名取熊野老女物語

名取の熊野三社を開いた名取老女伝説について。

室根神社へ参拝

2017-07-19 | 東北地方の熊野信仰
6月30日の大祓の日に、室根神社へ参拝する流れになりました。
全員の都合のよい日が、たまたま6月30日だったので。
その日が大祓の日ということに直前まで誰も気づかず…。

29日、名取熊野那智神社へ精麻を奉納させて頂きました。
これも30日の直前という流れに。



いろいろとタイミングよく流れる行動に、
名取老女の計らいと思い、気合いが入る・・・。

室根神社は、以前からずっと行ってみたい所でした。
それは、紀州熊野神社の「瀬織津姫」を「移した」という説があるからです。
参拝しよう!となって日程を決めたのが、6月30日だったのです。


雄大な北上川



まずは、知っておきたい気仙沼の熊野信仰。



室根神社の歴史と瀬織津姫------------------------------

安永4年書上「元正天皇養老二年(718年)九月御勅願。
紀州牟婁郡音無河より御舟にて御下向。
(宮城県)本吉郡唐桑村鮪立(しびたち)御上り、室根山へ勧請」
「これより鬼首山を改め牟婁峯山と称し、以後は室根山。
けだし紀州牟婁より熊野本宮勧請をもってなり」

(室根村=現在の一関市『室根山』)



他にも、ムロは館(むろみつ、海津の官舎)や、
熊野神社の御室(むろみつ、御森)からついたなど、いろいろと諸説があります。



唐桑村鮪立という島へ上陸した話になっているのですが、
そこに仮宮を建て熊野本宮神を安置したそうです。
最初は、業除神社、次に舞根神社(瀬織津姫神社)に安置したと伝わります。





※瀬織津姫神社(舞根)

鮪立の業除(ごうのけ)神社の場所が不明だったのですが、
業除神社も紀州熊野神社御分霊とされています。


鮪立の湾


室根神社の由来---------------------------------------

718年元正天皇の勅命により蝦夷降伏の祈願所として紀州の熊野大社本宮から勧請し、
数百人の供奉と共に数カ月の海路をとって呼び寄せたもの。
その後、ヤマトタケルの蝦夷征伐の伝説とした。
紀伊国藤原押勝は、紀州名草の鈴木左衛門穂積重義と湯浅の湯浅玄晴を従え、
宮城と岩手の県境の唐桑半島に船で到着しました。





初に神霊を安置したのが気仙沼市唐桑町鮪立の業除権現神社。
次に熊野本宮の神を舞根に安置したのが瀬織津姫神社。
熊野速玉大社の神霊を勧請。
唐桑の漁師、畠山氏は最初室根神社の鎮守の森に「牡蠣の森」の標識を掲げた。

気仙沼市には、上記の穂積重義を祖先とする古館家などの家系が現存するとされる。
源義経に従って陸奥に随行し、そこで討死した鈴木重家の遺児の重義を奥州鈴木氏の祖とする
系図があるが、陸奥には鈴木氏が多いから、この鎌倉期以降の分布で全てが説明できないと
みられる。

※舞草刀と白山神そして物部部族:宝賀 寿男より


水神


ここが、一番重要だった室根山の水です。


(役小角みたい)

一関平泉の舞草神社(日本刀発祥地)のある観音岳のふもとに、白山神社が祀られています。
このあたりは、「大野東人」の伝承があり、
大野東人は、熊野神の分霊を迎えた起源が記されており、
熊野神と陸奥の関係を結んだという由来。

紀州から瀬織津姫を移したのは、熊野本宮神として、エミシ降伏の祈願神と捉え、
陸奥にやってきたという話です。



旧室根村のHPには、室根神社の創祀伝承が記載されており、
「養老二年(718年)、大野東人は鎮守府将軍として宮城県の多賀城にいて、
中央政権に服しない蝦夷征討の任についていた。
蝦夷は甚だ強力で容易にこれを征討ができなかったので、神の加護に頼み、
当時霊威天下第一とされていた紀州牟婁郡本宮村の熊野神をこの地に迎えることを
元正天皇に願い出て認められ、その結果、
「紀伊国名草藤原の県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義、湯浅県主正四位下湯浅権太夫玄晴」
とその家臣が熊野神の神霊を奉じて紀州から船出して、五ヶ月後に陸奥の本吉郡に着いた。
瀬織津姫神が「熊野本宮神」としてエミシの地に上陸した地が
宮城県の唐桑半島(同県気仙沼市〔旧本吉郡唐桑町〕)である。



唐桑半島の御崎神社と日高見神社。


(面白い雲~)

先にも述べたように、その舞根(もうね)地区に神を仮安置したのが、舞根神社(瀬織津姫神社)
だとされます。
熊野本宮神は、鎮守府将軍大野東人が受けた託宣により、磐井郡鬼首山、
今の一関市室根町の室根山(標高895M)へと祭祀地が遷ったという。
現在の室根神社の本宮神は伊弉冉(イザナミ)命ですが、
中世に勧請された新宮神は速玉男命・事解男命とされており、瀬織津姫の神名はありません。



室根山の鈴---------------------------------------------------------

熊野神社を勧請した穂積氏とは・・・

「熊野権現縁起」より、第5代孝昭天皇のとき、紀伊国の山奥、千尾の峯に、
神人が竜に乗って、み姿をあらわした。
人々があがめ奉るなかに、一人の男が進み出て、十二本の榎のもとに神を勧請した。
神は、男に榎本の姓を賜わった。
その弟はまるい餅を作って神にささげた。
神は感じて餅にゆかりの丸子(わにこ)後に(宇井、鵜居)の姓を与えた。
第三の弟は、稲の穂を奉納した。神は穂積の姓を授けた。
この3人の祖は、漢の国からはるばる日本にやってきた司符将軍末孫だという。
長男を真俊、次男を基成、三男を基行という。」



金の鈴と銀の鈴

丸子氏は、①大伴氏②武蔵江戸氏流の2つがあります。


丸子氏の家紋

穂積を鈴木という由来は、「積まれた稲穂」、「稲むら」で熊野地方では、
これを「ススキ」といい、穂積は、まったくススキと同義語である。
 鈴という漢字をあてたのは、
・神官が鈴を榊などにつけて祭事に用いた。
・スズは、酒瓶のことでやはり神器の一つ。
・小竹(ささ)もスズというが、これも祭事に用いる。
・アイヌ語のSUSより、清浄を意味する。清水もスズという。鱸の字もすずき。



名草郡藤白浦が鈴木の中心となり、丸子の両氏をおさえて熊野社家の中心勢力を
かたちづくる大豪族に発展したと。
後白河上皇34回、後鳥羽上皇は28回も熊野詣を行っています。





「えみし馬」があったように、このあたりは、軍馬がたくさん飼育されていました。
ほとんどの馬が戦死してしまった為、供養塔としています。

ちなみに、名族秩父氏の流れを汲む武蔵江戸氏の支流の一族が丸子氏。本姓は桓武平氏。
江戸氏を養子として継いだ、畠山重保の孫・重長の三男である家重が丸子を称したのが始まりです。
気仙沼には、畠山姓が多いそうです。


※海は森の恋人(畠山重篤氏の碑)

紀伊・信濃・大伴糖手の子である丸子頬垂が初代であり大和のワニ氏の事だとされますが、
ワニ氏は「丸(マル)」ともいったそうです。(おそらく丸が象徴)
これが、日本海側の太陽信仰をもたらした朝鮮系鍛冶集団といわれます。



鳥海山もかつては修験の場で栄えており、丸子氏がいたところで、
地元の伝承では、鳥肉を食べないタブー伝承があります。

ワニは「王仁(わに)」がいます。(九州~さきたま王国を造ったとの説も)
それに、アテルイとモレの墓場は、清水寺の他に、
もう一つのアテルイ説として、「王仁」という人のお墓が大阪牧方市にあります。
ここにも、アテルイとモレのお墓が伝承されているのです。
牧方は、七夕発祥地です。

カササギという黒い鳥伝承があり、カササギはヤタガラスとの説もあるのです。
仙台では七夕祭りが有名です。
七夕にはデネブという白鳥の星があるのですが、中国では白鳥ではなく、
カササギのことで、中国からもたらされた七夕伝承は、
カササギの羽で橋を作り、出会わせた話になっています。

アテルイの地とカササギ(ヤタガラス)、七夕、王仁説が、
一つの線でむすばれているようです。
その線上に、瀬織津姫が存在しているとなれば、興味深いですね。


安達吟光作「八咫烏を追う神武天皇」。左上の鳥が八咫烏。


今回巡った所(皆神山は、皆鶴姫の間違いです。)
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金蛇水神社と熊野信仰

2017-07-14 | 名取の熊野神社
金蛇水神社の聖水とは、
日本刀で有名な三条小鍛冶の名刀を創る時に使用した水と伝わります。


※金蛇水神社の霊水

熊野堂郷土史年表では、
「989年9月京都の三条小鍛冶宗近、勅命により宝刀を造る際、
岩沼の金蛇水神社のご神体を造り奉納する。」

三条小鍛冶宗近は熊野堂神社御宝物の金注連を造った人物と伝えられる。





金注連とは、名取老女が巫女である証拠のひとつで、名取老女が身につけていたと伝わるもの。
僧侶のかける輪袈裟、修験者の用いる結袈裟を製鉄にしたのが、金注連と考えられる。


名取に熊野三社を建てたのは、鉄を造るのに最適な環境にありました。
高舘山(熊野那智神社)は、一定に吹く強い風が自然のフイゴになったそうです。
なので、熊野飛龍大権現として不動明王の祀るのです。


※金蛇水神社の牡丹祭

その場所には、製鉄跡があったそうです。(詳細不明)
確かに住んでいてわかりますが、那智の風はとても良い気をもたらしています。
夏場は常に風が吹いていますが結構強い風です。
熱い夏には最適な風で、自然の扇風機になっています。

また金蛇水神社から仙台方面へ街道を(39号線)すすむと、
藤原実方のお墓があります。
「995年 近衛中将藤原実方、陸奥守となり熊野堂を通過し、栗木を渡り、
西多賀を経て国府多賀城に至る。(西多賀郷土史)」
998年12月、実方中将は、笠島道祖神にて落馬し没す。
その子孫紀州熊野別当となる。」



別当とは、9世紀から13世紀末頃にかけて、現地において熊野三山
(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の統括にあたった役職。

名取郡は、713年に置かれました。
715年に陸奥鎮所が太白区郡山におかれ、
720年に閖上の猟師により十一面観音菩薩を引上げ、後に高舘山に祭祀しました。
それが那智山観音大権現の由来となっています。
742年には、「稲田社」として現在の熊野堂、熊野神社境内に稲の神を祀ったとあります。

藤原実方の伝承には謎が多く、お墓のあるところから少し北上した所に、
猿田彦とアメノウズメを祀る道祖神がありますが、
そこで亡くなった(落馬)と伝わります。
----------------------------------------------------
古来の陸奥街道で熊野へ行く道でもありましたが、熊野別当になった実方の子は、
熊野別当九代殊勝の娘と系譜に書かれている。
母は熊野別当祖泰救母とあり、穂積氏にあたるのです。



紀州熊野水軍による布教があった地に鈴木姓があり(発祥地?)、鈴木姓と熊野は
深い関係があるようです。穂積氏はその「ススキ」から由来すると考えられ、
鈴木屋敷というのがあるそうですが、そこには源義経が牛若丸の時に、
何度も訪れていたそうです。

なので、気仙沼周辺に義経伝承が多く、また熊野神社も海側に非常に多く
祀られている由縁は、鈴木氏や穂積氏が関係しているからです。


※藤白鈴木氏が代々神職を務めた藤白神社
(始祖は饒速日命 )

鈴を使った神事や祈祷とする由来や、小竹のササやスズという言葉から祭事に使うもの、
いずれにしても鈴は祭事に使用するものを意味し、穂は、ススキから由来します。

そう考えると、東北地方の海側に五十鈴神社が多く祀られていること、
室根山に穂積氏が紀州熊野から瀬織津姫を移したという伝承、
義経が逃れた伝承が多いのは、熊野信仰が深く関係していることがあげられる。
実方中将は、熊野信仰を陸奥へもたらすために必要な役目として派遣されたのではないか、
という妄想が広がります。

また、穂積氏は日本紀の「姓氏録」によると、
櫛玉神饒速日命(くしたまかむにぎはやひ)の後裔物部氏で熊野国造とある。
本拠は、紀州国牟婁(むろ)郡新宮であるが、いま、この地に鈴木氏が中心となっている。
この地には、鈴木一族が移住し、丸子の両氏をおさえて熊野社家の中心勢力を
かたちづくる大豪族に発展したと考えられる。(
資料:姓氏 丹羽基二著)

丸子氏は、遊佐町丸子に住み、鳥海山信仰に大きな影響を与えた一族であるといわれます。
鳥海山の麓、大物忌神社のある地域に丸子氏が移住しており、
古くから修験の場として栄えていました。
鶏を食べないタブー伝承もあります。
同じ熊野別当から派生した一族とあれば、その一派が出羽三山の修験になったとか。
なので、月山登山途中に「行者返し」という道がありますが、
出羽派と吉野派の派閥となり、いろいろあったのでしょう。

熊野縁起紀によると、
「第5代孝昭天皇のとき、紀伊国(和歌山)の山奥、
千尾の峯に、神人が竜に乗って、み姿をあらわした。
人々があがめ奉るなかに、一人の男が進み出て、十二本の榎のもとに
神を勧請した。神は、榎本の姓を賜った。
神は感じて餅にゆかりの丸子(わにこ)後の宇井、鵜居の姓を与えた。
第三の弟は、稲の穂を奉納した。神は穂積の姓を授けた。
この3人の祖は、漢の国からはるばる日本にやってきた司符将軍の末孫だという。
長男を真俊、次男を基成、三男を基行という」


室根山のムロが、牟婁から由来しているのは想像できます。
出羽国にあった山形県千歳山のあこや姫伝承と藤原実方の関係性、親子だったという説、
あこや姫はそれから笹谷峠を通り、川崎町にも登場し、青根温泉を見つけたという伝説も
ありますが、それ以降の北の方では、ぱったり途絶えています。

その場所に共通するのは、藤原実方伝承で、
岩沼~名取には、実方伝承が数多く残されています。
時代はあこや姫の方が古いのですが、それは先に日本海に鉄民の出羽三山信仰が
うまれていたからでしょう。
後に陸奥の太平洋側に同じ鉄民の熊野信仰がやってきたと考えれば、
あこや姫から名取老女に変わった巫女伝承がみえてきます。
とにかく東北は、「みちのおく」といわれるだけあって、
奥が深すぎて迷宮入りするのですが、それは「影」の部分が大きく関わっていたからです。

なぜ、影にされたのか。
それは、これから明らかにされていくと思います。
ということで、これからも私たちは、どんどん光をあてていこうと思っています。


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名取老女の伝説 その2

2017-07-13 | 名取老女伝説
「老女と烏宮」
昔、中田村前田に一人の老婆が住んでいた。
早く夫に死なれて頼りにする身よりも無く、その上足を病んで歩けなくなった。
 ある時、老婆は熊野の神様は有難いと聞いて一心に信仰した。
毎日草鞋(わらじ)を作って貧しい暮らしをしていたが、
日に一足だけは神様に差し上げるものとして旅人から銭を取らなかった。
 一方、紀州にも似たような老婆がいた。





この老婆は目を患って同じように熊野の神社に千日詣の願掛けをしたら、
夢枕に神様が現れて
「奥州に脚の患う老婆に較べれば、お前はまだまだ信仰心がたりない。
奥州へ下って老婆を訪ね、共に熊野に参るがよい」とお告げがあった。
 紀州の老婆は杖を頼りにやっとの思いで奥州中田の宿で草鞋を作って
暮らしていた老婆の家にたどり着いた。



 紀州の老婆は訪ねてきた訳を話し、翌日二人の老婆は手を取り合って
熊野へと旅立って行った。 途中二人はお互いに励まし合い助け合って旅を続けた。
 ところが不思議なことに中田の老婆はひと足運ぶ度に足は軽くなり、
紀州の老婆は一歩毎に目は明るくなって熊野に着いた時には二人の病は治っていた。
 二人の老婆は熊野の神様にお礼参りをして、それぞれの家へ帰る事になった。

 中田の老婆が熊野の神様の分霊を戴いて中田へ帰る途中たくさんの
烏(からす)が群れをなして老婆を守り家まで送ってくれたそうだ。
 老婆は前田の地に社を建てて分霊を祀った。
烏の群れはしばらくの間その社の周りを舞い飛んでいたので
村人はこの社のことを烏宮といった。

(※太白区の昔話より)


(ジオラマ風)

烏宮守家・・・守氏の遠祖は、藤原叙用(のぶもち)。
藤原鎌足十世の孫にあたる。920年頃武蔵国に於いて神官を
奉職しはじめて斎藤氏を称した。
斎藤壱岐尉源七郎がその初代である。(通称:斎藤壱岐)

この地方の荘官として紀州熊野の信仰心が厚く、神の託宣を行う巫であり、
神霊の降臨を乞うてそのお言葉を取りつぎ、信者に告げる役目でした。

紀州の修験と名取老女は、夫婦だったかもしれない。
それは、「名取老女に会いに行く」目的があったからです。
その目的というのは・・・。



熊野那智神社から見る閖上の空がきれいでした。
名取老女もこの風景が見えていたのでしょうか。
心で見えていたのかもしれない。
海も光ってみえる。





光も、6つの花が咲いているみたい。
まさに六芒聖だね。
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名取が最北の邪馬台国?

2017-07-12 | 名取の歴史散策
熊野三山周辺に、「飛鳥下」の地名があります。
飛鳥下があれば、飛鳥上もある・・・。
飛鳥の地名がけっこう広い範囲にあるのです。
これは奈良の飛鳥が由来なのでしょうか?
それとも熊野の阿須賀でしょうか?




このあたりが飛鳥下

ところで、こんなブログを発見。
「邪馬台国と大和朝廷を推測する」より
陸奥の邪馬台国
http://uminohakata.at.webry.info/201011/article_3.html

なるほど~。



熊野堂郷土史略年表より、
「723年郡山の国府があり、この頃、飛鳥の里(飛鳥神社)を名取の里に
移されたと伝えられる。」
「鳥羽天皇の保安4年(1123)三神の神霊を名取河南飛鳥丘に地を相し
」という伝承。

これも熊野信仰に関係しているのか?と思ったら、
熊野三山より前に飛鳥の地名があったそうです。

「熊野堂飛鳥神社より」
「飛鳥は、枕詞の「とぶとり」からの起源といわれ、
推古天皇が都として約百年、政治の中心地でこの時代を飛鳥時代という。
~(省略)
この熊野堂のアスカは、縁起にある熊野権現歓請以前からの地名と考えられる。
大昔には名取郡に国衛・国のお役所があったと言われる。
そしてこの陸奥国の政治の中心だったことを認めざる得ない事実が最近発見されている。
この熊野堂から東北約4キロ位のところに郡山遺跡がそれである。

郡山は名取郡内で現在は仙台市に編入されている。
その遺跡調査の結果、東西428m、南北422mのほぼ方四町の占地を
行っていることが明らかとなった。
造営の上限は7世紀末、下限は外郭大溝一層出土の土器群、並びに併設された
寺院に使用された瓦の技法・文様などから、陸奥国府多賀城創建年代である
養老から神亀年間の前後と考えられる。
存続期間が短く、国府多賀城の造営時期に週末をむかえた」




仙台藩伊達家よりまえの名取を繁栄していた豪族がおり、
それから熊野三山が建てられました。
その後、伊達家が高舘へ入り、祈願している経緯があります。
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太白山の側にある「佐保山」という地名が前から気になっていました。
聖武天皇の陵墓を「佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ)」といいます。


※奈良の地図

太白山に祀られている八幡神の御神楽が、今熊野神社の神楽と由縁があるのも
うなずける。
それは、ここが奈良の佐保山に由来するのかもしれないのです。
太白山に近いところが。


※仙台市の地図

陸奥国分寺には、大和町、紫波町の地名があり、
東北最大の円墳が発見された若林区一本杉の「法領塚古墳」があります。
一本杉ということから、水沢の角塚古墳を思う・・・。
角塚古墳(前方後円墳)にも、一本杉が立っています。
陸奥の大和を開こうとした貴族や豪族の墓であることは確か。



藤原不比等がよくでてきますが、息子4人を歴史用語として、藤原四家という。
長屋王の乱があった藤原四家(藤原不比等の四男)の中で、
藤原南家は、藤原豊成を祖とする藤原氏で「麻呂」という
名前をつける人が多い。藤原武麻呂や、丸子氏系譜?

昔、長屋王は、藤原四家によって殺されたという話があります。(自殺)
それから、聖武天皇の鎮魂が始まり、東大寺の大仏が建立されるのですが、
金を多く使っていました。
しかし、奈良や近畿地方ではあまり金がとれない。
陸奥国にはたくさん金があることを知った聖武天皇は、寒河江の慈恩寺を
勅令し、出羽三山周辺を金の修験として囲みます。
また慈恩寺は、名取熊野神社にも繋がっています。
もちろん、出羽派とも。

その系譜を守るために奥州藤原氏がうまれ、平泉に仏教の鎮護国家を目指しました。
鎮護国家というよりは、背景には金の確保があります。
しかし、単なる利益を求めたような話ではなく、
黄金をもっていることが天皇であるという力の象徴であり、
古~い時代までさかのぼると、南米ペルーなど失った王国に繋がるのではないか、
という妄想。黄金のナスカ→アスカ。



そのような金の信仰をバックアップしていたのが出羽三山の葉山信仰であり、
後に熊野信仰へ受け継がれたものと考えられます。
日本海は出羽国で葉山(羽山)信仰。太平洋側は陸奥国で熊野信仰。

日本海と太平洋側とわかれた藤原氏が、名取で出会っているはずです。
その仲介をしていた人に藤原実方がいます。
その役目として派遣されたのではないか、と。
砂金交渉という名目で、藤原氏意外の豪族との公約みたいなことも。
そう考えると、実方がキーマンにみえてくるのです。
とても重要な役目。
共通点は、どちらも神降ろしをした巫女がいた話を伝えているところであり、
出羽の阿古耶姫、陸奥の名取老女。どちらも、熊野と実方が関係します。

阿須賀--------------------------------------------------

紀州熊野新宮には、阿須賀神社がある。
阿須賀のスガは、砂などを意味する古語のスカからきており、
河口の砂が堆積して船が座礁するなどしたため、
大洪水などの被害を防ぐために水神を祀ったことが由来だそう。



スカというのは、焼畑の意味のあるスサからきていると思われます。
スサノオのスサでもあり。
スサからスカ。
菅谷というのは、古来から政治の中心地=産鉄用語でもある。
また、須賀神社というのもあります。
牛頭天王のスサノオを祀り、祇園の信仰です。



紀州の熊野阿須賀の地には、徐福が上陸した伝承もあり、
秦氏に関係するのですが、紀元前3世紀と古い。
「阿須賀神社の祭神は事解男之命(ことさかのおのみこと)、家都御子大神・
熊野速玉大神・熊野夫須美大神の熊野三所大神。
主祭神は事解男之命で、その本地(仏としての本体)は大威徳明王
(だいいとくみょうおう)とされます。
大威徳明王は水牛にまたがる六面六臂六足という異様な姿をしています。」

※阿須賀神社(あすかじんじゃ)より参照。  
http://www.mikumano.net/meguri/asuka.html

名取は広い平野なので、住みやすい所だったと思います。気候もよいし。
豊饒を願う意味でのお寺もありますね。
このあたり散策していると、門がまえが古そうなお宅が何軒かあります。
空気は、陸奥よりも出羽国っぽい感じ。
出羽から先に柵をもうけているので、その後、陸奥へ入ってきたと考えられます。
高舘は、山形の里にいるような感じがするので、この裏手の山を通れば、
秋保にいくわけですね。
平家落里であり、その先をもっと西にすすめば出羽国です。
あこや姫の路でもあり、藤原実方の路でもあります。
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名取の熊野ロード

2017-07-11 | 名取の歴史散策
お手軽な熊野信仰を歩く道があってもよい、と考えるなら名取でしょう。
と、いっても車の往来激しい道になりますが。

名取に今熊野神社があります。
仙台市方面へ向かうと、熊野三社が祀られているのですが、
今熊野神社の側に今熊野遺跡があります。


※今熊野神社のしだれ桜はお見事。



縄文と熊野は関係しているから、遺跡があったから神社を建てたような気もします。
熊野信仰は、縄文の系譜を色濃く残しているといわれ、唯一、近畿地方に縄文が花開いた
のは、京都や大阪などの近隣から隔離されたような奥山の位置にあったことがあるといわれます。



渡来してきた人が稲作を伝えるようになるまでは、狩猟生活と漁労採集で暮らしていました。
哲学者の梅原猛氏が「熊野詣は縄文文化への復帰願望へのあらわれ」と評価
しているのは、名取を探訪していて実感します。

※垂水ダムのある五社山から流れ出る小川。



ちなみに、山形県にも今熊野神社があり、阿弥陀如来・薬師如来・観世音菩薩の三尊を祀る
とあり、観音堂や薬師如来も名取にもあります。
山形の方では出羽三山の月山神社の祭神である月読命の本地仏と伝わります。

今熊野遺跡について、縄文時代前期~奈良・平安時代にかけての複合遺跡。
ここは、個人のお墓ではなく、複数の人が埋葬された方形周溝墓が9基みつかっています。



方形周溝墓東北地方で初めて発見されました。
このような方法は、中部~関東~東北へ伝わったようです。
九州地方ではほとんどありません。

家族で埋葬されたことのほかに、先住民と渡来してきた別の民族が一緒に祀られている
場所だったと思われます。
人口が増え、お墓事情も変わってきました。
身寄りのない人もたくさんいたかもしれません。縄文人と弥生人(時代がかなり異なる)
人が一緒に埋葬されている墳墓もあります。

陸奥国開拓の時代より、かなり古い時代にはなりますが、
関東から東北のこの地まで、たくさんの人が開拓民として刈りだされ暮らしていました。
それは別にエミシ征伐とは何ら関係ありません。

今は、宮城農業センターの建設地になっていますが、北台地区というところでは、
縄文時代(6000年~6500年)の土こう、平安時代の竪穴住居が発見されています。
竪穴式住居は100軒以上発見されたそうです。



今熊野神社は、1600年4月に、伊達政宗の命によって造営。
熊野三所権現を信心していた女が、この地に建立したいと100日に及ぶ山ごもりを行い、
これを知った川上村の長が政宗に陳情し建立されたと言われています。
昔は、ここを「赤坂山」とよんでいました。

「ここで行われる熊野神楽は、仙台市茂庭の生出森八幡神社から伝承されたものと言われ、
その系統は熊野堂神楽の流れを汲む岩戸神楽で、榊流神楽と称する黙劇の祈祷の舞となっており、
拝殿の南側にある間口2間、奥行き2.5間の舞台に、楽屋が付属する神楽殿で奉納されます。」

生出森八幡神社は太白山に鎮座します。



さて、この道は39号線で車の往来は激しいところなんですが、
名取駅からそんなに遠くない39号線沿いに、いろいろ散策できる寺社仏閣があります。

今熊野神社から坂を登り、右手に今熊野遺跡あり。
しばらく直進し坂を下りたところで、藤原実方のお墓があります。
紫式部の源氏物語のモデルといわる実方中将のお墓入口にムラサキシキブが咲いていました。





またその先をすすむと、塩薬師如来があります。
ちょっとうっそうとした感じの森ですが、思ったより中へ入ると明るい日差しが心地良かったです。

塩薬師の伝説-------------------------------------------

塩ノ池の端に薬師瑠璃光如来を祀るお堂があった。
ある時野火で部落も寺字も類焼したが、薬師本尊は空中高く飛び、近くの松の木に難を避けた。
里人たちは、その地にお堂を建立して本尊を安置し、塩薬師と称したという。
本尊は室町時代の木造寄木作り座像で、漆に金箔を置いた見事な薬師如来像で、
蓮華座に安置されている。






また、「観蹟聞老志」には、往古老僧この地に来たり。
山下より湧き出ずる潮水を汲み塩を煮て、これを衆人に与えて病を治す。
郷土等薬師如来を祀り、塩薬師と称し、邑名を塩手と称したとある。
奥州名所絵図(宮城県図書館蔵)には、塩薬師について、
「大化3年丁未(647)の夏、大己貴命(おおなむちのみこと)を崇め祀る、
後世附会して塩薬師と称す、山上に薬師堂あり鐘楼拝殿云々」と
「道祖神社の北五丁余北の麓に禅刹あり塩福山永禅寺という、
北野に塩手山本唱院(本唱寺ともあり名取三名寺の一つである)あり」と当時の邑の様子が書いてある。

(※(有)石神のサイトから引用しました)





昔、熊野修験の人が歩いてきたであろう場所には、多くの古墳群があります。
何か意味があってと思うのですが、名取熊野三山は実方中将の伝承よりは後なので、
砂金と関係するならば、砂金とりのために新羅人がやってきていた所を、
熊野が後になってやってきてお社建てているものと思います。
そしてまたこの道は、奥州藤原氏の平泉に通じる道でもあり。
そんな道を散策していたら、楽しくなってきました。





帰りは熊野那智神社へお参り。

(写真は、2015年10月)

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