志情(しなさき)の海へ

琉球弧の潮風に吹かれこの地を掘ると世界と繋がるに違いない。世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

「いっとーばい~逃げた知事泉守紀~」現代の沖縄も投影ーー伊佐尚さんのディテールに踏み込んだReviewです。

2017年06月14日 11時21分53秒 | 沖縄演劇

  (琉球新報2017年6月14日)

試演会のご招待もあったけれど行けなかったし、シンポジウムも参加できず、本番は遅刻して途中から5分から10分遅れで見たゆえに、正直きちんと印象批評も書けないですね。試演会も見て本番も御覧になった島元先生は「前より良かった」と話していて、どこがどうよかったのかよく見えていません。リハのリハのようなつまり二重、三重の構図があったことなど、伊佐さんが書いたこの記事を見て納得です。つまりある面、役者の下手な演技も筋が通るということになります。リハですからなよなよとした所作も演技も完成を目指す途上の現在として演出できるわけです。ちょっと物足りなかったけれどー。うちなーぐちも挿入されていましたね。それで残虐に殺された沖縄人は実際にいたのですからね。口語表現(ウチナーグチ、普段着の生活)が、戦争という修羅の空間で抹殺の対象になった。全く根絶することが出来なかったのは、日常の習俗の力なんですね。心【感性】の中に滔々と流れているものをそう簡単に払拭できないですね。

栗山さんが以前演出した「かじまやーカメおばあの生涯」が、舞台のリハをさらに演出家が口をはさむ場面などを挿入して、舞台の立体性をうまく見せたのだが、それと似た手法があったことは、納得できます。「逃げた知事」の物語の稽古風景を見せているという手法で、それは、前の日本復帰のテーマの作風とも似通っていますね。この手法は1950年代から登場していますよね。(欧米ではもっと前だったか?世界の演劇史を再確認する必要があるようです。)

慰安所設置に反対したが「沖縄だって皇土だ」の意識で、慰安所設置を反対した傍らで、占領地や植民地での設置を肯定したのだ、との伊佐さんの批評です。ただこの場合泉さんが他の地ならともかく、というのは修辞のひとつであって慰安所をそれゆえに他の地なら肯定だったという断定はできないですね。近代の中央集権拡張時代の東大や京大、旧帝大のインテリ層も、近代化理論の中で欧米に追いつけの姿勢で、領土拡大や植民地化を是とした学問体系の中にあったと言えます。人類学も民俗学もそうですよね。名称は戦前と戦後といろいろ変わってきますが、時勢の流れ(近代のおよそ80年)の中で、どう真実を追究したのか、問われますね。時代の思潮が必ずしも世界の良識に(世界人権宣言等)照らした時、必ずしも肯定できかねます。

内々にそれらに否定的な考えを持っていたとしても、時勢と思潮に押し切られることはままあります。自己保身欲を人は持っているからです。

演劇は物理的な力【インパクト】をもっています。その大衆的な力【欲望】が経済とリンクしたのが映画やアニメなんでしょうか?演劇は限られた空間で上演されますから、ある面、特権的な空間であり、創造・想像空間、コミュニケーションの場です。

その特権的な空間をさらに生かす工夫が問われているのでしょうね。どう社会と強くリンクしていくか、ですね。大衆文化は今や、無料で見れるインターネット映像や音楽に移っています。大衆娯楽もネットになりつつありますね。だからこそ生のライブは意義があり、常に集団が無意識の共同性を共有する場は、ある面、一般市民の監視や管理を強めたい者たちには、脅威の空間でもあるはずですね。もちろん娯楽を与え得る場であります。

「おきなわ芸術文化の箱」の今後の活躍は楽しみですね!

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