直列☆ちょこれいつ

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ギフテッドの特徴について

2015年07月27日 | ちょこのひとかけ


ギフテッドとは何か、と言えば、説明は簡単。
『真理を探求したくてたまらない人』のことです。
自分が望むと、望まないとに関わらず。

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ギフテッドがどういう人かと言えば、
オンラインゲームのキャラメイキングがわかりやすいでしょう。

まず、人間は生まれる前に、
神様から好きに振れるステータスポイントをすこしもらいます。

普通の人は「社会性」とか「社交性」とか「生活力」とかの、
多数のステータスにバランスよくポイントを振りますが、
ギフテッドの人はそのポイントを、「知性」、「閃き」、「好奇心」など、
知的関連ステータスにほぼ全部振って、生まれてきます。

生まれたあとも、他人が「社会性」とか「社交性」とか「生活力」とかの、
多数のステータスにバランスよくポイントを振るところを
ギフテッドの人間は、生まれる前と変わらず、
「知性」、「閃き」、「好奇心」など、知的関連ステータスにばかりかたよって、
ほぼ全部ポイントを振り続けます。

これをRPGでは極振り(ごくふり)と呼んだりします。
※極(ごく)……程度がものすごいこと。

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ギフテッドには、ゲーム的に言えば、特徴的なスキルがひとつ、備わっています。
自分が使おうと思わなくても勝手に発動するスキル、いわゆるパッシブスキルで、
『真理の目』とでも呼べるものです。

ギフテッドの人は、普通の人よりも澄んだ目を持っています。
普通の人が『常識』の迷彩でごまかされて見えない物から、
『常識』をはがして物を見ることができます。
というよりも、まず、『常識』を疑い、その裏にある真実や本質を見よう、
考えようとしてしまうのです。
……自分が望むと、望まないとに関わらず。


たとえば、あなたが、ちいさなこどもに算数を教えるとしましょう。
基礎の基礎、『1+1=2』を教えようとして、りんごを二つ目の前に出し、
「ここに一個のりんごがあって、こっちにもりんごが一個。
まとめたら二個になるよね。これを、1+1は2っていうわけ」
などと言います。
すると、そのこどもはどこかに走り出し、手に泥団子を持ってきて言うわけです。
「右手に一個のどろだんご。左手に一個のどろだんご。
まとめたら、これも一個のどろだんごになるよ?」
と。

これに対し、あなたはどう思うでしょうか。

『揚げ足とってんじゃねー』と思ったり、
『そんなもんどうでもいいだろが。無視して意味を理解しろ』と思ったり、
『質量60gと質量30gを足して質量90gになってんじゃねーか。
おかしいとこなんてないだろ』と思ったりするかもしれません。

でも一番重要なのは、そのこどもは
『なぜ、そんなことを言ったのか』
なのです。

ギフテッドは、その質問を本気で、まっすぐな意味でしています。
揚げ足を取っているわけでも、瑣末なことにこだわって本質を見失っているわけでも、
1+1の概念をつかめないわけでもないのです。

「1個と1個を足したら2個になるから1+1=2なのに、
泥団子は1個と1個を足したら1個になるよ? それでも、1+1=2でいいの?」
という、1+1の一般的な概念を(本人が納得しているか
していないかはおいておいて)即座に理解した上で、
その概念がほころんで見える特殊例に気がついたから、
そのことを訊ねているのです。

それに対し、
「右の団子は60g、左の団子は30gでしょ? 
合わせたら90gで、2個分の重さになってるよね」
と答えるのは間違っています。

60gと30gを足したなら、数式は 60+30=90 でしょう。
決して 1+1=2 ではありません。
それとも、(60+30=90)=(1+1=2)としていいのでしょうか?
質量60gを1個とみなしているのに、質量30gを1個とみなして、
それを足したら2個としてしまって、本当にいいのでしょうか?

質量60gを1個とみなし、質量30gも1個とみなすのなら、
あわせた質量90gも、1個とみなしていいのではないでしょうか?
それがいけないというのなら、なぜいけないのでしょうか?

本来、質量60gと質量30gの泥団子を足した式は、
1+1=2 の例として出されるものではありません。

60+30=90 という泥団子の式は、
計算式として見るのではなく、等式として見て、
左辺を足して平均した上で変形すれば
45+45=90 とできます。

各数の比率は 45:45:90=1:1:2 ですから、
式の全部を約分して式を直してようやく、
1+1=2 とすることができます。

でもこれは、まともな計算ではなく、右辺の結果をもとに逆算して
左辺の数式を書き直して結果を合わせるという、
とても乱暴なことをしているというのがわかりますか?

結論ありきで実験をして、都合のいいデータだけを拾って
望むままに結論を書く学者のいんちき論文と
同じことをしているというのが理解できますか?

泥団子の足し算は数式上は 1+1=2 と変形できますが、
実際上の式は 60+30=90 でしかありません。
それをまともに説明もせず、
60を1と丸めて、30も1と丸めたのに、
それらを合わせた答えの90だけは1と丸めずに
2とするなんて乱暴なことが、通る道理がありません。

それと同様に、 1+1=2 としてしまうことは、
本当はとても乱暴なことなのではないでしょうか?
『1+1=2』という数式は普遍的なものでなく、
特定の条件下でしか成立させられない特殊な式なのではないでしょうか?
もしかしたらすべてを統括できる、本当の式があるのではないでしょうか?

『1+1=2』なんて言うよりも、『A+B=C (ただし、A=Bとする)』
としたほうがわかりやすく正しい式なのではないでしょうか。

そもそも、『足す』って何でしょう?
『1+1』の、『1』って何ですか?
足して『2』になるとはどういうことなのでしょうか?
定義や概念はどうなっているのですか?

たとえば4999粒のごはんをよそったお椀と
5001粒のごはんをよそったお椀を並べたら
1+1=2 で2杯のごはんになるのに、
ごはんを片方に乗せかえれば
10000粒のごはん1杯と、0粒のごはん1杯になります。
ごはんの入っていないおわんはごはんと数えないのではないでしょうか。
このときも数式は 1+1=2 でほんとにいいのですか?

また、たとえば
ある船に10人の奴隷と、別の船に11人の奴隷がいたとしましょう。
合わせたら何人でしょうか?
見たら、その奴隷のうち、9人と10人が死んでいました。
奴隷の合計は何人でしょうか?
死人も1人と数えるのでしょうか?
死んでいる人は1人でしょうか?
死んで働けない人は、1人の奴隷なのでしょうか?


別の例を出しましょう。
あるクラスには、0.5人の人間が2人いました。
別のクラスにも、0.5人の人間が2人いました。
この二つのクラスの合計人数は、何人でしょうか。

まず、ひとつのクラスの人数を出します。
0.5+0.5=1
なので、ひとつのクラスの人数は1とまとめられます。
これがふたつぶんなので、あるクラス分の人数の合計1と、
別のクラス分の人数の合計1を足せば答えが出せるはずです。

ということでまとめると、式は以下のようになります。

1+1=2

数式で見るとおかしなところはありません。
でも、中身を考えるととてもおかしいということに気づくでしょうか?

0.5人の人間が4人いて、合計は2人になるのでしょうか?
そもそも0.5人の人間って、人間でしょうか?

それを人間だと言えたら、
0.5人で1人の人間の戸籍があるのですから、
0.5人の人間が4人いたら、合計は2人じゃなくて4人じゃないのでしょうか?

人はどこまで『人』でしょうか?
『1人』はどこまで『1人』でしょうか?

『1+1=2』なんて、すごくきれいで正しく見えますが、
これは本当に真理なのでしょうか?
0.5+0.5=1 ですが、人間の場合には成り立たなかったのと同じように、
泥団子や不定形のものにはあてはまらないのではないでしょうか?

本当は、

1+1=2 (ただし、特定の場合に限る)

というような但し書きが必要な、未完成な式なのではないでしょうか?

泥団子を持ってきたこどもが、『1+1=2』について訊いたのは
こういう概念をすべてひっくるめた内容です。
あなたは、理解できますか?
それでも本当に『1+1=2』だと言ってしまっていいのですか?

もちろん、『それでいい』と言う人は多いでしょう。
『1+1=2』。計算できるし、それが当たり前です。
中身を考える必要なんてないと言うかもしれません。
なぜなら、それが『常識』で『あたりまえ』だから。

昔の人は思いました。
『りんごが下に落ちるのは当たり前。
別に理由もないし、考える意味もなく、それが常識だ』
と。

でも当たり前をはがして考えた末、
『重力』という概念にたどり着いた人がいました。

人が『常識』、『あたりまえ』として見もしない、
考えもしないことの裏には、もしかしたらとても大事なものが
隠されているのかもしれないのです。

その、『常識の裏にある隠されたもの』を発見できる目が、
ギフテッド特有の、『真理の目』です。
これこそが、ギフテッドが神様から『与えられたもの』(ギフテッド)なのです。

でも、それはギフテットが望んでその目を発動させているのではありません。
今ある常識や定理のほころびが、「見つけてくれ、考えてくれ」と
向こうからギフテッドにささやきかけてくるのです。

繰り返して言いますが、このパッシブスキル『真理の目』は、
ギフテッドであれば勝手にセットされて、
スキル発動の条件が揃った際には、瞬間的に勝手に発動されます。
本人が使うのではなく、神様が強制的に使わせると言ってもいいかもしれません。
『真理の目』が発動して、頭が動き始めてしまうと、
もうその考える行為をとめることはほぼできません。

しかも、ギフトのレベルが低いうちは、常識の裏を見ることができません。
『常識』が本当に常識なのかを疑うことしかできません。
その代表的な言葉が『なぜ』です。

たとえば、
『なぜ、仕事が終わってるのに無駄に会社に残っていないといけないのか』
『なぜ、終業後の飲み会は仕事だというのに、時間給が出ないのか』
『なぜ、女性差別を訴える人が、女性優遇の差別を見ても黙っているのか』
『なぜ、警察はパチンコを無視するのか』
『こどもを生めない人も、こどもも生まない人もいるのに、
なぜ、結婚は男女でしかしてはいけないのか。
子作りが結婚のメインでもないのに、なぜ』
『会社はリストラするといって、歯車である下っ端ばかりを切るけど、
失敗したのは頭である上なのに、なぜ、上を切りもせず金も減らさず
のうのうとのさばらせておけるのか』
といったぐあいです。

基本的に、ギフテッドは合理的で、正義を愛します。
なぜなら、『常識』や『あたりまえ』は強者の理論であることが多いからです。

『会社に入ったら、新入りは旧入りが全員帰るのを
見送ってから帰るのが当たり前』
『金は出ないけど、始業時間の2時間前に会社に入っているのが常識』
『残業代はつかないけど、毎日3時間は残業するのが当たり前』
『女性は偉いから、差別されるのもけなされるのも許せない。
でも男性をけなすのは当然。女性が優遇されるのは差別じゃない。どんどん差別して』
といったようなものは、社会の常識としてあたりまえに蔓延しています。
でも上記の『常識』、『あたりまえ』は強者が作ったものであり、
真理でも正義でもありません。

まず常識を疑い、常識の裏を見ようとするギフテッドにとっては、
そんな常識や当たり前はとても許せないものです。
だから、強者の理論に気付いたギフテッドは、それはおかしいと声を上げます。
偽物の常識やあたりまえという虚飾の裏にある真理を手に入れたいと思うからです。

そのことが影響して、たとえば学生時代であれば、
ギフテッドは授業中でも他人の間違いを指摘します。
先生にだろうと行います。
なぜなら、『間違い』は『真理』ではないからです。
ギフテッドは真理に近づきたい人間なのですから、おかしな部分は排除しようとします。

でもそれは、常識にひたって、周りを見ることのない人にとっては
ものすごくどうでもいいことに思えるでしょう。
むしろ、言われては迷惑に思う人も少なからずいるはずです。

なんでなんで期のこどもがうっとうしいように、
レベルの低いギフテッドは周りからうっとうしく見られることもあります。
また、意味のないところに無駄にこだわって、
わざわざ物事を複雑に考える、頭のおかしいようなものに思えるかもしれません。

でも、違うのです。
ギフテッドは、今ある常識やあたりまえのほころびを見つけ、
そこをほぐして隙間を空けて、
その裏に隠されたものを見るのがおそらく神様から与えられた役目なのです。


この、常識にとらわれない、というのも
ギフテッドの本質にとても関わってきます。
たとえば、ギフテッドの考え方です。

普通の人は何かを考えるとき、まず、枠を作り、その枠の中で理論を立てて、
考えている『それ』を一方向から突き詰めて考えようとしていきます。
でもギフテッドは、考えている『それ』を『それ』だけでまとめるのではなく、
まったく別の分野の、まったく関係ないように見える分野から
別の考えをつなげて形にしていきます。

普通の人の考えが、レンガを積み上げて高みを目指すものだとしたら、
ギフテッドの人の考えは、何本もの線をつなげて横線をかけ
どんどんと広げていろんなものを絡めとっていく、
蜘蛛の巣のようなものです。

たとえば、新しく、柔軟な金属を開発することになったとしましょう。
普通の人は、今までの金属を調べ、これまでの合金の特徴から
利用できそうなものをひとつひとつ調べていこうとするかもしれません。

でもギフテッドなら、『金属』という枠を考えずに、
たとえば納豆が伸びることや蜘蛛が液体を噴出してから固めて糸にすること、
海綿体がふかふかすることなどの
金属とはまったく違う分野を元に、伸びる柔らか金属糸といった、
普通の人から見れば、『なにがそうなってそう考えるにいたったのか』と
疑問に思ってしまうようなものを考え出してくるかもしれません。

この連想力や発想力、まったく関係なく見えるものを関連させて
考えられるような思考のしかた、
『常識』の枠を超えて、自由に意識をつなげられるのも、
ギフテッドの特徴です。


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あらためて述べますが、IQが高ければギフテッド、では決してありません。
勉強ができればギフテッド、でも決してありません。

真理や、向こうから呼びかけてくる事象のほころびが気になって、
その気になったことの理由をとことんまで明らかにしたいという気概、
変な好奇心、おかしいほどの集中力を持っていて、
覚えることより考えることのほうを重要視するのがギフテッドです。

考えるのに必要だからIQが高くなるし、
必要な部分の知識は考える途中で副次的に手に入っています。
知識を蓄えているだけの人間、クイズに答えるために知識を集めるだけの人間、
IQが高いだけの人間はギフテッドではありません。
自分の頭で考えるための道具として知識を蓄え、
それを使って考えるからIQが高くなっているのが、ギフテッドなのです。

たとえば、かちこちと鳴りながら動いている時計が突然止まって、
ねじを巻いても動かなくなったとします。
『どこかが壊れて動かなくなったんだろう』と思うのが普通の人で、
『改めて考えると、正常なときの時計はなにがどうなって正常で、
どう動作して、今は正常なときとなにがどう違って動かなくなっているんだろう。
……知りたい! 中を見てみたい。動作の原理を知りたい!』
と思うのがギフテッドです。
こういうギフテッドは、能力と技術が伴わないうちは、
機械などを分解して壊してしまいます。

でも壊したくて壊しているのではなく、
中を見て真理を知ろうとした結果、
直せなくなって時計が完全に壊れているだけです。


それ以外にも、たとえば絵画のギフテッドであれば、
『世界は立体にあふれているのに、絵にしたら立体性が失われてしまう。
これを表現するにはどうしたらいいんだろう』
とふと思いついて、二次元に三次元を思わせる
自分だけの画法を考えるかもしれません。

『世界には時間が流れているのに、絵にしたら時間の連続性が失われてしまう。
これをどうにか表現できないだろうか』
と思って、絵に時間を表現する、
なにかあたらしい技法を編み出すかもしれません。

『絵は止まっているのが当たり前』
『絵には時間がないのが常識』
でもその常識は、これまでの常識です。
その常識を突き破れる方法は、なにかあるかもしれません。

今までは一方向からしか見えなかった人物を、
正面と横顔を同時に描いてみることをしたピカソも、
絵画のギフテッドだったのかもしれません。


ほかでは、劇作家として愛され続けているシェークスピアも。
シェークスピアはハムレットで、
「生きるべきか死すべきか、それが問題だ!」
というようなセリフを登場人物に言わせます。
この言葉は、今聞いてもまったくおもしろみがないかもしれません。

でも、昔の人にとっては、『死は恐怖』だったのです。
歴史上も、ずっと人間は不老不死を求めてきました。
死にたくない、生きたい。それが当たり前で常識でした。

けれど、シェークスピアはその当たり前をはがして、
本当は人間の中にあった、「死にたい」という望み、
場合によっては人間は死を求めてしまうという本性、真理を
簡潔な言葉ではっきりと示したのです。
だから、評価されているのです。

納得できないなら、別の例を。

たとえば、憲法でも人間には『生きる権利』が認められています。
……では、『死ぬ権利』は?

『死ぬ権利』を与えられず『生きる権利』ばかり与えられるのは、
『生きる義務』を押し付けられているのではないでしょうか?
仕事に疲れたときに「ちょっと一杯」とお酒をひっかけるように、
人生に疲れたときに「ちょっと死んでくか」で
死ねる場所が保障されていてもいいのではないでしょうか?

なぜ、『生きる権利』ばかり認められて、
なぜ、『死ぬ権利』が認められないのですか?

実際に死ぬ権利が認められたとしても、
おそらくほとんどの人が、死ぬ前になって悩むはずです。
『あんなに死にたかったのに、今は死にたくないとも思う。
ぼくは本当に死にたかったのか? 「よく生きる」ことができないから
死にたいと思っているだけじゃないのか?
生きられるなら、本当は生きたいんじゃないか?』

こんな自問を簡潔にまとめると、こうなります。
「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ!」

この言葉は、人間の奥底にある、生き死にの真理に触れているのです。

それを変形すれば、こうなります。
「われに自由を! さもなくば死を!」

これはペイトリックヘンリーの言葉ですが、この二つを要約すれば、
『「よく生きる」ことができないのなら、死んだほうがマシ』
です。
でもこれでは文学性もなにもない、身も蓋もない言葉です。

この『よく生きる』を英語化したのが『well-being』。
ただ『死んでいない』状態でなく、生き生きと『よく生きている』状態です。
WHOのスローガンのようなものですが、
これは簡潔でとてもよい言葉だと思います。

かつての時代からこれほどまでに愛されているシェークスピアは、
文学のギフテッドだったのかもしれません。

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このように、ギフテッドの人間は、
何かを考える魂がむき出しである、とでも言えるくらいに、
良くも悪くもsensitiveの意味で、敏感なのです。
(日本語感覚のnaive ナイーブではなく、という意味で)

この敏感さは変なところでも片鱗を見せていて、ギフテッドの人は
他の人にはなんでもない音がうるさく思えたり、
他の人にはなんでもない光がまぶしく見えたり、
他の人にはなんでもない味がまずく感じたり、
他の人にはなんでもない触感が不愉快に感じたり、
他の人にはなんでもない臭いがたえがたく感じたり、
他の人にはなんでもない場面が、とんでもなく憎らしく思ったりします。

その感情や情動を、ギフテッドでない人間が理解しようとしても、
大部分は無理です。
非ギフテッドはギフテッドの人が意味のわからないところで
怒り出すように感じるかもしれませんが、
ギフテッドの人間の感情や情動にはきちんと原因があります。
それを、非ギフテッドの人間は理解できないだけなのです。

たとえば言葉のギフテッドの人間は、他人が別の他人に対して
「死ね」とか「最悪」、「最低」とか言っているのを聞いて
怒り出すかもしれません。
自分に言われたわけでもないのに、そんな言葉を聞いて『なぜ怒るのか』。
その理由に想像がつくでしょうか?

簡単に言えば、ギフテッドはその単語が持つ真理を知っているから、
怒るのです。

たとえば「死ね」というのは、「死ぬ」の命令形です。
死ぬというのはそれまで生きてきた歴史がそこで止まって、
一秒ごとにその人が過去に行ってしまう行為です。
それは無慈悲にも基本的に神様だけが行うようなことで、
人間が唯一、自分の人生の中で神様に近づける行為でもあります。
それを、他人が命令していいわけがないでしょう。
自分の命は自分のものです。
それを捨てろと、失ってしまえと、なぜ他人が言えるのでしょうか。
傲慢にもほどがあるでしょう。

「最低」「最悪」もそうです。
どんなことに対して、なにが「最低」「最悪」と言えるのでしょうか。

たとえば町を歩いている女性が、頭に鳥の糞を受けて、言ったとします。
「うわ、最低! 最悪~」
ではその人を、かつてのヨーロッパのように捕まえて魔女呼ばわりし、
拷問して生きたまま火にかけたとしたら、どうなるのでしょうか。
その人は、
「生きたままの火あぶりなんて、鳥の糞を頭に受けることに比べたら
どうってことない」
と言うのでしょうか?
「鳥の糞を受けるという最低最悪のことを経験したのだから、
生きたまま火に焼かれることなど最低最悪ではない」
と言うでしょうか?

たぶん、そんなことはないでしょう。
頭の中で考えるだけでも、歴史を見返すだけでも、
鳥の糞を頭に受けるより悪いことなどいくらだって思い至ります。
なのに、なぜ、「最低」「最悪」という強い言葉を、
そんなくだらないことに対して簡単に使えてしまうのでしょうか。
その言葉を軽々しく口に出したこと自体、
言葉に対して、事象に対して、悲惨な歴史に対しての冒涜です。
おこがましいにもほどがあります。

ほかにもたとえば、婚約の挨拶でありがちな場面で、
「お父さん、娘さんをぼくにください」というようなセリフも。
その言葉の真理は、「娘さんには主体性はなく、ただの物のような扱いです。
その所有者のお父さん。娘さんの所有権をぼくにゆずってください」
というようなものです。

そんな意味には使っていないとか、発言者の意思は関係ありません。
その言葉自体にそういう意味があるのですから、
別の意味で使っているというのなら、別の言葉を使うべきです。
「お父さん、娘さんをぼくにください」なんて言われたら、
言葉の意味がわかって、心あるお父さんなら、
「うちの娘は物じゃねえ! 奴隷の譲り渡しとでも考えてんのか!」
と怒り出すことでしょう。

それでも意味がわからないなら、別の例を出しましょう。
たとえばあなたが他人に、
「おまえ風呂入ってるのかよ。洗ってない犬のにおいがすんだよ。
おなじ部屋にいるだけで息ができなくなるから
中に入らずに外にいろよ」
と言われたとします。
あなたはその言葉に対し、
「わあ、うれしい!」
などと喜べますか?

発言者はその言葉を、
「あなたは輝いています。あなたが大好きです!」
という意味で発言しました。
その意味は、その言葉で伝わりましたか?

そういう意味を持たせたいなら、
そういう言葉を使ってくれと思わないでしょうか?

言葉には、言葉自体が持つもともとの意味があります。
たとえば『かっこいい』という言葉は『かっこいい』という意味を持ち、
『かっこいい』対象に対して使うものです。
それが言葉の真理です。

でも少なからぬ人は、ださくてけなしたい相手に対し、
『かっこいい』と言います。
言葉の意味は『かっこいい』なのに、
発言者独自の意味は『ださい』です。
言葉自体が持つ意味と、そこで表現されている意味は乖離させられてしまっています。

ギフテッドの人は、言葉の真理を見るので、
言葉そのものの意味だけを読み、話し手が勝手に与えた意味を読み取れないか、
もしくは読み取った上で言葉がないがしろにされていることに対して怒ります。

ギフテッドの人が求めるのは、
『なにかをおいしいと思うなら【まずい】と言わずに【おいしい】と言え』
『なにかがださいと思うなら【かっこいい】と言わずに【ださい】と言え』
『他人の陰で悪口を言うのなら、直接本人に言って本人が改善できるようにしろ』
『近くに来たときに寄って欲しくないなら、【近くに来たら寄ってください】と言うな』
『【最低】【最悪】でもないなら、【最低】【最悪】と言うな』
と言ったような、言葉が言葉のまま、真理の意味で使われることです。
その意味で、ギフテッドの人は基本的に裏表がなく、とても合理的なのです。

ギフテッドの人が怒るとき、それはたいていが、
『正しく扱われるべきものが、正しく扱われていないとき』です。
これがわからなければ、ギフテッドを理解することは無理です。

ギフテッドが感じる世界の姿、
ギフテッドが世界を見る視点のおもしろさは、
おそらくギフテッド同士でしか理解できません。
普通の人なら、『どうでもいい』とか『気にするな』とかで
流してしまうような概念だからです。

たとえば
『1+1=2 は本当は、1+1=2じゃないかもしれない』とか
『普段どうやってか動いている時計が動かなくなるのは、
普段と違ってどこかがどうにかなってるんだ』とかを他人に言われたとして、
あなたはそれを『おもしろい!』と思えますか?
『どういうことかもっと詳しく話して!』と興味を持って聞けず、
『そんなわけないじゃない』とか『あたりまえだ』とか
『どうでもいい』とか『意味がわからない』とかと思うのならば、
ギフテッドを理解することはできません。
ギフテッドであったとしても、分野が違えばそう思ってしまうでしょうから、
非ギフテッドの人なら、ほとんどがそうでしょう。

そのため、たいていのギフテッドは、
『自分は理解されない』というさみしさを常に抱えています。
恋人が自分を理解してくれた、と感じたときの嬉しさを考えれば、
誰からも理解されない、と感じ続けるときの苦痛はわかるでしょうか。

でも結局は、真理を求めてやまない性質も、
他人からは理解されにくいという性質も、
ギフテッドの特徴、『真理の目』によるものです。

というところでわたしは、ギフテッドの一番の本質であり特徴でもあるのは、
『真理の目』だと考えます。

最後に『真理の目』を簡単にまとめ直せば、
・『あたりまえ』という虚飾を取り払い、裏にある真実を見る、見ようとする目。
・(非専門分野のギフテッド、もしくは非ギフテッドにとっては)
 まったく関係ないように思える物同士の関連性を見出し、つなげられる目。
です。
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