、私に伝播したのでしょう。

一枚だけ、曽祖父の写真をみせてもらったことがあります。
武甲山の山頂にある御岳神社の前の集合写真です。(明治時代)
その当時としては背が高く180センチくらいあったと思います。
目は見えているように見えますが、突然、若くして全盲になった後も、
東京まで峠を越えて講を行っていたそうです。(宗派は不明)
しかも、驚いたことに、結婚もしていたのです。
奥さんは普通の人(目はみえている)だったそうですが、父から曾祖母については
何も聞かされていないので、どんなおばあちゃんだったかは知りません。

巫女の祈祷というのは、実際、家族を平和にもたらすものだったと思います。
子孫繁栄のための祈りです。
曽祖父は、盲目になった為に、全身全霊でもって目が見えない世界の中で、
自身と向きあってきたのです。
人は、どんな障がいがあれど、生きていることに変わりはない。
同じように心をもっていることを、体現したかったのではないでしょうか。
そして、それを誰かに伝えたい。という一心さを感じるのです。
なので、今、名取老女であることを、私は曽祖父によって教えられているのです。

しかし、多くの人は、ご縁がなければそこを見ません。
でも、私たちの方が盲目だったということがあります。
目が見えないから、何も見えないというのは違うのです。
----------------------------------------------------------
ということで、名取老女の実態がみえてきたところですが、
一番の謎があります。
なぜ、旭とよばれた名取老女は、名取に熊野三社を開いた話になったのでしょうか。

これは、奥深い影の東北の歴史ですが、そこを寄り添っていこうとした
名取老女(旭)の行いは、奨励すべきものかもしれません。
しかし、熊野修験は何も伝えていない。
ひとつだけ、地元の伝承に、
「紀州の盲目のおばあちゃん(熊野信者)が足の弱い名取老女に会いに行き、
二人が出会うと、目がみえ足も治った」という話しか残していません。

そのことについて、いろんな文献を探しても、
旭若神子が名取老女である由縁を伝えているものがありません。
まだ見つかっていないだけかと思いますが。
しかし、名取老女は旭とよばれた巫女であることは伝承されており、
大和宗がそのことについて、称賛してきた経緯があったようです。

その実態は、誰にも伝わらず、耳に入らずにいたのは、
あえて隠していた部分があったからだと思います。

しかし、なぜ、熊野修験は盲巫を神格化したのか。
また天台宗は、盲巫女をサポートしていたのか。
東北地方のイタコ、口寄せ、オナカマサマ、オカミサン、オシラサマなどなど。
東北地方独特の巫女の実態がみえてきましたが、
その多くが盲巫によって形成されていたようなのです。

影の東北とは、見ることも知ることも拒んできた歴史。
名取老女は、目が見えない人に見えるようにした奇跡の人か、
もしくは、障がいのある人に職業を与え、自立させた最初の人か。
考察をはじめると、意外なことがいろいろと見えてきました。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加