雑木林のくらし改めニュータウンの暮らし

終の住処と決めていた那須の雑木林から、この度、11年ぶりに、街に戻ってきました。
ニュータウンの暮らしが、始まりました

金子兜太とトラック島

2016年12月13日 14時10分05秒 | その他
 日曜日の午後、我孫子の真栄寺へ
 金子兜太さんのお話を聞きに行ってきました
 前に、本も読んだことがあって、楽しみにしていたのですが
 今回は、、若き日に従軍したトラック諸島の話が、テーマでした
 実は、私の父も、トラック諸島に従軍しました
 年も、金子兜太さんが、大正8年生まれで、父が、大正9年
 話が、進むにつれて、状況から
 金子さんと父は、ほぼ同じ頃にトラック島に行き
 帰還も同じ頃だったと思われます
 もしかしたら、同じ輸送船に乗っていたかもしれません
 父の戦争に行った話は
 子供の頃は、よく酒を飲んだ時に聞かされましたが
 その時は、ろくに聞かず、また、その話かと興味もあまりありませんでいたが
 あまりにも度々、聞かされたせいか
 今でも、覚えています
 金子さんの話を聞きながら、ああ、やはりとうなづけることが、多かったです

 父は、トラック島の行きの輸送船が、アメリカ軍の空襲にあって沈められ
 一晩、海を漂流し、救助されたそうです
 (それでも生き延びて、帰ってきて、私は、生を享けたのですが)
 金子兜太さんの話では、彼が、トラック諸島に着いたのは
 米軍の大規模な空襲が、敢行された直後だったそうですが
 父の乗った輸送船が、撃沈されたのもその頃であったのではないかと、思いました
 金子さんも言っておられましたが、かの地は、とても鮫が多いところで
 しかも、たくさんの船が、沈められ、たくさんの人が、海に投げ出され
 鮫は、太って、なお大口を開けて、次の犠牲者を待っている状態だったと話されていました
 この話は、父の話にも出てきて、その恐ろしさが、忘れられません

 大空襲で、船、航空機、人的被害が、あまりにも膨大で
 一時は、トラック諸島を前線基地にするという目標が、困難になり
 それ以降、本土からの物資の補給がストップし
 トラック諸島の兵隊さんたちは、食料も自給しなければならなくなったということです
 父の話でも、食べられるものなら何でも、カエルやヘビなども食べたという
 大勢の兵隊さんが、餓死していったそうです


 
 金子兜太さんは、そのような事実を、事細かに話されていました
 子供の時には、何気なく聞いていた事柄ですが
 今は、すごく大事なことだったんだと分かるようになって
 まるで、亡くなった父が、そばで、
 「そうなんだよ」「こんなだったんだよ」と囁いているような気さえしました

 母の空襲の話は、無くなる直前、詳しい話を聞く機会が、あったのですが
 父の話は、もっと聞いておくべきだったと思った時には、すでに遅かったのです
 (84歳で、なくなりました)
 
 金子兜太さんは、今、97歳になられるたそうですが
 戦争の愚かさをこれからも語り続けて欲しい
 どんな理屈や理論よりも
 実体験の中での気持ちこそ訴える力の強いものは、ないと思います

 真栄寺には、毎年12月に、おいでになってお話をされているそうです

 住職とご縁が、あり
 境内に句碑もあります

 梅咲いて庭中に青鮫が来ている

 お話を締めくくるのに、歌が、披露されました

 この歌は、トラック島のパラシュート部隊のエピソードの中に出てくるのですが
 一人の将校を事故で死なせて申し訳ないと金子さんが、部隊に謝りに言った時
 その一人が、そんなことは、謝る必要がない
 我々が、パラシュートで、降りるときは、死を覚悟している
 その時にみんなが歌う歌を披露しようと言って
 歌われたのが、「昭和枯れすすき」だったそうです
 その歌を最後に朗々と歌われて、金子兜太さんの講演は、終わりました

 実に2時間あまり、その間立ちっぱなしでした
 
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2 コメント

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Unknown (yadanar(junko))
2016-12-15 21:28:48
ひとみさん
とても貴重な時間を過ごされましたね。
そして、何よりもお父様の歴史の一時期を追体験する様な、、。何重にも貴重なひと時だったと思いました。
義母の一日おきに行っているデイケアにも戦争体験者が
いて生きて帰ってこられて…だからこそ私達は聞く事が
出来るのですが、、。その方達ももう良いお歳。
何とか戦争を知らない世代に聞かせる事は出来ないのか
と、思うのです。
yadanarさんへ (hitomi)
2016-12-16 13:55:21
97歳と言うので
大丈夫なんだろうかと言う思いもありましたが
私たちよりずっとお元気でした
毎朝、亡くなった人々の名前を
唱えるのが、日課になっているそうです
自分の思いを遺したいと言う
強い信念が、伝わってきました

自分を振り返ると
遺すべき物が、あるのか?
それは、何だろうか?
そんなことを考えさせられました

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