日記の邪道

徒然なるままに。b.log

大人っぽい子供

2006年07月04日 02時48分44秒 | Weblog
アルピニスト、野口健。♪ダバダ〜(ネスカフェ)
なんでこの人が好かれてるのかわからない。みんなわかってないのになぜか出ている、という真実を望む。

朝から日テレの番組で橋本龍太郎の知人として出てたわけで、まあ人が死ぬと「知人」と称するやつがたくさん出てきてあーだこーだ言うからそこ自体は別にどうでもいいのだけれど。

ザ・ワイドでの発言

「最初に入ったらさ、『何しに来たの』ってあの感じでじろっと見たんだよ」

「僕がね、『橋本先生のヒマラヤ登山隊を見て登山家になろうと思ったんです』っていってやったらすごい嬉しそうな顔してさ。ほんとはそんなこと全然ないんだけどね。」

で、番組としては野口健がヒマラヤで回収した橋本隊のゴミを渡したら、橋龍が平身低頭して謝っていたとか、亡くなる前日にも病室を訪れたとか、ピッケルを形見に貰っただとかいう感動ストーリーにしてたわけだが、こんなコメントあったらすべてが台無しだろう。

ってか普通、死んだ人前にしてバカにするか? あれは親しいからというよりは単に「先生って言うと喜ぶようなやつ」だとバカにしてたようにしか見えない。これだったら大したことないエピソードを大事に語る「知人」のほうがまだマシ。

ってかなんで番組関係者はそのシーンを切らなかったんだ? 橋龍に恨みでもあるのか? そして「感動するいい話ですね」というコメントしかしない仁くんと有田ほかコメンテーター。お前らは何のためにそこにいるんだ? 建前上「お茶の間の声」なんだろ? じゃあ「亡くなった人にああいう言い方はないですよ」ぐらい言えよ。

しかし本当に野口健というのは子供だなぁ。心の底では「死んでくれてテレビに出られる」と思ってても、さめざめと泣く方がまだ大人なんだよ。最近堀江といい村上といい大人っぽい子供が増殖しているが。。。
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去っていく男

2006年06月24日 15時02分08秒 | Weblog
彼のコメントは、代表監督の去り際の言葉というよりも日本のプロサッカー創成期を支えた者の最後の言葉として重みがある。
一度は引退し、故郷の大臣にまでなった男が、地球の裏側のアマチュアチームにやってきて、右も左もわからない暮らしを経験しながら代表監督まで努めた。そして今、ついに彼はこの島国を去ろうとしている。彼のこの島国での15年は、彼にとっても、この国にとっても大きな時代となるだろう。そんな男に、最後の最後で「努力してきてくれた選手もたくさんいたが、軽い気持ちできていた選手もいた」という発言をさせてしまったところまで、日本代表は堕ちてきた。
サッカーの技術的な側面からすれば違う言い方もあるのかもしれない。だが、4年間かけて掴み取った最高の舞台で、しかももしかしたら現役で1回しか出られないかもしれない舞台で、なぜ歩いていられるのか。勝ちまけや点差ではなく、子供の頃から自分が一番だったサッカーというスポーツで、目の前のボールを奪われ、決められて悔しくないのか、と代表選手たちに問いたい。
今年3月にあったWBC、確かにサッカーに比べれば野球のほうが日本の技術レベルは相対的に高いだろう。だが、彼らを世界一まで導いたのは、明らかに強さよりも悔しさだった。彼らだって順風満帆だったわけではない。ホームで韓国に負け、2次リーグではアメリカに負け、そして再び韓国に負けた。2度同じ相手に負けて、さらにはマウンドに国旗を建てられたという屈辱。それはナショナリズムでもなんでもない。ただ単に、負けたという屈辱。それこそが、彼らをより高い次元へと導いたのは間違いない。本当に強いのは、敗戦から何かを学ぶものたちなのだ。
相手がオーストラリアだから負けてはいけない、ブラジルだから負けてもいい、という話ではない。君たちは、負けるためにサッカーをやっているのか? これからも、負けるのか?

Jリーグ創設から13年。ここまではプロリーグ誕生とワールドカップ開催、そしてその余韻という大きな流れに乗ってきただけだった。考えてみればまだたったの13年なのである。これからこそが、日本サッカー界の命運を決めていくのだ。いっときの熱情で終わるのか、それとも日々の生活に根ざすカルチャーとなるのか。その道は、外国人監督ではなく、選手、サポーター全員が作っていくものなのではないだろうか。
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二番打線

2006年05月05日 01時53分38秒 | 野球
二番打線
GWといえば鯉の季節、カープが好調である。(ここ2試合の話だが…)
開幕当初、マーティー・ブラウン監督は緒方を一番、前田を二番におく打線を組んだ。しかし選手やマスコミ、ファンが「二番」というイメージにとらわれたこともあり、つながるどころかまるで点が入らず、「よくて2得点」の「2点打線」といわれた。
結局この打線は「日本には打順に文化があるようだ」とのブラウン発言を最後に撤回されるわけだが、上田哲之氏は「プロ野球哲学:改革者はつらいよ、なあ、マーティー」の中で「2番に最強打者を置く打線を、日本で初めて成功させてほしかった」と書いている。
だがちょっと待ってほしい。二番に最強打者を置く打線は50年前の日本に既に存在している。三原脩の「流線型打線」こそ、二番最強打者打線」である。
確かに、川上巨人が「二番・土井正三」で9連覇したせいもあり、日本野球では二番といえば小技のうまい選手ということになっている。だが、三原の考えは違う。

流体力学で、中心部のふくらみが四十五度以下のなだらかな上昇・下降曲線を描く物体は、空気抵抗が少なくスピードを出しやすい。三原はこれにヒントを得た。三、四番で急に長打力が上がるのでなく、二番から上昇曲線に入る。そうして得点力を増幅させる。(赤瀬川隼「獅子たちの曳光〜西鉄ライオンズ銘々伝」)

この「流線型打線」理論の下、三原は二番と五番を固定した。二番を打ったのは巨人では「猛牛」千葉茂、西鉄では「野武士」豊田泰光、そして五番が両チームとも関口清治。いずれも試合の流れを読むことに長けた、名中距離打者である。ライトへの打球、それもライト前ではなく三塁打が多いのも特徴だろう。(千葉52本、関口・豊田47本で、千葉と関口の三塁打率はイチローや高橋慶彦より高い)
今季、カープの二番は前田だった。アキレス腱の故障以来、「走」の方は期待できそうにないが、前田もまた、ライトに強い打球を飛ばせる中距離打者であり、「流線型二番打者」の素質は十分である。
そもそも二番がバントをするというのは一番が出る、という仮定の下である。そして一番が出て二番がバントをした場合、一死2塁で三番に回るわけだが、ここで二番がバントでなく、二塁打、三塁打(最近すっかり観なくなったが)を打てば、先制した状態で、もしくは二番が塁に出ただけでも無死で三番以降に回ることになる。となれば投手は三、四、五番を完璧に撃ち取らねばならなくなり、プレッシャーは一死2塁の比ではない。
もちろんこの想定は、三原の言うとおり五番に強打者がいてこそ、である。五番が大した打者でなければ、三、四番を打ち取るのと、五番まで含めた3人を打ち取るのとではあまり変わらなくなってしまう。
だが幸いにして、カープには新井、嶋、栗原と3人の強打者がいる。栗原は若さのせいか大した成績を上げられていないが、素質で言えば五番の資格は十分ある。今年のカープにおいて、流線型打線を採用したブラウン監督の構想は決して間違いではないと思う。
ただ、三原も豊田を二番に置く際、二番に中距離打者を置く可能性を語り、渋る豊田を説得したといわれる。今年のカープを見る限り、ブラウン監督とカープに足りなかったのは、ブラウン哲学の選手、マスコミ、ファンへの徹底、その前提となるブラウン監督の「野球文化」の理解であったといえよう。
そしてもう一つ。三原の率いた巨人、西鉄に比べ、カープは選手層が薄い。いくら流線型打線を組んだところで、六〜九番が凡退するのが目に見えている状況では、投手は楽である。なにしろ3回に1回は気軽に投げられるのだ。こちらに関しては上田氏も言うように、もはやフロントが原因だというしかない。監督はあくまで「グラウンドマネージャー」なのであり、編成面の責任を押し付けるのは酷というものである。
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WBC観りゃいいじゃないか

2006年03月30日 02時44分41秒 | Weblog
小学校の授業中にWBCを観ていた教師が叩かれているらしいが。

どうせならテストなんかほっといてクラスみんなでみりゃいいじゃないか。小学校でしょ?
このニュースを聞いて、小学校のときに長野五輪ジャンプ団体原田1回目、あの失敗ジャンプをクラス全員で見たことを思いだした。あれはそんなにいけないことだったのだろうか?
あるいは東京五輪、札幌五輪、日本中の教室がテレビをつけていたはずだ。当時テレビを観ていた人たちが今になって批判する側に回っている、というのはなにか不可解だ。

「ゆとり教育」というのがとかく批判される世の中である。「教育問題」=「ゆとり教育批判」といって差し支えないほどだ。
だが、ゆとり教育の中の「総合的学習」(これも批判の的になっている)についていわせてもらえば、これが失敗するのはひとえに教師の努力が足りないからだ。
そもそも、中等教育の成果を数年で判断しようというのが間違っている。「スーパーサイエンススクール」とかいって理科教育に力を入れる、という政策もあった(今も続いているのかもしれない)が、これにしたって、導入当初の言論から言えばその高校を出た人間が、世界有数の研究者になって初めて成功とされるものである。そんなものが数年で実現するはずがない。せめて10年は続けないと是非は判断できないだろう。数年で出てきた材料で判断できるような是非なら、始める前に考えれば出てくるはずだ。

総合学習に話を戻せば、例えばWBCを総合学習に組み込んでいけばいいじゃないか。「日本が戦ったキューバってどんな国なのかな?」とか「韓国はなんであんなに日本戦になると燃えるのだろう?」でもなんでもいい。教師用指導書を棒読みして、なんとか学年末までに全ページ終わらそうとあせるより、こちらの方がよっぽど思考力も身につく。なにより日常生活と座学のつながりが生まれ、生徒のモティベーションを高められる。
だいたい教科書を全ページ教える(というかやったことにする)ことはそんなに重要なのか? 教科書の最後の10ページを残してでも、こういう授業を入れていったほうがよっぽど有用だと思う。ってか小学校からこのかた、毎年教科書ってのは終わらないものだと思っていたんだが。

中高にしたってそうで、たとえば高1の9月に同時多発テロが起こって、その後半年、地理の授業はテロの背景にあるアメリカ社会とアフガニスタンの話ばかりだった。事前の予定とは全然違う。でもそれでいいじゃないか。

教科書が簡単になった、ゆとり教育はダメだ、といわれるが、僕はそうは思わない。
教科書はむしろ、生徒が独力で理解できるくらい簡単な方がいい。そして、教師は教科書を読んでいることを前提に、それ以上の、教科書にない知識を教えればいいじゃないか。教えることが教科書に書いてあるべきだ、という現在の前提がおかしい。だったら教師が要らないことになる。

ゆとり教育というのは、そもそも授業が減った分、生徒が学校外で何かを学んでいく時間をふやす、という概念だったはずで、自分の子供が土日ずっと家でゲームしているだけで、子供をどこかに連れて行ったりして学ぶ機会を与えようとせずに「学校で教えてくれないからウチの子の学力が下がった」というのはおかしな話だと思うんだよなァ。結局のところ、親も教師も、子供の教育というものがわかってないんだろう。
教育っていうのは、知識力だけをいう概念じゃなかったとおもうんだが。

いやはやしかし、早めに生まれておいてよかった。学力が低下するから、ではなく、教育制度の混乱に巻き込まれずにすんだもんな、一応。国立大学法人化とかはあったけどさ。
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国家の品格

2006年03月28日 19時49分49秒 | Weblog
藤原正彦のベストセラー。
とりあえず読まないことには何もいえないので買ったわけだが・・・

この人は、もし自分が今理想だと書いている世界に行ったら今度はその「理想郷」を批判するんだろうな

というのが全て。
「日本が嫌いだからアメリカに行きました、理想郷だったアメリカはおかしなことだらけでした、だから昔の日本がいいと思います」という話が延々でてくる。
冷泉彰彦がJMMで言っていた通り、この人はアメリカに住んだがゆえにアメリカ型のナショナリズムと反米意識をもち、結果こういう考えになったのだと思う。

結論の文章自体を見れば、「英語を教えるよりまず話す内容を持たせた方がいい」とか同意するところは多いのだけれど、その結論の導き方がぐちゃぐちゃ。論理はダメだ、情緒だ、といっている自分の思考が近代論理の下で成立していることをまったく考えていない。

右左問わず知識人という人たちには「まず自分の回りを見て、自分がどうしているのかを考えようね」といいたくなる人が多いけれど、藤原正彦もその一人。別にこの人が特別すごいわけでもなければ、特別ひどいわけでもない。

最近になって広告に「満州生まれ、藤原ていの息子」というプロフィールが入ったのはそこから生まれるナショナリストなイメージがマーケティング上必要だからか。実際の主張の元になっているのは、筆者のアメリカ・イギリス経験がほとんどである。

「真のエリート」っていろんな人が(高校の元副校長も含めて)言ってるけど、彼らは戦前のようなエリート社会だったら自分はもっと上の地位にいた、と思っているのだろう。実際にはそんなことはありえないのになぁ。いまエリート主義を主張している人だけで彼らの言う「国家エリート」より数が多いというのに。
それとも「エリートさんに全てお任せしよう」とおもっているのだろうか? そんな無気力ならエリート論なんてやんないだろうけど。

「若き数学者のアメリカ」というやつも読めばもうちょっと「藤原正彦論」が確立するのかもしれないが、それはどうも無価値な気がする。
ベストセラーだとこんなもんなのかな。
藤原正彦によれば「大衆に受けるのは短く単純な論理」だというが、この本も十分「短く単純な論理」だから大衆に受けるわけだ。この洞察は正しい(笑)
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パリーグ魂

2006年03月26日 20時52分52秒 | 野球
かつて、パリーグの男たちにとって、オールスターはお祭りではなかった。さあ、セリーグを、倒せ。




26日朝日新聞朝刊のスポーツ面、西村欣也氏のコラムによれば、昨年9月28日西武球場での最終戦を終えた仰木監督は、もはやネット裏の階段を登れないほどガンに侵されていたのだという。それを読むたび、朝から涙が止まらない。

仰木彬。パリーグ一筋に生きた男。あの球団合併・消滅という大騒動のさなか、パリーグにアイデンティティを示したのは、間違いなく仰木だった。彼がいたからこそ、パリーグがある。

そして今年、また一人、ミスターパリーグが甦った。野村克也。南海、ロッテ、西武。彼もまた、パリーグの中で生きてきた男。

野村後のパリーグ、その象徴たる西武ライオンズを誰よりもよく知る男、伊東勤。
セリーグにリベンジ誓う、清原和博。
福岡の星、パリーグの星。世界一の主砲、松中信彦。


パリーグでもっとも美しいもの、それはセリーグを見返さんと燃える、炎。
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カーリングが面白い

2006年02月21日 05時58分03秒 | Weblog
惜しくも予選リーグで敗退したが、この数日間観続けてにわか解説者になった。まず冬季五輪にしてはチーム競技だし、展開も野球と同じでエンドに別れているので、野球になれた人間としては観やすい。ホッケーとか展開が速すぎて頭がついて行かない・・・まして滑降なんか(笑)


カーリング、というキーワードからたどるといろんなページで批判されているコラムが。
『考えて欲しいNHKのカーリング』


夜はトリノ・オリンピックを観た。トリノは、スノボーのクロスとかスケートのパシュートなど新種目が面白かった。スキーの滑降種目もスリリングで興奮するが、不満はNHKである。カーリングを延々と流している神経はどうしたのか。ジャパン・コンソーシアムはシドニーから5大会で総額632億円の放映権料をIOCに払い、その70%がNHKの負担だ。カーリングを見るために、そんな大金を払ったのか? メダルを見たいために放映しているのか? 昔のNHK運動部はもう少し主張があった。公共放送、せめて報知新聞写真部のような一貫性があっても……ま、そこまで持ち上げる意味はないか。


まず、この記事が掲載されたのは20日。ということはちょうどカナダ戦以後じわじわとカーリングが話題になりつつあるときですね。それまで結果しか放送していなかった民放も慌てて映像を流し始めたりしてた頃。それを念頭に入れて読むと、面白い。
この段落、そもそも前段とつながってるのかといえば、全くつながっていない。前段までの話は、青梅マラソンにいったらキヤノンのサービスマンがいた、とか、日本人は面と向かって肉体と対峙することが苦手だとかそういう話。
それがなぜ「夜はトリノオリンピックを見た」から別の話題になるのか。共通しているのは「一貫性」というキーワードだけで、わざわざ1回のコラムにまとめる必要はない。
そして次に、「メダルを見たいために放映しているのか?」という記述。カーリングをメダル候補に上げていたのはよっぽど楽観的な民放でもやってないと思いますが? あくまで「トリノへの道」がドラマだったからね、今までは。そこら辺の情報の不足。(でも本人は自分が無知であることを知られたくないらしい)
第三に、「カーリングを延々と流している神経はどうしたのか」と言っているが、カーリングが退屈かどうか、というのは野球が退屈かどうか、と同等に批判としてあまり意味がない。単に「滑降はスリリングだけどカーリングは退屈だから僕はヤダ」といってるだけ。しかも、20日の実施競技で盛り上がっていたのは、明らかにカーリング。民放もまだ始まっていないフィギュアを予定通りやりつつ、カーリング人気に乗じようとスバヤク話題を取り上げていた。そういう流れをわかっていないからこうなるんだろう。もし一貫性というキーワードで何かを叩きたいんだったら、批判されるべきは「人気が出てから慌ててカーリングの話題を取り上げた民放・メディア・ライター」であり、「カーリング人気が低い当初から放送を続けたNHK」はむしろ「一貫性」があるだろう。
マイナースポーツを報道することは、そのスポーツの振興にとって非常に大きなメリットがある。事実、カーリングだって映画化されたりという話題はあったものの、実際の試合をNHKがこれだけ見せてくれる、というのはなによりも大きい。そして、どんなにマイナーでもオリンピック競技である以上、カーリング人気の向上は日本の五輪強化にもつながる。(こういうのがオキライなんだろうけど)

根本的には、カーリングを「メダル競技だからつまらないのにNHKが延々放送してる」と思い込んだところが、この記事で最大の失敗だろう。本当のことを知ってたらこの人は「カーリングを放送し続けるNHKの一貫性」と書いた気がするw

てかこんなこというんだったらフジは一貫性を持ってカーリング選手を取り上げたりするなよ。ジャンクスポーツ漬けにしたりすんな。あ、カーリングがつまらないんだったら加藤ローサも禁止で(笑)
この人自身も一貫性があるのかと思いきや、サッカーを批判してたのに賞賛するコラムかいてたりするからなあ。
ってかスポーツライター、特に今回のネットライターの稼ぎどころっていうのは、いかに旬なネタを、さも知っていたかのように書くか。じゃあ最初っから書けよ、って記事がいかに多いことか。
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ライブドアから東証へ

2006年01月20日 00時51分44秒 | Weblog
先日エントリを書いてから2日ばかりしか経っていないが、事態はどうやら「ライブドアショック」から「東証ショック」へと移行しつつあるようだ。

水曜日、約定件数が400万件を越えたという理由で東証が14時40分で全銘柄の売買を停止。火曜とあわせて平均株価は1200円あまりの下落
木曜日、平均株価は300円以上反発。一方で約定件数はこの日も395万件を記録。

ライブドアの捜査に始まった一連のパニック的株安は、現時点では1000円以内の下落にとどまっており、小バブルといえるのかすら微妙な幅である。
一方で問題なのは、東証の約定件数問題である。下がるにせよ、上がるにせよ、東証での取引には取引停止リスクが伴うことが周知のものとなった。
これはライブドアショックよりも根が深い。
ライブドアが捜査されたことに関する売りであれば、銘柄によって関連性を見極めることで株価は適正水準へと戻るであろう。だが、証券市場の構造的問題となると、全上場銘柄が、業績に関わらず一定のリスクを負うことになる。そしてそれは市場の期待収益率に対する影響も大きい。

まあこれだけ金利が低いと、株の収益率がちょっとばっかし下がったところで、結局株に行くしかないわけですが。
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で、結局のところ

2006年01月18日 06時06分16秒 | Weblog
今回の一件で、ライブドアの行為の適法性に関わりなく、堀江氏のマスコミにおける存在価値は急激に低下したのはまちがいない。なんといわれようが、日本社会は推定有罪だから。。。

となると、もっとも悔しがっているのはフジテレビ。あと1年早く捜査のメスが入っていれば、莫大な資金を失うことはなかった。しかもライブドア株は協定で07年3月まで売却できないらしい。こういう協定は堀江のが一歩も二歩も先んじているわけだが、このまま行けば下手をすると07年3月にはライブドア自体が存在していない可能性すらある。まあどちらにしろ大変なものを抱え込んじまったわけだ。千と千尋のカオナシを思い出しますね、なんとなく。さすが御大、予言者でしたか(笑)
まあ他にもテレビ局は出演番組の調整とかで被害を被るだろうけど、せいぜい今月中の話。フジテレビほどではない。なにせコメンテーターなんて腐るほどいるしね。(ってかどっからか見つけてくる)

ホッとしているのは野球界。ただし三木谷も同じ穴のムジナならば一気に苦境になるのは間違いない。
その点サッカー界のほうがまだオーナー(企業)の変更が容易な点で有利か。
あとは奥菜恵。いいときに離婚したもので(爆)

政治でいえば、小泉−武部の刺客路線を批判していた党内外の政治家にとっては好材料。なんだかんだいって今回の刺客は女性陣とホリエモンであった。
まして自民党反小泉派にとっては、ヒューザー小嶋社長の証人喚問に関する報道、この事件によって約半分になったのは嬉しいだろう。ただ、ヒューザー小嶋は「安倍官房長官の秘書」との結びつきも証言したらしく、それが報道されていないのは小泉にもプラスか。
もともと検察は小泉の威光がさほど及んでいない場所であることを考えれば、強制捜査がこの日を選んで行なわれた裏にはヒューザーの証人喚問があるのでは、と疑いたくもなる。反小泉派と検察がつるんでた、とかね。まあそこら辺はわかりませんが。
どういう背景があるにせよ、相変わらず民主党が攻撃下手だろうことはすぐにわかるのが空しい。
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時価総額主義の失敗

2006年01月18日 05時45分18秒 | Weblog
ライブドアグループをめぐる証券取引法違反について。
詳しい論評は明日(?)に回すことにして、寝る前(え?)に少しだけ。

2001年から2002年にかけて、アメリカの経済を揺るがす事件が起こった。エンロンショックである。
端的にいえば、この騒動は、株式交換によってM&Aを進めて来た企業が、業績低下によって自社の時価総額も低下する(=被買収リスクが高くなる)ことを不安視して、粉飾決算によって株価を維持しようとして立ち行かなくなった事件である。最初に判明したのがエンロンだからエンロンショックといわれているが、電話会社ワールドコムなど、同様の行為を取っていた企業が多かったこと、そして投資家が証券市場の透明性を疑問視し、資金を証券市場から引き上げたことで、NYダウ平均は2割近く下落した。

この騒動を今回のライブドアの問題にあてはめるならば、取った手段こそ違えど、動機の点でエンロンとライブドアをほぼ同一視することができる。さらに今回、ライブドアマーケティングでは粉飾決算が行なわれていた疑いももたれているから、そうなればますます類似性は高まるだろう。

私がこの問題でいいたいのは、株式資本主義は悪だということではない。チャーチルが「民主主義は最悪の制度だ。だが我々はこれよりましな制度を知らない」といったのと同様、証券市場での投機的行動も含めた資本主義は、最悪だが最もましな制度である。
問題は、2001年にアメリカにおいて発生した問題が、なぜ3年以上もたって(行為が行なわれた時点で3年、強制捜査の時点で4年以上が経過)また日本で繰り返されるのか、という問題である。
エンロン事件の捜査、さらに他社での決算に対する疑惑解明が進むにつれ、この種の動機が株式交換によるM&Aシステムに潜在しているものであることは明白になったといってよい。つまり、遅かれ早かれ、このような動機を持つ者が現れるのは予見できたはずである。そして、アメリカは事件後、企業の投資行動を制限する立法によってそのリスクを除去してきた。一方で日本がその潜在的かついつか現れることは明白な危険を改善しようとしなかったのはもはや立法不作為というほかない。

エンロン事件後起きたのと同じように、今後日本およびアジアで、「株離れ」が進むであろう。アメリカにおける株価の低下が各プレイヤーの判断の結果であった以上、日本でも同じ判断、同じ結果が導き出されるはずである。
確かにそうなれば株式バブルの危険は低くなるだろうが、日本経済が再び低迷期に入る恐れがある。なにも机上の空論で言っているのではなく、実際5年前にも15年前にも「株価の高騰→急落→低迷」というサイクルが起こっているのである。付言すれば、5年前の「ITバブル」の象徴が単なる携帯電話販売会社である光通信であったのと同様、今回のライブドアも、実業における規模に対して社会の注目、株価総額がアンバランスに大きいというのは興味深い。さらにいえば堀江氏は光通信のベンチャーキャピタルの投資によって現ライブドアの前進であるオン・ザ・エッヂの事業を拡大してきた。(まあ光通信ベンチャーキャピタル系ということでいえばサイバーエージェントとか他にもいろいろあるが)

エンロン事件以後、株式市場に対する不信感は増幅されたが、それはつまり、「株なんて所詮は抜け道を知ってる詐欺師まがいのやつが、何も知らない投資家の金を吸い取っていくシステムなんだ」というイメージである。
今回の件にしたってそれは同じで、ライブドア(およびヒルズ族)と一般投資家の間には、圧倒的な情報量の差と、一方的な「勝ち−負け」の関係が存在する。たとえ一握りの一般投資家が数十億稼いだところで、胴元であるヒルズ族が今回のような手法を取ってしまえば無意味である。ライブドアに還流したとされる44億あまりの金は、決して降って沸いたわけではなく、ライブドア側の情報を信じて資金をつぎ込んだ投資家のものであることを忘れてはならない。
このように、そもそもシステム上、「勝ち−負け」の区別が厳然と存在しているという点で、エンロンやライブドアなど21世紀に入ってからのバブルと、90年代のバブルには大きな違いがある。その結果、90年代バブルのように、企業・団体・個人など社会の多くが損失を被ることはないが、情報的・資金的弱者にはより大きな損失がかえってくることになる。


ライブドアがなぜそんな不正をしたのかといえば、それは、自分は確かに時価総額の小さいものを飲み込んできたが、一方でより大きなものに飲み込まれる危険を常に感じていたからに他ならない。武力で周辺を制圧した国家ほど、みずからを制圧できる武力の存在におびえるのと同じ道理ではないか。
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