音と言葉の中間領域

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手垢のついたモーツァルト

2017-02-12 21:52:53 | クラシック音楽の話題
コロリオフというピアニスト,いわゆるスター街道からは外れるが,相当な実力者である.もういろんなところで書き尽くされているけど,作曲家リゲティが「無人島の1枚」として選んだのが,コロリオフの弾くバッハ《フーガの技法》だったとか.人はかのグールドの後継とも評する.
ぼくも彼のバッハのいくつかを所有していて,磨き抜かれた技巧と折り目正しい流儀がバッハの求道的な姿を浮かび上がらせていて見事だと思う.普段あまりバッハを聴かないので愛聴盤になるほどの愛着は持ち合わせていないのが残念だが,バッハがお好きな方にとってはかけがえのない録音なのだろう.
そのコロリオフだが,モーツァルトを弾いた新盤を聴かないままだったので,今回聴いてみた.これまでと同様,録音の良いTACETレーベルのCD(TACET 226)である.
なんとなくであるが,聴く前から,こういう演奏になるんじゃないかな…という予想があって,それは“手垢にまみれていないモーツァルト”への期待感からきていたのだが,はたしてその期待どおりのモーツァルトが鳴り響いた.色で例えるなら「白」や「透明」が最もしっくりくるイメージだ.バッハでいくらか感じたような厳格さというのは一切なく,どこまでも柔らかくしなやかなモーツァルト.コロリオフのタッチは音価が均質に磨き抜かれ,アーティキュレーションは精妙を極め,テンポや造形は吟味され尽くされている.
文字通り“手垢にまみれていないモーツァルト”が目の前に現れた.

そこで気がついた.
こういうモーツァルトがぼくは好きなのかな…,というとちょっと違うような気がするのだ.
コロリオフは“手垢にまみれない”という意味では完璧なモーツァルトを弾いている.そこに感心はすれど,どうしても心がざわめかないのだ.モーツァルトほどのブットンダオンガクが平静なもの・常識的なものに思えてしまうのは,ぼく自身の修行が足りぬ,ということなのかしら? モーツァルトの愉悦,そして魂の飛翔はどこへ行ったのでしょう?
愉悦とかなんとか言っている時点でそれこそ固定観念じゃないかと言われることも承知しているが,ここでぼくが扱いたいのはそういう言葉にできる範疇を超えて,もっと魂に触れるような領域のこと.

ファジル・サイの新盤も聴いてみた(WARNER 2564694206).
素直に,ぼくが好きなのは「これだ」と思った.サイは作曲者の魂に近づこうとギリギリの勝負を仕掛けている.デビュー当時の彼のレコーディング,面白かったが姿かたちが悪かった.この新盤は,物凄い破壊力のあるタッチ,目まぐるしく変化する色合い,飛翔する歌心,戯れるようなパッセージがそのまま熟れて,見事に昇華された形となって,ついにサイとモーツァルトの境界線がなくなったんだと感じた.モーツァルトの音楽の焦がれるような美しさが胸に突き刺さってくる!
サイのモーツァルトには“手垢”がいっぱいついている.でもそれは,つまるところ“愛”と“涙”の証であって,ぼくには必要なものだった.
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