水車ボランティア(+山家鳥虫歌)

ボランティア解説員としての見聞から始めた、ボケ防止メモ。12年目。新たに「山家鳥虫歌(近世諸国民謡集)」を加える。
 

三鷹の明治時代(6)

2007-05-17 10:49:01 | 三鷹・歴史/地史
(民俗文化財水車経営農家(三鷹市、市役所HP・水車博物館サイト参照)について、平成18年10月2日からの20回で説明した。今は、多少視野を広げ、折々に興味の引かれることについて記述している.
Four articles from Dec. 18, 2006 were trial explanation written in English.)

 5/7の記事で紹介した、明治初期の地形図の右隣の図(図の名前:東京府武蔵国東多摩郡上下井草村近傍村落、明治13年測図)をながめていたらーーーー。

 図の左下の角、ほんの一部が、三鷹市だ。井の頭池、神田上水、玉川上水が含まれ、旧牟礼村の北西部、と言えばよいか。そこに「真福寺」の名を見つけた。

 真福寺(もちろん、今もある、と思う)というと、三鷹一小の前身・時習学舎、初代校長・高橋亭之助、とくる。

高橋亭之助は、1842年(天保14年)牟礼村名主の係累に生まれ、江戸等で、漢学、書道、和学、和算等を修めた。慶応4年(明治元年、1868年)、27歳のときに、牟礼の自宅に手習塾・芝昌堂を設けた(多摩のあゆみ、125号、多田氏論文)。
明治5年の学制太政官布告に従って、国全体に義務教育が始まったことが機会となって、彼は上記の時習学舎に招かれた。

 明治初期においては、おそらく初等義務教育の4年間でさえ、まともに受け入れることはできないような、貧しい社会経済状況であったであろうから、国家を背負った近代初等教育者としての、彼の苦労は並ではなかったにちがいない。
 
 ところで、江戸時代後期、江戸のような大都市では、手習い塾や寺子屋が盛んだったようだが、字の読み書きができる人の割合はどの程度だったのであろうか。三鷹のような農村ではどうだったのだろうか。


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