写真論のリポートを書いている。難解な文章にてこずっている。
写真論の中で興味深い話があった。それは写真術というものが始まって数十年経ってからなぜか平凡なものを取り出したという。
その理由が小生には判読できないでいないのだが、その当時も素人の写真家はきれいな風景とか、夕日や山などを撮影していた。
これは今でも同じだ。非日常のものにカメラを向けるのが一般的だ。しかしこの数十年後になると、けばけばしいものや退屈と思
えるものを撮り始めた。判読でき切れていないが、理由の一つに美と醜を区別しないという思想が芽生えたらしい。時代は1910年
以降だ。
偶然ながら小生も、といえば少しおこがましいが最近小生はなにげないものにカメラを向けるようになった。きわめて日常の風
景を撮る。撮影する時はなんでもないように思える。特段珍しい風景ではない。しかし写真というのはこの本の言葉を使えば、そ
の一瞬を切り取ってしまうもので、その一瞬はもう二度と起こることはなく、もう二度と同じことはないというものだ。と考える
とその時はなにげないと思っていても、その写真を後になって見たときは知らない場所の風景写真よりも懐かしさや愛着がわくも
のと思う。日常という感覚にはならない。むしろそうした写真の方が非日常と感じるかもしれない。そんなことを最近考える。
あの日、あの時と思える写真はその時は日常であっても、後で見るとそれは非日常と思えるのか。なんだか言っていることが支
離滅裂になってきた。所詮理論なので、イメージの世界に入り込まないと理解はできない。
でも理解する必要があるのか~。ふとそう思う。
写真論の中で興味深い話があった。それは写真術というものが始まって数十年経ってからなぜか平凡なものを取り出したという。
その理由が小生には判読できないでいないのだが、その当時も素人の写真家はきれいな風景とか、夕日や山などを撮影していた。
これは今でも同じだ。非日常のものにカメラを向けるのが一般的だ。しかしこの数十年後になると、けばけばしいものや退屈と思
えるものを撮り始めた。判読でき切れていないが、理由の一つに美と醜を区別しないという思想が芽生えたらしい。時代は1910年
以降だ。
偶然ながら小生も、といえば少しおこがましいが最近小生はなにげないものにカメラを向けるようになった。きわめて日常の風
景を撮る。撮影する時はなんでもないように思える。特段珍しい風景ではない。しかし写真というのはこの本の言葉を使えば、そ
の一瞬を切り取ってしまうもので、その一瞬はもう二度と起こることはなく、もう二度と同じことはないというものだ。と考える
とその時はなにげないと思っていても、その写真を後になって見たときは知らない場所の風景写真よりも懐かしさや愛着がわくも
のと思う。日常という感覚にはならない。むしろそうした写真の方が非日常と感じるかもしれない。そんなことを最近考える。
あの日、あの時と思える写真はその時は日常であっても、後で見るとそれは非日常と思えるのか。なんだか言っていることが支
離滅裂になってきた。所詮理論なので、イメージの世界に入り込まないと理解はできない。
でも理解する必要があるのか~。ふとそう思う。