似非方丈記

田吾作の繰言

見てみぬふり?

2012年03月25日 | Weblog
今に始まったことではないが、絆などと云う言葉だけが虚しく独り歩きしている。毎日のように「孤立死」とか「孤独死」、「無縁死」などとまるで他人事のように報道されている。

先日もヤクルトおばさんの機転で一命を救われた男性は、死後数十日経った母の傍で倒れていたという。新聞配達のおじさんも郵便受けに溜まったお宅を、大家さん(行政)と警察に連絡したが、「プライバシー」の尊重を楯に発見が遅れたこともあった。

確かに、個人の人権もプライバシーも尊重されなくてはならない。しかし地域社会ではその壁が「おせっかい」と「わずらわしさ」を生み出し、「見てみぬふり」が横行する。第一通報者や第一発見者は、まるで「容疑者」かのごとき「聞き取り」と称する「調書」作成に協力を余儀なくされる。「触らぬ神に祟りなし」を生む大きな要因だ。

横浜市の地下鉄では、一車両に何席か設けてある「優先席」を「最優先席」に改める予定だという。老人や障害者、妊婦など社会の弱者に対する「思いやり」を示す試みも、「譲ってもらえない」という苦情からの苦肉の策だという。(讀賣)

「優先席」が譲ってもらえないなら「最優先席」を譲ってもらえるようになる根拠は示されていない。見てみぬふりすることの「躊躇」も「恥じらい」もあるはずだ。それを敢えて「みてみぬふり」をする要因を考え直す必要がありはしないか。

当方、久空振りに大都会へ出て、電車に乗った。昼の日中に“よくもこんなに人がいるものだ”とつくづく感じたところだが、目的地へ到着するまでの数分から数十分、時には数時間の「手持ち無沙汰」が件の「優先席」に座っている元凶ではないのだろうか。

つり革に手をやれば電車の揺れで隣の人に時として身体がぶつかる。つり革から手を離せば、いつ何時「チカン」だといって貶められるか分かったものではない。とりあえず週刊誌や新聞、携帯電話、その他のモバイルで疑われないように、手持ち無沙汰と気恥ずかしさの「アリバイ証明」をしておく必要がある。

優先席に黙って下を向き、座って両手を出して新聞読んだりモバイルを弄っていれば「安全が確保」される。目の前に妊婦や子ども、老人や障害者が来ても「気付かない」ふりしていればいいのだ。

警察に長時間、「聞き取り」をされないように、自己保全を確保すればいいのだ・・・

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