TBS番組お知らせ!!
不屈館より情報提供です。
TBS制作ドキュメンタリー(1時間)が放送されます。
タイトル「米軍がもっともおそれた男」
~あなたはカメジローを知っていますか~
沖縄ではRBCが放送します。
8月30日(火)午後2時55分~
東京 8月21日深夜1時(22日)~
*他県での放送日はまだ決まっておりません。
問合せ先 098-943-8374「不屈館」
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東アジア共同体研究所
琉球・沖縄センター
〒900-0015 那覇市久茂地1-2-3
パレットパーキングビル2F-B
TEL(098)963-8885
FAX(098)963-7858
チラシが添付されていますが、UPされませんね。
戦後沖縄の英雄といえば、この方ですね!ウィキピディアより以下の部分転載です!
1907年、沖縄県島尻郡豊見城村(現:豊見城市)我那覇に生まれる。沖縄県立二中(現:沖縄県立那覇高等学校)、東京・順天中学(現:順天中学校・高等学校)を経て旧制第七高等学校(現:鹿児島大学)に進んだが、社会主義運動に加わったことを理由に放校処分となる。2年間の兵役を務めた後、1932年に丹那トンネル労働争議を指導して治安維持法違反で検挙され、懲役3年の刑で横浜刑務所に投獄される。その後は蒔絵工などを経て、召集されて砲兵として中国へ出征する。
戦後、名護町助役、沖縄朝日新聞記者、毎日新聞沖縄支局記者を経て、1946年にうるま新報(現:琉球新報)社長に就任。在任中、沖縄人民党の結成に参加したことにより、軍の圧力で同社長を辞任。雑貨店を経営しながら、日本共産党奄美細胞と連携して組織活動を指導し、合法政党としての沖縄人民党書記長となる。1950年、沖縄群島知事選挙に出馬するが、当選者の1割にも満たない得票数で落選。次回1952年第1回立法院議員総選挙では最高得票数で当選を果たす。同選挙後に開催された琉球政府創立式典で宣誓拒否した。米国民政府は公に好ましからざる人物として対応した。
1954年10月、米国民政府は瀬長を、沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑(出入国管理令違反)で逮捕、懲役2年の刑の判決により再び投獄された。1人の証言を証拠として弁護士なしの裁判にかけるなど事実審理の形式に問題はあったが、当時の日本共産党関係の秘密文書の多くが開示された現在において事実関係の認定の誤りは特に見受けられない(沖縄人民党事件)。1956年4月の出獄後、同年12月に行われた那覇市長選に出馬、当選。
瀬長が公然と反米を掲げる人民党の幹部であることを危惧した米国民政府は、管理する琉球銀行による那覇市への補助金と融資の打ち切り、預金凍結の措置を行い市政運営の危機[5]に見舞われるが、 瀬長の市政を支えるために「自主的な」納税によって財源を確保しようとの瀬長側の呼びかけに応じ、瀬長当選前の納税率が77%だったのに対し、当選後の納税率は86%、最高で97%になった。これにより当座の市政運営ができるようになり瀬長は市政運営の危機を脱する[6]。これに対し米国民政府と琉球民主党は7度にわたる不信任決議を提出するが、いずれも不発に終わる。1957年、高等弁務官ジェームス・E・ムーア陸軍中将が布令を改定し(米民政府高等弁務官布令143号、通称「瀬長布令」)1954年の投獄を理由に、瀬長を追放し被選挙権を剥奪した[7]。
市長在任期間は一年足らずであったが、那覇市政をめぐる米国民政府との攻防は、当時沖縄県民の強い支持を受け、現在でも同県内では祖国復帰運動に身を捧げた市民活動家であると信奉する者が多い[8]。また、瀬長の活動を記録しているとしている記念館「不屈館」においても、米国統治下に非公然の日本共産党員であったとは一切認めていない。
1967年12月に瀬長布令が廃止されたことで被選挙権を回復。翌68年の第8回立法院議員選挙で立法院における議席を回復した。1970年の沖縄初の国政参加選挙では、沖縄人民党公認で当選、1972年の第33回衆議院議員総選挙でも人民党公認で2期目の当選を果たす。1973年に人民党を日本共産党に改組し、以後は日本共産党公認として1986年の第38回衆議院議員総選挙まで通算7期連続して衆議院議員に当選した。その間、日本共産党副委員長であった。1990年、政治活動を引退する。2001年10月5日、肺炎で死去。享年94。
ジュリオ=キュリー賞、那覇市政功労賞、県自治功労賞、沖縄タイムス賞(自治賞)を受賞。那覇名誉市民、豊見城名誉村民。
1998年には映画「カメジロー 沖縄の青春」が制作[9]され、2005年には小林よしのりが著書の沖縄論の中で「亀次郎の戦い」を掲載した。いずれの内容も、瀬長及び人民党による島ぐるみ闘争が日本共産党琉球地方委員会の指導下にあった闘争[10][11]であることを描いていない。
2013年3月、記念館「不屈館」が那覇市に開館。施設名は反米闘争を行った瀬長が生前好んで揮毫した“不屈”にちなむという[12]。