名取熊野老女物語

名取の熊野三社を開いた名取老女伝説について。

高舘山散策 午後の部

2017-11-15 | 名取の歴史散策
熊野那智神社に勧音堂(紹楽寺)がありますが、
その向かいの山中に、板碑の石碑が6体ほど、ひっそり置かれています。


観音堂





かつては物響寺があり跡地になっているものの、竹林だけが残る静かな場所。
中央の碑が、大日如来のキリークがあります。(右)




井戸跡

たぶん、この碑を中心に置かれているようで、名取老女が大日如来という話から、
中央の板碑が一番重要な意味があると思いました。


駐車場からみえる大銀杏

また、山中には銀杏の木(雌)のそばにお墓があります。
ここには、熊野神社の神官を務めてきた宮司のお墓があり、(4代まで)
夫婦の名前だけではなく、女性(宮司の奥さん)の名前のお墓もありました。
元は羽黒修験の影響を受けているためか、女性に対しても厚く弔う
風習があったように見受けられます。



お昼休憩の後は、那智の滝まで歩いてみました~。







紅葉はちょっと終わりになりかけでしたが、
キャンプ場になっていて、舘山堤という池がきれいでした。
落ち葉歩きを楽しんだ後は、滝に到着。









ここは、数年ぶりにきましたが、
周りの木々を伐採したそうで、以前に比べて明るくなってます。
このコースが一般的に歩かれるようになれば、どんどん明るくなっていくかもしれません。
ただ、震災前には不動明王の像があったのですが今はないんですよね~。
・・・どこにいったの??
所在は不明らしい。(旅に出たか・・・)



コケコケの石像がありましたが、もう原型を留めていないので、
何がなんだかわかりません・・・。
でも味のある石像でした。



無難に木の階段をあがって那智神社に到着。
ここでも小野さんは藪を歩きたかったようですが・・・。
無理ぽ。



那智神社の展望台から下の階段を降りていきます。
ここからみると、閖上がぐっと近くに感じる。



猫がいっぱいいたんですけど、途中までこの子がついてきた。



巨大津波と熊野信仰-------------------------------------------------

木漏れ日のさす森がきれいですが、
なぜ、ここに熊野信仰なのでしょうか?





散策中、なぜ多くの板碑があるのか?と疑問に思った。
霊を弔うことは当然なのですが、武士たちの霊だけではなく、海にあると感じた。
ここが霊場になった理由のひとつに、「貞観津波」があります。

以下、「解き明かされる日本最古の歴史津波」飯沼勇義著より参考に。
実は、この本、高舘山散策から帰ってきて購入した本でした。
調べていたときに、この本がシンクロして出てきたからです。
早速、購入して読んだら、目からウロコな話。
ほぼ、答えに近い。
名取老女のことも書かれている・・・。



震災の時のような巨大津波が縄文時代から過去6回あったという。
仙台沿岸津波660年~690年 国府多賀城が作られる半世紀前。
その後、貞観地震、貞観津波が869年頃に起こる。
またその後、「仙台・熊野堂津波=長徳地震」996年という歴史津波があった。
これが終息期に入り、しばらく大地震がこない時代となり、
史料に残される歴史記録となる。
それ以前は、津波により歴史資料が残されていないことが考えられると。





この道からずっとおりていくと、岩盤が目立つようになってきます。
ちょっともろいので、危ない箇所もありますが、
この岩盤は削られて浸食したものだと思います。
はるか昔、すぐそばまで海があったのでしょう。



専門家ではないので詳しいことはわかりませんが、
高舘山より東は平野です。
とても住みやすく、稲作をするのに適していた場所。
弥生時代にはすでに稲作は行われていました。
しかし、繰り返す津波により、しばらく人が住めるような場所ではなかった。



確かに名取の歴史がイマイチ見えないのは、大津波が原因だったことに
納得いきます。
元は大野田にあった国府を、大津波により廃墟になった為、多賀城(高台)に移したという。

しかし、なぜ大野田の郡の歴史があるにもかかわらず、
大津波についての詳細が語られることがなかったか。
これは、著者の言及にもありましたが、
大和朝廷にとって、災害による壊滅というのは、敗北と同じと考えられていた。
このことを知られたら略奪、暴動が起こることを懸念して、伝えることをしなかったのだろう。
治安の悪化という点で、朝廷としては何事もなく治めたい。
しかし、多くの犠牲者がある。
その鎮魂のために動いていたのが、藤原実方というのだ!
そして著者は、名取老女は藤原実方ではないか、というのです。
むむー。
まあ、熊野別当だし。。。
史料には、実方は、突然995年に陸奥守に赴任させられたと。
であると、貞観地震を受けている。
その3年後、999年に亡くなっている。御年40才。



まあ、それはそうと参考にして。
小野さんは、比丘尼だという。
面白いね、いろんな人がいろんな名取老女を想う。
すべて正解!でしょう。
名取老女は一人の人物ではないと思いますが。





救済に朝廷から派遣された貴族(実方みたいな)がいたかもしれないが、
それは偶然、赴任してきた人たちが行っただけであり、
ほとんどは、居場所を失うことになったと思います。

ということを考えれば、熊野信仰は滝神を信仰する。
水の祓えというのは、太平洋側の東北地方に限っては、
大津波への祓いということになるのでしょう。

震災の時と同じように、過去にもたくさんの人が大津波で亡くなった為、
熊野信仰が流行するようになり、
また羽黒修験というのは、オナカマサマや、オカミサンというイタコが多かった。
あの世へ成仏できるような祈りの場として、高舘山に熊野が建てられ、
その信仰が広まったと考えられるそうです。






不思議な御堂(川沿いにあり)

さて、岩盤をみながらおりてくると、砕石場にきます。
看板がここにもありますが、トラックの往来が激しいところです。
そこに、奥州三十三観音の1番目である紹楽寺があります。





本尊は閖上浜から引き上げた十一面観世音菩薩像です。
非公開みたいなので、拝観できません。
沼地や池などで引きあがった観音様の伝承は各地にあります。
これも、大津波によって流された観音様と考えられます。


六地蔵。
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ということで、妄想は尽きませんが、楽しい散策でした。
10時からスタートし、3時頃に戻ってきましたが、なかなか良い運動になります。

最後は、スイーツでお開き~♪(フリゴレス)





歴史クラブでは2回目の散策だったのですが、
今回は、ブログにのせておきました。

まだまだ深い山なので、これからも探訪続けていきますので、
よろしくお願いします。
皆様、お疲れさまでしたー。
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高舘山散策 午前の部

2017-11-14 | 名取の歴史散策
みちのくひかり歴史クラブ健在でございますよ~。
久々の更新です。

紅葉狩りに高舘山をみんなで歩いてきました。
名取熊野古道逍遥会の小野さんにガイドして頂きました。
今回は残念ながら2名、風邪をひいてしまって不参加。
もう1名は、お仕事で忙しく。
小野さん含め、5名でのんびり散策です。

小野さんは千日修行みたいな、ほぼ毎日(雨意外は)
毎朝2時間くらい高舘山を歩いているのだそう。
それを4年ほど続けているという。。。
仙人を超えて開拓しすぎて、
見えない森が見えているんじゃないか、と思うくらい
高舘山を知りつくしている方です。
「小野林道」と命名してしまいたくなるほど、小野さん独自の開拓ルート(山道じゃないっ!)
も歩いたり、小野さんと行かなければ見られないものを拝観できました。
とっても面白かったです。
小野さん、ありがとうございました。




黒い線のコースを辿ってきました。
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さて、私が住んでいるところからも高舘山が見えますが、
実際、森の中へ入って歩いてみると、なんといいますか、
ここになぜ熊野三社を置いたのだろう。というのがイマイチわかりません。

何かあるんです。
絶対何か意味があるんです。
でもまだ見えないのです。
まだ歩かないといけないってことなんだろうね・・・。

まず、この写真の中央にあるこんもりした山。
小野さんいわく、「前方後方墳」ではないか、と。
であれば、県内では最古の古墳になる。
遠見塚や雷神山古墳の比じゃないかも。
これはすごいー。



しかし~、発掘をしていないのでわかりません。
地図をみる限り、どうみても古墳です。
なんかピラミダルな形の山なのですね。
残念ながら登ってみても、どれが古墳だか全然わかりません。
完全に埋もれてます・・・。

まず、高舘城跡について。
標高203m。
中腹から山頂付近にかけて築城された円郭式の山城で、
仙台平野から仙台湾を一望に見渡せる場所に位置しています。

高舘城の規模は、東西400m、南北500mに亘り土塁や平場の遺構が認められ、
中央の本丸の周りには、北ノ丸・東ノ丸・南ノ丸・西ノ丸があり、
北から南にかけての3ヶ所の尾根には小規模な平場があり、
一つは秀衡ヶ崎とよばれています。

この城跡は、1175年藤原秀衡が館を築き、
1185年奥州合戦の折りは、藤原勢が同城に立て籠り
鎌倉勢を迎え撃ったといわれ、その後、1558年~1570年に
伊達種宗が一時同城し、後に家臣の福田駿河守を城主として置いたとされます。

1351年に多賀城をめぐる攻防の中にでてくる「羽黒城」「名取要害」は
高舘城のことだと言われています。

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ま、歴史を聞いているだけでは、ピンとこないので、
現地へ行くしかありません。
実際、ここが山城であったのに、なぜかほとんど知られていない。
那智神社が有名になりすぎて、山城をみていない。
埋れているだけで、この山城がとっても大きな広い山城だったのでは?
という妄想が膨らむ。中世以前から続く巨大な何か・・・。



新しい鳥居になった熊野那智神社遥拝所からスタート。(ぼやけてしまった)
ここに五又路の石があります。
年代不明ですが、江戸時代後期?
東に「仙台」「中田町」「ゆりあげ」などと書いてありますが、
「町」という漢字は比較的新しいのでは?
西の村田町や坪沼、南の蔵王町や岩沼方面など、
ここは街道として多くの人が行き交う場所でした。





このあたりでは、宿坊が10箇所以上もあったので、
当時は、とても賑やかだったのです。

「あづま街道」や「東山道」の石碑も見つかっており、
東山道とは、東海道~関東地方の白河関や勿来関からの道である。
増田~大野田へと続く街道なのですが、北関東までは広い道だったのが、
陸奥へ入ると道が狭くなるので「奥の細道」となったのかもしれないと。
多賀城開拓の道なんですねえ。

でも、本当は大野田(太白区)が元来の多賀城だったという説もある。
太白区には多賀神社があるし、東と西の多賀にわけている。
私もそう思う。
名取は何かとすごい歴史が埋れている。
それを単純に多賀城へ移しただけのことであると。

さて、ここから車でちょっと移動して、新しく看板も設置され駐車場も完備されている
高舘山散策入口へ到着。



その前に、小野さんに板碑を案内して頂く。
板碑(いたび)は、関東地方に集中してあり、秩父の長瀞産の板碑が有名です。
岩沼では数少ないのに、名取には約200近くあるそうです。





板碑とは供養塔なのですが、秩父産の緑泥片岩を加工して造られるため、青石塔婆とよばれる。
関東の武将(坂東)と縁が深い名取だけあって、板碑が多いのは納得できます。
石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだものですが、
劣化が激しく、はっきりと梵字が見えないことが残念。



東北では石巻が多く、東国武士がいた証。
2番目に多いのが名取。

これは「サ」のキリーク。聖観音。
(場所:高舘吉田字鹿野)
言霊の世界みたいだね。


地元の方に開けて頂いたお不動さん?だったかな。


うれしそうな小野さん。



「東学坊」の名あり。
こちらは阿弥陀如来のキリーク。



高舘山の板碑は、13箇所あります。
すべて安山岩を板碑にしてます。
安山岩を使っているのも意味があると思います。
一般的な岩ですが、私は太白山が昔も貴重な山だったと思います。
太白山の本体は、安山岩。
柱状節理が見られる山なんです。
柱のような岩。

安山岩は、南米アンデス山から由来している名前です。
安山岩は地球の大陸の主成分であり、大陸上では非常にありふれた岩石である一方で、
海底や、地球の兄弟星といわれる火星や土星では珍しい(これらの主成分は玄武岩)存在である。

(Wikipedia)



地球ならではの石といえば、安山岩。
マザーアースな石なんです。
単純に、川にあった石を拾って・・・なんて考え方はしない。
弔う時は、丁重に考えて石を選んでいた。


小川に癒される。


古墳ぽい。

山道途中にある勢至(せいし)菩薩。
キリークは「サク」1344年。
勢至菩薩とは、あまり聞いたことがありませんが、Wikiで調べると、

「阿弥陀三尊の右脇侍。
『観無量寿経』の中には「知恵を持って遍く一切を照らし、三途を離れしめて、
無上の力を得せしむ故、大勢至と名ずく」とあり、
火途・血途・刀途の三途、迷いと戦いの世界の苦しみから知恵を持って救い、
その亡者を仏道に引き入れ、正しい行いをさせる菩薩とされる。」


ここに多くの板碑があるのは、武将を弔う意味もあるのですが、
もっと深いところで、海が関連していると思うのです。




後ろ
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さて、いよいよ入口。
新しい道ができてまして、ただ途中で山道になりますが。
竹林が心地よい。
なかなか明るい森で良いです。







ここが入口だったそうです。下界から離れる所の?
なんとなく見えない門が見えますね・・・。


ここから先は、中世の世界へ。



石垣の名残が。
展望は、全然見えないけど。。。



ところで、本場、紀州の熊野は神奈川県くらいな大きさの
巨大な岩盤の上に熊野三社が建てられているという。

ということは、ここも岩盤の上に立っていると思われる。
人工的に石を積んでいるとは思えない、岩の塊の上を歩いているようでした。
途中からそんな岩を歩く道になってます。
人工の石を積んだとは思えない塊が埋まってました。




断層になってましたよ。

高舘城跡に到着。
この看板のすぐ隣に、わかりにくいですが道があり、
ここから本丸へ向かいます。





杉を植林したので杉林になってます。
何もないようですが、中心が丸くなっているような所もあり、
お掘りも周りにあります。



下の方に北ノ丸があり。



本丸までどうやって物資を運んできたのかな。
馬ではここまで登れないよね。
海からここまで歩いて?

ここで宿坊開いてもいいよね、
何かモニュメント置いてもいいよね。
でも食べ物をどうやって運ぶ?
この道は大変だね~・・・。
と、食べることを心配するメンバーたち。笑


ここに何かあったような痕跡。

元の本丸は、「羽黒城」だったそうです。
この近くに太白区山田羽黒台という地名があり、そこに羽黒神社があります。
以前より奥州陸前国名取郡山田村旗立山山頂に祀られて鎮座していると。


「後冷泉天皇御代天喜4年陸奥酋長阿部頼時奥州の乱を起せるに当り、
朝廷は陸奥守鎮守府将軍源頼義をして平定せしむ。
その故をもって天喜5年9月(丁酉)霊験顕な羽黒神社を名取郡山田郷に
あらためて社宇を勧請し、爾来山田村の氏神として崇敬祭祀し
来たり明治5年4月村社として列せられる」




小さいのですが、地底の森ミュージアムがある所に、
里宮があるそうです。
ということは、やはりはるか昔の縄文がありますね。
そういう風に仕掛けている先祖がいるのがわかります。

太白山周辺には縄文集落があり結構、巨大な集落でした。
そこに住んでいた人たちは、狩りをするのに地底の森ミュージアムがある
付近まで行き来していたそうです。(館長さんから以前聞きました)
獲物がたくさんいた湿地帯だったわけですが、
そこに里宮を移し、本宮が「山田」という地名にある。
そして羽黒神社。
山田という地名や熊野神社の宮司さんも山田姓だった。
なぜか、山田なのです。

そこにそびえるのがピラミッドの太白山。
金星信仰の。金星が降ってきた隕石を祀ると伝わる。
そして八幡神がそれを支え、貴船さんのサナートクマラを保護している。

また「太白」を命名したのが、伊達政宗という噂。
古来の太白信仰から羽黒修験に伝わり、今の熊野信仰をもたらしたようです。
古くは羽黒修験なんですね。
それは、女系社会だったことを意味しています。
後でいろいろそんな話になっていきます。


お掘り。

さて、小野さんは、どんどん藪の中を歩き、
道なき本丸をどんどん歩きまくる。


倒れちゃっているけど、これも板碑。

小野さんの後を追いかけ、本丸を下りていくと「蔵王山」の碑を発見!




蔵王山?
いろんな修験の人たちがやってきていたんですね~。
巨木が素晴らしい。



この石、どこから持ってきたのかわからないそうです。
白い石なのですが、この木は桜?かな。(文久2年)
この蔵王山石碑の向かい下に古墳があります。

蔵王麓にも村を治めていた首長と古墳群があります。
青麻山に向かって。
それと関係する一族の古墳だとして、蔵王山の碑が古墳に向けて建てられていたなら、
妄想が広がります。

鴨家と賀茂家。
でも木々が生い茂り、真相はわかりません。
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まだまだ歩くよ~。
本丸を後にし、少し進むと「秀衡が崎」という場所にくる。



小野さんに連れて行ってもらいましたが、
全員、ここが一番気が良い!と感じたところでした。



よく山の伝説には「天狗の相撲取り場」という場所があります。
そこだけ木や植物が生えないという。
そして丸くなっているという。



まさにそんな場所。
ある空間だけ何かあったような痕跡を感じました。
祈りを捧げていたのでしょうか?



幼少の頃?、藤原秀衡がよくここで遊んでいたとか。
どんな過ごし方をしていたのかは謎ですが、名前がついているので、
何かあった所だと思います。

藤原秀衡は、とっても平和な人で良い人だったと思う。
そんな話になった。
毎日、祈りを捧げていたのかもしれない。

藤原秀衡は、奥州藤原氏第3代当主。
初代奥州藤原氏は、藤原清衡。
2代目藤原基衡。

藤原秀衡は、父(基衡)の遺言である義経保護を強く主張し、
その扱いを巡り泰衡と対立、誅殺されたというが、病死だったみたいです。
義経をかくまったことで、源頼朝と対立していた。
血液型はAB型。
へ~。

この時代は詳しくわかりませんが、妄想するに、
藤原秀衡は、源義経に東国を継がせたいと考えていたと思います。
それに反対していた息子泰衡によって奥州藤原氏が崩落したと思います。
頼朝も義経を渡すことを許さず、それに同調した泰衡。
なぜ、藤原秀衡は義経にこだわっていたのでしょうね・・・。


※毛越寺 一山白王院 所蔵の「三衡画像」より、藤原秀衡の法体像。

Wikipediaに秀衡らしい話があります。
「秀衡を「奥州の夷狄」と呼び、その就任を「乱世の基」と嘆いている。
都の貴族達は奥州藤原氏の計り知れない財力を認識し、
その武力が天下の形勢に関わる事を恐れながらも、得体の知れない蛮族と蔑む傾向があった。

この「奥州の夷狄」や「蝦夷」という蔑称を秀衡は意識していたと考えられており、
源平の合戦の際に一つも勢力に加担しなかったのも、
普段は蔑称を用いて蔑む傾向があるのに自分達に都合のいい時に奥州藤原氏を頼ろうとする
姿勢に不満を抱いていたことも中立の立場を堅持した理由ともされる。」


秀衡も根っからのエミシなんだな~。

奥州藤原氏の最期を築いた人でしたが、
Wikiにいろんな情報が書いてありますので、興味ある方はどうぞ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E8%A1%A1
ミイラから復元した藤原秀衡の顔がリンクされています。
優しそうなおじいちゃんです。





大きな樹もところどころにありました。

さて、藤原秀衡の崎を後にし、小野さん的には獣道を歩きたいのですが、
私たちは無難に歩きやすい道をいきたい~。
どっちの道がいい?と聞くので、歩きやすい道と言うと、がっかりする小野さん。笑




湿地

お腹がすいた頃に、ようやく那智神社入口に到着です。
宮司さんから社務所を用意してくれてました。
ここでお昼休憩です~。


ブラボ~♪ゆりあげ~。

が、まだもうちょっと貴重なものを見せて頂きました。
次は、貴重な板碑と4代?山田宮司さんのお墓参りへ。
午後の部へつづく。
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復曲能:名取ノ老女

2017-10-15 | 名取老女伝説
10月1日(日)記念すべき、名取の狂言と、名取老女の能がお開きとなりました。
10月は始まりの月なので、よいスタートです。

名取市文化会館に始めていってきましたが、まさか、ここで名取ノ老女の能が観られるとは!
ずっと名取老女の歴史探訪をしていたので、まるで、身内のような親戚のお祭りのようで、感無量。
もちろん、歴史クラブの皆で鑑賞してきました。

名取老女の能が復活したきっかけは、東日本大震災でした。
震災から5年になるH28年に国立能楽堂で「復興と文化 老女の祈り」でした。



それから1年後の今回、名取老女の地である地元で能を披露することは、
名取老女がとても喜んでいることと思います。
名取老女は実在していない大日如来の化身とされていますが、
それに値する巫女はいました。

狂言「名取川」は、野村万作、萬斎親子。
声のオーラといいますか、音の響きがすごかったです。

名取ノ老女は、能楽師:梅若玄祥。
今回の能では、孫娘が登場しています。

能も、鎮魂のような働きもあるような。
詳しいことはわかりませんが、能曲の部分に秘められた言霊の力があると感じます。
最後、地謡の部分で、護法善神が出現します。
「 地謡(じうたい)」は、謡曲の地の文の部分を大勢で謡うことですが、
8人程度の人が、舞台から右に2列に並んで謡われる部分です。

護法は、災難を去り、悪魔を払う。
私は最後の護法に喝!を入れられた気分・・・。

「それ我が朝は栗散辺土の小国なれども 人の心のやわらかなれば、
大きに和らぐと書きて、大和の国とは申すなり」

「然るに衆生済度の誓ひ、熊野三所権現と顕れ、岩田川の波をわけて、
水のまにまに、荒れたる国土に道をつけ、危なふ駈け路の谷を走れば」

「下にも行くや 足はや舟の 浪の打ち交ひ 水馴れ竿 下れば差し、
上れ行く、綱手頼もし梛の葉に、かく神託の道遠し、年は経たりぬる
名取の老女が、子々孫々に至るまで、二世の願望三世の所望
みなことごとく願成就の、神託あらたに告げ知らせて、神託あらたに告げ知らせて、
護法は上がらせ給ひけり。」


「神託あらたに告げ知らせて」を2回繰り返すところ、何かあるのかな?
ま、感慨深い能でした。

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余談ですが名取老女とは関係ないんですけど?(たぶん)
能楽師の梅若家の祖は橘諸兄と伝わるとあった。

橘 諸兄(たちばな の もろえ)は、奈良時代の皇族・公卿。初名は葛城王(葛木王)で、
臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となる。
敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子。
母は橘三千代で、光明子(光明皇后)は異父妹にあたる。

ということで、こういう所でも、ご縁を感じる。
名取ノ老女を演じることになったのは、陸奥開拓で早くにきていた葛城一族がいたからですね。
特に郡山ですが。
今も、先祖は脈々と過去の清算をしているということです。

互いに敵であったか、味方であったか、
その償いを反省したり、復讐するものでもなく、
新しい道を開くための新しい歴史を作るために、
一人一人が、その自覚をもって他人に対し、真摯でいることが、
何よりも先祖供養になることを知っておくべき。
そんなことを学ばされた能でした。
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朝日を抱きて誕生

2017-09-09 | 巫について
旭若神子の「旭」の由来は、「朝日」と言うように、
太陽を天に身ごもった子の意味がある。

「~南島のユタと呼ばれる巫女が、ユタとして生まれ変わるときに
唱える「オマイマツガネ」との比較にも十分に応えられる可能性がある。
オマイマツガネは、男性であるがユタの呪力の始祖となるべき
神話的人物であって、彼は母親が天の太陽によって身籠った子である。
「日光感精説話」とも呼ばれる、そのオマイマツガネの詞章には、
「このわが身は朝日様がみかた様です」と訳されるようなものもある。
「梓神子の由来」には、姫は「朝日をいだきて誕生」と記されている。

※憑霊の民俗:川島秀一より

旭神子の朝日より、旭を使う意図にもいろいろありそうです。
いろんな説が考えられると思いますが、
この漢字にも「日」があてられている。
何の日を当てるのかは、「九」という漢字。
九は、虫の旧字で中国が由来している。
それが蛇といわれる由縁がある。

漢字の成り立ちは、
「日」は「太陽」を、「九」は折れ曲がって抑えつけられている様子を表す。
「(押さえつけたものをはねのけて)光が地平線に出て輝く」様子を表現している。

他にも九羽のカラスが由来。
カラスは太陽なので、9つの太陽を示す。
他にも九尾の狐伝承もあるように、「9」がキーワードとされる。

数でいえば、オーラソーマのカバラでは、
「2」は、新しい数字。例えば、9+2=11→1+1=2。
死と再生の意味があるのですが、陰陽でも陽は9とされる。
また、9のケタに、秘密がある。
9のケタはすべて結果は9になる。
9×1=9、9×2=18→1+8=9、9×3=27→2+7=9・・・・

「9つの鏡」というのがあり、9という数字はすべての数を含めても必ず「9」になるという。
鏡は太陽のこと。
9つの太陽神は、中国が由来らしいのです。

「扶桑」という大きな樹がありました。
四川省の三星堆遺跡に(さんせいたい)扶桑があるのですが、
扶桑は十の太陽が宿るところであり、太陽はそこから鳥に乗って順番に
空へ巡同に出かける話がある。
熊野のヤタガラスも太陽神です。

天空に10個の太陽を射る話は、オロチの神話にあります。
そのうち1つを射たので、太陽は9つになった。
太陽が10個あったために、大地が大干ばつとなった。
その為、弓の名手が天からおり、矢をいると、どさっと3本足のカラスが落ちてきたと。
中国の少数民族の間で多く語られている射日伝承。
日本では、「天の岩戸」として伝わりました。

極東ロシアの日本海に面した地方に暮らすオロチという先住民族に次のような神話がある。
昔、大地が固まりきっていないころ、太陽が三つあり、
できたての大地は熱くて生き物が住めなかった。
その時、ハダウという神が二つの太陽を弓で射落とし、一つだけ残した。
その後、ハダウはワシとカラスを創(つく)り出し、それから人間が生まれた。
あるいは、太陽が三つあったころは大地がとても熱く、人は水中や空中で暮らしていた。
そこで二つの太陽を射落としてようやく涼しくなり、地上で暮らすようになった。

オロチ族は、中国、朝鮮半島、日本、台湾などに見られる。
オロチ、ウデヘ、ナーナイはツングース系の言語と文化をもつ人々。
ツングース系の人々の遠い祖先は、古代中国で「東夷(とうい)」と
呼ばれた弓矢のうまさで知られた人々と関係する。

(オロチの射日神話:国立民族学博物館 佐々木史郎)


※アムール川流域と支流の経路。
アムール川に住んでいたオロチ族などの住民は、北海道へ渡り、
オヒーツク文化をもたらし、アイヌ文化と融合しました。

共通して考えられる射日伝承や天の岩戸、招日伝承(アイヌラックル)は、
大干ばつに襲われたことを記したものと、それによって
暗黒の闇の世界を「魔」と考え、その世界から解き放つための光としてもたらされた伝承
と考えられます。

旭神子は、闇から光を照らすあらゆる日(太陽)を示し、
「生きている世界も死の世界にも、人々の魂を光の世界へ導くことを生業とした祈祷である。」
と、いえるかもしれません。
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伊達政宗と葛西氏と旭神子

2017-08-10 | 巫について
伊達政宗生誕450年という事で、仙台では少し盛り上がっているようですが、
伊達政宗は先天性の目の病があり、隻眼(せきがん)=片目の失明でした。
「独眼竜」といわれていましたが、今より当時の時代を考えると、
相当な苦労をされたと想像できます。
実の母に毒を盛られた話もあり、幼少の頃から、片目という障がいについて、
苦労が多かったのは、前回でも書いた話ですが、
目の病は非常に多く、また、そのような方への差別という苦い体験は、
伊達政宗自身、身にしみて感じていたわけです。

アサヒ和歌神子伝説は、ネフスキイ(ロシアの日本民俗学者)の資料による。
オシラサマ研究で、東北の巫祖伝承を初めて採取し、研究の対象にした事で
価値があるといわれています。
巫祖伝承を研究した第一人者は、ロシア人だったのです。

その研究の中で、ワカと呼ばれる巫女の始祖伝承について、
「宮城県栗原郡」や「福島県伊達郡梁川」の八幡神社の地名が記載され、
これらは大和宗縁起のアサヒ和歌神子伝説によるものがあります。

これらの「アサヒ和歌神子伝説」は、巫女のあいだで口頭によって伝承されています。
例えば、岩手県二戸・一戸地方のイタコたちは、旧六月十九日のスズミコと、
十二月十七日にオトシトリという行事に参集するが、前者はイタコの始祖の
「アンチサ(梓)神様」が山籠りから帰還した日、後者は彼女が亡くなって
「若宮大神宮」と成られた日と伝えている。このような巫祖を祀るときに
巫女たちが、それぞれの師匠から伝えられた巫祖をめぐる話を披露しあったという。
その中で、伊達政宗について盲巫の間で口承されてきた事があります。

「昔は目の見えない者だの、皆、殺したったそうですよ。
そしたところで、仙台の伊達公の殿様の子供さんが目が見えない人が出たそうです。
そしたところで、その子供だから捨てるわけにはいかなかったそうです。
だから、その子供さんがおがって(育って)「私は目が見えなくても、こういうように
育ったんだけんども、民家でも私のような人だったら、どなたでも捨てられねがんべ」
って何やらそこ、あだうち(お返し)上げたいと思ったそうです。
その娘さんが片桐リュウコウさんという人だったそうです。
その方が、山形かどこかだかに月山様があるそうですね。
そこさ三年三月オコモリして、そうして帰りしなに、こういうふうな私たちの先代の
ことを伝えてくれたそうです。
そのときの山下がりが六月の十九日だったそうです。
それをスズミッコとして、その人祀ってやんすから。」

※憑霊の民俗:川島秀一より

月山様というのは、山形の羽黒神社のことです。
羽黒神社でオコモリした話が口承とされています。
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「宮城県栗原郡」や「福島県伊達郡梁川」に伝承されている
盲巫始祖伝承ですが、旭巫女は宮城県栗原郡、貝田巫女は梁川八幡宮となっています。
この2つの共通点に、何があるのでしょうか。
まず、伊達政宗の娘と、葛西氏(名前は不承)の娘が同じように盲巫として伝承されている事。
もう一つは、ある像です。

陸奥国の石巻や栗原郡を占拠していた武蔵出身(秩父平家)の豪族、葛西氏がいます。
伊達家と同じように、旭という名前の伝承がありました。

「登米の寺池城を本拠としていた葛西氏に、朝日という姫君がいた。
朝日姫は、葛西氏の家臣で志津川城主の千葉大膳太夫の妻となったが、
葛西氏が滅亡してしまい、流浪の身となってしまった。
その後、この地に現れ、里人達は行き場のない姿を哀れに思い、
白山神社の傍らに庵を建てて住まわせた。
朝日姫は、わが身の境遇を嘆き悲しみ、明け暮れに泣き暮らしたために、
盲目となり、世すぎのために巫女となり、「おかみ様」と呼ばれ
この地で一人寂しく没したという。」

※みちのく悠々漂雲の記 宮城県より

葛西氏の娘とされる朝日の伝承地は、
宮城県栗原市高清水佐野丁という所。
この場所は、旭神子始祖伝承の地と重なるのですが、
こちらのサイトの写真をみて、気になった物がありました。

これは、盲巫と関係するのか不明ですが、「ある物」が2つを結びつけていると
わかりました。

それは、神馬に乗った貴族の像。
祠の内部に鎮座されている像ですが、梁川八幡宮でみた像とよく似ているな~と思ったのです。


朝日姫住居跡にある像 ※みちのく悠々漂雲の記 宮城県より

2015年9月、福島県伊達郡梁川の八幡宮で、
「600年の時をこえて御尊像(応神天皇)特別公開」があり、
ご開帳に行ってきたのですが、その御尊像とよく似ているものでした。




梁川八幡宮



馬に乗っているのが、応神天皇とされており、
あまり大きい像ではなかったのですが、
その馬は、朝鮮半島から渡り北海道を通ってやってきた馬なのです。
大きくどっしりした道産子馬(どさんこ)と言われ、梁川八幡宮の馬と、
栗原市高清水の馬のどっしりとした特徴が、よく似ているのです。


どさんこ馬

つまり、旭神子の高清水と、貝田ワカ神子の梁川八幡宮盲祖伝承の共通点は、この像にあるのです。
八幡神社は応神天皇を祀っています。




三十三観音

また、梁川八幡神社は、伊達政宗と愛姫が初めて出会った場所で、
ここで愛姫(めごひめ)を迎えました。
正宗公は当時13歳、愛姫は11歳。
伊達政宗初陣の地であり、伊達政宗にとって、縁の深い神社です。
貝田という名前の由来は不明ですが、貝田駅があり、地名は残されています。


(政宗嫁とり)
※出会った日は、雪の多い真冬だったそうです。雪は足音が聞こえないので、敵に見つからない為に、
あえて雪の多い日を選んだ話があります。

妄想ですが、名取老女は、位の高い高貴なお姫さまだったと思います。
しかし、目が見えない人だったので、盲人のために修行をし、悟りを開くことができ、
そのような人に対して門戸を開いた人であったと。
それから多くの盲人が救われた為、「旭巫女」として伝承されたのかもしれません。

また、盲人の巫女に対し、旭という漢字を用い、
そうでない巫女は、朝日という漢字を用いるように使え分けるような意図もあったのでは?と。

さて、何度も旭や朝日というように、
盲巫に関係なく、多くの伝承には、アサヒという姫や巫女の名前が多く使われています。
「アサヒ」とつける理由は何でしょうか。

つづく。
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