日曜美術館でデュフィを取り上げているのを見て、その色彩の豊かさと踊るようなラインで構築された美しく幸せ感に満ちた絵に魅了されて現在あべのハルカス美術館で開かれているデュフィ展を見に行ってきました。
展示は初期の作品からあらゆる変遷を経て、自分の絵画を作り上げるまでをたっぷり展示してあり見ごたえがあると同時に芸術にすべてをささげたデュフィの真摯な姿勢とエネルギーに感銘を受けました。
1877年フランス北西部の街、ル・アーブル(美しい港と言う意味を持つ)に生まれたデュフィは、貧しいながらも音楽に造詣の深い両親のもとで9人兄弟の長男として育ちます。
経済的理由により14歳で学業を断念して働きはじめますが、18歳で美術学校の夜学に通い画家としての道を歩み始めます。
初期の作品は、普通の塗り込められた暗い油絵で後の軽やかな作風とは大違いです。
夕暮れ時のルアーブルの港(1900年)
その後、マティスのフォビズム、或いはブラック、そしてセザンヌ、キュビズムなどに影響を受けその時々によって作風が変わっていくのですが、その様を見ていると素直なこだわりのないみずみずしい感性の持ち主だったのではないか?などと感じてしまうのです。
レスタックの木々(1908年)
庭園(1909年ー1912年)
そして彼はそのきらめくような才能と好奇心あふれる性質により、アポリネールの詩集の挿絵のための木版画やファッションデザイナー ポール.ポワレとの出会いによるテキスタイルデザインの制作、そして陶芸にまでかかわるようになって行きます。
それらはすべて展示されていてとても興味深く、特にテキスタイルにおいては今でもその生地を用いてワンピースやドレスなどを作って着てみたいと思わせられるくらい斬新で美しいものでした。
自分がこれまでに経験してきたすべてを集約し自由に躍動した作品となっていく様子はとても楽しかったです。
絵画においてはだんだんにフォビズムやキュビズムの影響が薄れ、曲線や円などの記号的図形が繰り返され、線描と関係なく彩色されるようになり、色彩と線がお互いに自律した表現になっていきデュフィ独特の軽やかでリズム感のある作風となっていきます。
ルアーブルの氷上の祭り(1925年)
突堤ーニースの散歩道(1926年)
それらの観る人を歓びに導く作品群の中でも最も心を捉えられた作品は、219.5×267.3㎝の大きな画面いっぱいに描かれた『馬に乗ったケスラー一家』でした。
イギリスの富豪ケスラー夫妻とその娘5人が馬にまたがる様子を描いた家族肖像画は、画面からたとえようもない芸術的香気、あらゆる豊穣な感情、包み込むようなエネルギーなど言葉にできないほどの気というかオーラがあふれ出ていて見るものを癒しあらゆるものから解放してくれる素晴らしい絵でした。
沢山の人がその絵の前で佇んでいる様子を見ても、みんながそのように感じているのが見て取れるのでした。
馬に乗ったケスラー一家(1932年)
ケスラー家ではこの絵を階段の踊り場の壁に飾っていたようです。うらやましい限りですね。
そして、やはりみんなの注目を集めていたパリの万国博覧会の巨大な壁画を縮小した(それでもかなり大きく長い絵でした)『電気の精』も見ごたえがありました。
上部には古代から当時にいたる技術の発展が、下部にはそれに寄与した100人以上の学者たちが右から左へ編年体で描かれています。
デュフィの頭の中でどのようにしてこの絵が作られたのか、想像することもできない一見バラバラのようなのに見事にバランスの取れた大きくも夢あふれる作品でした。
電気の精の一部(1952年ー1953年)
電気の精の一部
YouTubeに2分くらいの動画がありました。
晩年この壁画が完成して間もなく、進行性多発関節炎に見舞われその上、第二次世界大戦と言う巨大な恐ろしい状況の中でもデュフィは音楽などをモチーフにそんな苦悩をみじんも感じさせない明るい光と色彩にあふれた作品を描き続けます。
コンサート(1948年)
ヴァイオリンのある静物(1952年)
辛い状況のうちに最後に到達した黒と言う色を用いた作品の中にも、抒情性のあるみずみずしい豊かさを感じて心打たれました。
黒い貨物船と虹(1949年)
『社会や生活の明るい面ばかりを描くデュフィは「生きる喜び」を表現するものと評され作品の内奥にある本質が見過ごされ芸術家としての真の評価が軽く見られてきたことも事実』と図録に書いてありました。
アポリネールをして「不遇にして偉大なる画家」と言わしめたデュフィの真の芸術性を色んな方に目にしていただきたいと思った今回の展示会でした。
(画像は、購入した図録をデジカメで撮ったものですので色合いなどが悪く申し訳ありません)
展示は初期の作品からあらゆる変遷を経て、自分の絵画を作り上げるまでをたっぷり展示してあり見ごたえがあると同時に芸術にすべてをささげたデュフィの真摯な姿勢とエネルギーに感銘を受けました。
1877年フランス北西部の街、ル・アーブル(美しい港と言う意味を持つ)に生まれたデュフィは、貧しいながらも音楽に造詣の深い両親のもとで9人兄弟の長男として育ちます。
経済的理由により14歳で学業を断念して働きはじめますが、18歳で美術学校の夜学に通い画家としての道を歩み始めます。
初期の作品は、普通の塗り込められた暗い油絵で後の軽やかな作風とは大違いです。
夕暮れ時のルアーブルの港(1900年)
その後、マティスのフォビズム、或いはブラック、そしてセザンヌ、キュビズムなどに影響を受けその時々によって作風が変わっていくのですが、その様を見ていると素直なこだわりのないみずみずしい感性の持ち主だったのではないか?などと感じてしまうのです。
レスタックの木々(1908年)
庭園(1909年ー1912年)
そして彼はそのきらめくような才能と好奇心あふれる性質により、アポリネールの詩集の挿絵のための木版画やファッションデザイナー ポール.ポワレとの出会いによるテキスタイルデザインの制作、そして陶芸にまでかかわるようになって行きます。
それらはすべて展示されていてとても興味深く、特にテキスタイルにおいては今でもその生地を用いてワンピースやドレスなどを作って着てみたいと思わせられるくらい斬新で美しいものでした。
自分がこれまでに経験してきたすべてを集約し自由に躍動した作品となっていく様子はとても楽しかったです。
絵画においてはだんだんにフォビズムやキュビズムの影響が薄れ、曲線や円などの記号的図形が繰り返され、線描と関係なく彩色されるようになり、色彩と線がお互いに自律した表現になっていきデュフィ独特の軽やかでリズム感のある作風となっていきます。
ルアーブルの氷上の祭り(1925年)
突堤ーニースの散歩道(1926年)
それらの観る人を歓びに導く作品群の中でも最も心を捉えられた作品は、219.5×267.3㎝の大きな画面いっぱいに描かれた『馬に乗ったケスラー一家』でした。
イギリスの富豪ケスラー夫妻とその娘5人が馬にまたがる様子を描いた家族肖像画は、画面からたとえようもない芸術的香気、あらゆる豊穣な感情、包み込むようなエネルギーなど言葉にできないほどの気というかオーラがあふれ出ていて見るものを癒しあらゆるものから解放してくれる素晴らしい絵でした。
沢山の人がその絵の前で佇んでいる様子を見ても、みんながそのように感じているのが見て取れるのでした。
馬に乗ったケスラー一家(1932年)
ケスラー家ではこの絵を階段の踊り場の壁に飾っていたようです。うらやましい限りですね。
そして、やはりみんなの注目を集めていたパリの万国博覧会の巨大な壁画を縮小した(それでもかなり大きく長い絵でした)『電気の精』も見ごたえがありました。
上部には古代から当時にいたる技術の発展が、下部にはそれに寄与した100人以上の学者たちが右から左へ編年体で描かれています。
デュフィの頭の中でどのようにしてこの絵が作られたのか、想像することもできない一見バラバラのようなのに見事にバランスの取れた大きくも夢あふれる作品でした。
電気の精の一部(1952年ー1953年)
電気の精の一部
YouTubeに2分くらいの動画がありました。
晩年この壁画が完成して間もなく、進行性多発関節炎に見舞われその上、第二次世界大戦と言う巨大な恐ろしい状況の中でもデュフィは音楽などをモチーフにそんな苦悩をみじんも感じさせない明るい光と色彩にあふれた作品を描き続けます。
コンサート(1948年)
ヴァイオリンのある静物(1952年)
辛い状況のうちに最後に到達した黒と言う色を用いた作品の中にも、抒情性のあるみずみずしい豊かさを感じて心打たれました。
黒い貨物船と虹(1949年)
『社会や生活の明るい面ばかりを描くデュフィは「生きる喜び」を表現するものと評され作品の内奥にある本質が見過ごされ芸術家としての真の評価が軽く見られてきたことも事実』と図録に書いてありました。
アポリネールをして「不遇にして偉大なる画家」と言わしめたデュフィの真の芸術性を色んな方に目にしていただきたいと思った今回の展示会でした。
(画像は、購入した図録をデジカメで撮ったものですので色合いなどが悪く申し訳ありません)