アラフォーの「あをによし」ブログ

奈良に住むアラフォーのおっさんの日常をつづります。ほんまにどこにでもいるおっさんです。

あれから10年。「長居の悲劇」

2015-12-02 23:38:46 | サッカー

 12月3日はセレッソファンにとって忘れられない日。そう、ちょうど10年前(2005年)の12月3日、首位で迎えたJ1最終節でロスタイムに同点弾を食らって優勝を逃したあの日。

http://www.ammanu.edu.jo/wiki1/ja/articles/%E9%95%B7/%E5%B1%85/%E3%81%AE/%E9%95%B7%E5%B1%85%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87.html (これの2005年12月3日のほうを参照してください。ちなみに私は2000年のほう2005年のほうも観に行っていました。)

 当時の日記が出てきたのでちょっとコピペして載せてみよう。時間のある人は最後までお付き合いください。願わくば今週末の福岡との決戦ののち、こんな思いをせずに済みますように。

【以下、最後まで引用です】

2005年12月 5日 (月)の日記
「ハートブレイク」
 75分(後半30分)を過ぎたところで、私は足元の鞄から1本の紙テープを取り出した。
 それは、以前ここでも書いたが2000年の第1ステージ最終節の日に配られたもので、優勝を逃したまま投げられることなく私の机の中に眠っていた「5年もの」の熟成品だった。
 その紙テープは、私のポケットにしまいこまれ・・・・そのまま今、私の手元に残っている。

 80分(後半35分)が経過した。スコアはいまなお2−1でセレッソリード。他会場の経過を知っていたほとんどの観衆は、セレッソがこのまま逃げ切れば天国(優勝)で、同点に追いつかれることが地獄(優勝を逃す)であるという第三者の目には壮大なスペクタクル、しかし当事者たる我々にとっては極めてスリリングな現実を認識していた。電光掲示板に据え付けられた時計は我々の陣取る北ゴール裏から見ると背後に位置するため、振り向いてそれを見上げるファンの数が時間の経過とともに増えていくのがわかった。もちろん私もその一人だった。

 きわどいシュートがセレッソゴールを陥れようとしたとき、戻ってきたDF柳本が間一髪でそれを掻き出した。安堵。
 ベテランの森島は体力面を考慮し途中交代になることが多かったが、この試合に限っては何ら問題ない動きを見せていただけにその交代には疑問が浮かんだ。不安。

 そして89分(後半44分)、運命のコーナーキックがやってくる。

 FC東京の右からのコーナーキックは低いボールに中央に選手が走りこむというものだった。危険な位置からのシュートをGK吉田が体に当てる。その跳ね返りが、東京の白い選手の横にこぼれた。その選手は膝の高さのボールを器用にボレーで捉え、ボールは混戦状態にある選手たちの間を抜け、セレッソゴールに突き刺さった。2−2の同点。(帰宅後見たTVによると89分58秒)

 我々から見て向こう側のゴールで起こったその一部始終を、みんな見ていた。白いユニフォームの選手が歓喜の疾走を始め、我らがセレッソ大阪の選手が崩れ落ちる中、私は一縷の希望を託して主審(上川さん)に目を向けた。しかし、オフェンスファールによるゴール取り消しを期待した私の儚い希望は、すぐに無駄なものだということを認識させられた。その次に後ろの時計を見上げたら、電光表示は消えていた。ロスタイム(3分)が始まっていたのだ。
 セレッソサポの集うゴール裏は、驚くほどの静寂に包まれた。回りも私と同様に立ち尽くし、互いに言葉を交わすものさえいなかった。

 ロスタイム3分は、決して短い時間ではない。しかし希望を打ち砕かれた者達が再び残った闘志をかき集め、ゴールを強襲するにはあまりに酷な時間であった。惨事から程なく、終わりを告げる笛が鳴った。

 2005年のJリーグ1部は34試合。だから34試合×90分=3,060分が競技時間である。その最後の3分前、3,057分という時間で痛恨の同点弾を浴びてしまったことになる。

 最終節の12月3日、この日は快晴だった。試合はお互いに攻め合う好ゲームだった。エースのアキ(西澤)の2度のゴールには飛び上がり、声にならない声を張り上げた。一緒に来ていた会社の後輩だけでなく周りにいた何人かの知らない人たちと抱き合い、転げまわって歓喜した。このチームは本当に強くなったんだと確信めいたものを感じてゴール裏で「セレッソ大阪」コールや数々のチャント(応援歌)に声を枯らしていた。優勝が決まった瞬間を予想して目に涙を浮かべ、冬の日差しを浴びて飛んでいくピンクの紙テープの軌跡を思い浮かべていた・・・・・あの悲劇の直前までは。

 天国から地獄にまっさかさま、とはこのことだ。
 私はその場で何も出来ずにいた。拍手も、野次も、「セレッソ大阪!」というコールも何も出来ず、ただタマシイを抜かれたままでそこにいた。頭を抱えていたのか、座り込んでしまったのか、私は何をどう捉えて何をしていたのか思い出せない。

 南側の電光掲示板に映し出された文字は「川崎2−4G大阪」と書いてあった。ついさっきまで我々の手にあったは、最後に2点を取って勝ち越したガンバ吹田の手に渡ってしまった。優勝できない場合は、せめてガンバ以外のチームに優勝して欲しかったが、とことん我々を苛め抜きたい今日の神様は我々の仇敵に優勝杯を授けることにしたようだ。全身に絶望感が染みこんでくる。

 選手が重い足取りを引きずって挨拶に回ってきた。拍手が拍手にならない。
「♪どこまでも行こう 道は険しくとも 希望 夢 そして勝利を セレッソ大阪」
 ゴール裏では敗れた試合などでよく歌われるチャントが弱々しく始まった。
 私はこれを歌いながら泣いたことが二度ある。一度は5年前にステージ優勝を逃した試合、もう一度は2002年の正月に天皇杯の決勝に敗れたときである。どうやらこの歌には私の涙腺を打ち破る魔力があるらしい。ということで、今回もこの歌を口にした瞬間に前例を踏襲することは十二分に予見できることであった。しかし、愚かな私はこのチャントに参加し、「どこまでも行こう」というはじめのフレーズさえ歌いきることができぬまま視界がぐちゃぐちゃになってしまい、歌が歌ではなくなってしまった。
 結局、私が後ろにいた後輩と口をきいたのは、選手がみんなピッチから姿を消した後だったから、地獄に叩き落されてから少なくとも10分以上は誰とも言葉を交わしていないことになる。
バスは行ってしまった。

 「選手交代がなかったら」「カルロスがPKを決めていれば」等の「たら」「れば」話はいくらでもできる。しかしそれはどこのクラブも同じである。ガンバも先週惜しいシュートがポストに嫌われていたし、18クラブの中には明らかな誤審で勝ち点を失ったクラブも少なからずある。しかし、リーグ戦は1年を通しての34試合のトータルなのだから「運の有無」はある程度平準化されるであろうし、それでも文句があるなら運を超越した力を見せ付ける(例:2002年のジュビロ磐田)しかないのだ。我々はそのルールを受け入れることでスポーツに秩序とその存在価値を与えているのだ。
 セレッソ大阪は勝ち点が1つ足りなかった。ガンバ吹田は勝ち点を1つ多く取った。我々は、ただこの現実を受け入れなければならない。

 悔しい。本当に悔しい。自分のことでも、親戚のことでも、彼女のことでもないけど、それでも今野(最後に得点したFC東京の選手)のゴールには本当に心から打ち砕かれたし、涙がポロポロこぼれた。30時間以上経った今もこうしてキーボードを叩きながら悔し涙が止まらない。
 私はセレッソ大阪が大好きだ。今年もたくさん試合を観に行ってゴール裏で声を枯らした。観に行った試合の中には負けた試合も多いし、4年前なんてあまりの弱さにJ2に落とされてしまった。それでも、どんな境遇でも健気に頑張っている「ミスターセレッソ」森島選手を見ると勇気付けられるし、自分も頑張ろうと思える。そんなモリシ(33歳)の現役生活もそう長くないだろう。モリシが引退する前に一度優勝カップを掲げる彼の姿が見たいというのは我々サポーターみんなの願いである。

 最後の最後にこんなドラマが待っていて、私はまだまだ打ちひしがれている。明日会社に行ったら吹田ファンの先輩(等々力から電話があったが、私はボロ泣きの途中で出られるわけがなかった)に会うだろうし、暫くはTVや雑誌で宮本や大黒の姿を眼にしなければならない。次の試合では心無い吹田ファンから強烈な挑発行為があることは目に見えている。我々は、絶え難きを耐え、忍び難きを忍ばなければならない。

 それでも、どんなことがあってもこれだけは信じたい。
これはドラマの終わりじゃなくて、もっと長い、大きなドラマの一節に過ぎないということを。それは負け惜しみではなく、フットボールを愛する者の流儀だからである。


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2017-03-02 17:37:25
吹田とか言ってる時点で負けですね

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