電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩。時々は実際に散歩を楽しみます。

帝国大学に入学した女性たち

2016年10月11日 20時22分33秒 | 歴史技術科学
世間の注目を浴びながら、初めて帝国大学に入学した三人の女性たちは、それぞれどのような経歴であったのかを調べると、当時の女性の高等教育の状況が見えてきます。

黒田チカ(*1)は、1884(明治17)年に九州の佐賀に生まれました。理解ある父のもとで育ち、17歳で佐賀師範学校を卒業、一年間の奉職義務を終えて1902(明治35)年に東京の女子高等師範学校に進みます。このとき、理科の実験は学校でなければできないという理由から、理科を受験したとのことです。明治30年代の師範学校の教育の中に、実験室を通じた教育が影響力を及ぼしている例が、ここにも見られます。1890(明治23)年に、師範学校教員の養成のために設立されていた東京女高師では、東京大学卒の平田敏雄教授が理論化学を担当していました。黒田チカは、平田教授の指導を受けながら酒石酸の光学異性や染料と染色などに惹かれます。1906(明治39)年に東京女高師を卒業した黒田は、福井師範学校女子部に理科教師として奉職します。福井での教師生活は活気あるものでしたが、翌1907(明治40)年に保井コノ(生物)に続く二人目の官費研究科生として母校に呼び戻されます。平田教授の下で講義の準備や実験助手をしながら化学の教科書を原書で読み、二年間の研究科生活を終え、東京女高師の助教授となります。25歳でした。

この頃、東京女高師には、東京大学医学部の長井長義も講師として指導にあたっていました。黒田は長井教授の実験助手もつとめながら、直接に指導を受けます。長井教授は黒田チカの実力を認め、1913(大正2)年に高等工業学校や高等師範学校卒業者、中等教員検定試験合格者に受験資格を与え、女子にも門戸を開放するという制度を創設した東北帝国大学理科大学化学科への受験を勧めます。実は、長井長義は明治34年に創立された日本女子大学校に、自ら設計した階段教室や化学実験室を備えた香雪化学館を作り、化学の教授をつとめていました。ここでは、1873(明治6)年・鹿児島生まれの丹下ウメ(*3)が長井教授の実験助手として働いており、長井教授は、幼時に右目を失明しながら29歳で日本女子大学校の第一期生として入学、最年長で優秀な成績を収めた丹下ウメに中等教員検定試験を受けさせ、これに合格するとさらに東北帝国大学理科大学化学科への受験を勧めます。丹下ウメは40歳でした。

東京女高師からは、もう一人、牧田らく(*4)が数学科を受験しており、この年は東北帝国大学理科大学に三人の女子帝国大学生が誕生します。

「大正デモクラシーの時代」と言われる「時代の後押し」はあったでしょうが、入学までの経歴を眺めるとき、むしろ時代を切り開いた女性たちの迫力を感じます。と同時に、長井長義等の恩師の存在が大きいことにも気づかされます。


(*1):黒田チカ~Wikipediaの解説
(*2):君川治「女性化学者・黒田チカ」~On Line Journal「ライフビジョン」日本科学技術の旅より
(*3):「農学博士・化学者 丹下ウメ」~On Line Journal「ライフビジョン」日本科学技術の旅より
(*4):都河明子「牧田(金山)らく(数学者、1888-1977)ー妻としての選択」

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