電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

夏川草介『神様のカルテ』を読む

2012年12月03日 06時03分11秒 | 読書
小学館からシリーズで刊行されている『神様のカルテ』という本が、たいへん人気があることは承知しておりましたが、このたび初めて読みました。著者の夏川草介という筆名は、たぶん夏目漱石のもじりだと思いますが、現役のお医者さんだそうです。2009年度の小学館文庫小説賞を受賞しデビューといいますから、多方面に才能のある方なのでしょう。

主人公は、栗原一止(いちと)という変わった名前の若いお医者さんです。一と止を続けて書くと正という字になる、という父親の命名なのだとか。このお医者さんは、信州松本の本庄病院に勤務する内科医ですが、どうもいっぷう変わっているようです。漱石の『草枕』を愛読するだけでなく、話し方までいささか時代がかっています。ただし、勤務五年目にしては、診立ても救急対応も立派で、どうやら古参医師や看護師たちにも信頼されているようです。

「待ち合わせだよ。人を待っているんだ」
「待っている?待ち伏せている、の間違いじゃないのか?
「うるせぇ、おれにだってそれくらいのロマンスはあるんだ」
ろまんす、とは笑える。私の頭の中では、ゴジラが花束を持って右往左往している姿が思い浮かぶ。歩いたあとには瓦礫の山だ。(文庫版226頁)

地域中核病院に勤務し、過酷な医療現場の風景を日常とするやや風変わりな医師が、愛読する夏目漱石の文体の影響を受けたらしい古風な言い回しを常用する会話は、テンポが良いのですが、なんともおかしさがあります。また、漱石の「坊ちゃん」みたいな、真摯で時に痛快な対応がもたらす諸々の出来事は、かなりデフォルメされてはいるのでしょうが、いかにもありそうな感じがします。病院の勤務条件の過酷さは、一般の人にもだいぶ知られるようになりましたが、24時間365日対応を標榜する本庄病院の勤務状況も半端ではありません。

しかし、なによりも患者のエピソードが、心に強く訴えるものがあります。大学病院に見放された安曇さんというおばあちゃんを受け入れる地方病院で、奮闘する医師や看護師など病院スタッフの喜びと悲しみ。遠い昔にあった、安曇さんの夫君の決断の背景にある人間性の偉さは、グレーの紳士に伝わり、そして本庄病院の医師や看護師に伝わります。こういう話を、作者はどこでどんなきっかけで創作したのだろう。もしかすると、作者がその周辺で、直接にあるいは間接的に見聞きしたことなのではなかろうかと思ってしまいます。

栗原医師が住まいする元旅館に同宿の学士殿の絶望。受験に失敗し、放浪の末に居心地の良い御嶽荘で八年もの時を無為に過ごしてしまい、母は亡くなってしまったことを知ったときの、取り返しのつかない自己嫌悪と絶望と虚無。そうですね、昔の大学の学生寮にも、これに似た話はあったのではないか。むしろ、精神を病むことなしにすんでいたことが不思議でなりません。そして、この絶望から救い出したのが、救急医療と熱ある言葉と門出の桜、姉や家族との肉親の絆だったということでしょうか。このあたりも、創作というよりも採話ではないかという気がします。

Wikipedia によれば、2011年に公開された映画「神様のカルテ」は、観客動員数ランキングで初登場第一位になったとのこと、中でも中高生が全体の半数以上を占めたそうです。最近は、若い中高生の間でも医師志望者が減少しているとの話を聞いていただけに、若い人を見直しました。大学医学部は相変わらず難関ではありましょうが、お医者さんを志望する人が、特に若い中高生が、増えてもらいたいものです。


コメント (2)    この記事についてブログを書く
« ハイドン「交響曲第96番」... | トップ | 今日は、八神純子と山響の演奏会 »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ハードこの上なし (こに)
2012-12-04 22:04:28
医師も看護師もハードな日々を送っているのですよねぇ。
学士殿が御嶽荘を去る日は本当に悲しかったです。
ネタバレになるとアレなのですが、よかったら2も3も読んでくださいな。
きっと4もあって学士殿が本物の学士殿として立派になられるのではないか、という予感がします。
返信する
こに さん、 (narkejp)
2012-12-05 20:00:58
コメント、トラックバックをありがとうございます。読後感は、なかなか良かったです。同級生で病院勤務医もいますが、やっぱり大変そうですね。肉体的に、定年まで持つだろうかと、会う度に言っています。「神様のカルテ2」は、ただいま読んでいる最中です(^o^)/
返信する

コメントを投稿

読書」カテゴリの最新記事