音と言葉の中間領域

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《フルトヴェングラー詣で》第40回

2016-09-18 23:04:30 | フルトヴェングラー詣で
♯1938年3月15日〔スタジオ録音〕
♯ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

ワーグナー:《パルジファル》第1幕への前奏曲と「聖金曜日の音楽」

ワーグナーが続く.今度は《パルジファル》だ.
ワーグナーはフルトヴェングラーにとって主要なレパートリーであり,彼の作曲家への心酔ぶりは遺された録音遺産や著述から確かめられる.そのことからして,ワーグナーの究極的な作品である《パルジファル》の,フルトヴェングラーによる録音が,SPの当録音と1951年アレクサンドリアでのライブ録音(「聖金曜日の音楽」のみ)しか遺されていないことは少々意外ではある.
しかし演奏は全く非の打ちどころのないものである.
まず「前奏曲」を聴いてみよう.厳粛な音の佇まいからして一気に《パルジファル》の世界に引き込まれる.冒頭,楽器ごとの音の隔たり(楽器固有の音色)は渋い色調に塗りつぶされ,現実的な認識が薄れていく.ここでのフルトヴェングラーの心は平静そのものであり,曲想を抉るような素振りは全くない.メロディー・ラインの起伏は“あるべき大きさ”に収まり,ひとつひとつの音は慈しむように“あるべき場所”に置かれていく.微妙な和声の進行にはほのかな温度が宿り,精神的な意味での“ふるさと”あるいは冥界からの声を聴くような,温かく,幽玄でなつかしい響きが立ち込めてくる.
これが《パルジファル》に対する彼の態度の一端であろう.それはつまり《トリスタンとイゾルデ》や《指環》の彼が,全身のエネルギーを燃焼させながらドラマを展開したのとは全く違うアプローチと言っていいと思う.作品自体の個性の違いももちろんあるだろうが,やはりフルトヴェングラー自身がかなり意識的に臨み方を変えているように思われるがいかがだろうか? 1951年のスカラ座での録音が遺されていると発表されたこともあった.これは現在では誤情報のようであるが,我々の願いはフルトヴェングラーの《パルジファル》全曲を聴いてみることだ.
「聖金曜日の音楽」でも選び抜かれた音色が物を言っている.切れ目なく纏綿と紡がれていく音,その様相は刻一刻と移り変わる.あるときは清澄で遠い彼方から響いてくるようであり,またあるときは厚く深々とした実在感溢れる響きが現出する.ひそやかな弱音にさえ温かい血が通っているように感じるのは,フルトヴェングラーの“こころ”が誰よりも温かい証拠だろう.
CDはここでも新星堂〔SGR-7180~82〕を第一に推したい.和声の微妙さが最も鮮明に感得できる音になっているからだ.
なお「聖金曜日の音楽」の最終面には別テイクが存在(米RCA・豪HMV)しており,NAXOS〔8.110879〕はこの別テイクを使用した唯一のCD復刻盤となる.
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