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遊里跡の探訪録など。
ブログの日時は、行動日・撮影日に合わせております。

豊川稲荷社

2013年06月29日 18時30分00秒 | ◆甲信越
花街と密接に関わっていた神社。遊里との関係は不明。




「下諏訪料藝組合」と刻まれている。
「料藝」は、料理屋と芸妓置屋、つまり二業を意味するのだろうか。

 
カフェーの屋号が記されている。これはめずらしい。


手水石に「下諏訪料理家組合」とある。料藝組合とは異なる組織なのだろうか。
あるいは料藝組合の前身なのかもしれない。



 
石灯籠の台座。右に下諏訪藝妓置家とあり、左に屋号が連なっている。

下諏訪

2013年06月29日 18時00分00秒 | ◆甲信越
明治17年、貸座敷数6、娼妓数13
昭和4年、貸座敷数7、娼妓数42

上記のほか、湯田町に芸妓数98、御田町に芸妓20、娼妓27
という昭和初期の記録がある。
湯田町と御田町の間にさほどの距離はない。明確な区分はあったのだろうか。


湯田町の景色。旧中山道の坂道に旅館や銭湯が並んでいる。

 
旅館の傍らに置かれている下諏訪宿の説明書き。
飯盛女について触れられている。

 
松形の装飾窓から漏れる光が玄関を優雅に彩る。



 
三階建ての旅館建築。看板で「下諏訪宿」と謳うのが定番らしい。

 
料理店を思わせる建物。湯田町と御田町のちょうど中間あたりに位置。


塚田町の町並み。旅館と料亭が数軒並んでいる。御田町に近いといえば近い。

飯田 長姫町

2013年06月29日 13時50分00秒 | ◆甲信越
くつわ小路につづく青線候補。
インターネットで調べると、この地域の廃墟群が青線だったと紹介されている。
確かな証拠は得られていないものの、現時点ではこちらのほうが有力だ。

本項では、青線候補の場所だけでなく、長姫町全体を取り上げる。

 
道路側から見ると普通の二階建てだが、反対側から見ると、なんと五階建て。
部屋はいくつあるのだろうか。




青線跡とされている廃屋が低地に残る。
かつては手前の空き地にも同じような建物が集積していたらしい。


近づいてみたものの、崩壊が進んでいるせいか、あまりピンとこない。

 
バーの鑑札が残る物件。
平屋建てに見えるが、反対側に回ると複数層になっているのかもしれない。


錆びついたポール看板に長姫町の文字が見える。


看板をよく観察すると、上書きされた形跡があることに気づく。
下の文字は読み取れそうで読み取れなかった。

飯田 くつわ小路

2013年06月29日 13時30分00秒 | ◆甲信越
飯田といえば二本松だが、そのほか、近くの谷川沿いに青線もあったらしい。
考えられる場所としては二つ候補があり、ここはそのうちの一つ。


傾斜地の中腹を蛇行する小道。右側に石垣、左側に建物を配した独特な景色。

 
小料理店風の建物が連なっている。
小料理・貸席の看板が往時の業種を伝える。

 
引き戸の脇に風俗営業法と食品衛生法の鑑札が残る。


消火器ボックスの側面にくつわ小路と書かれている。
くつわ(轡)は馬具、ここの町名は馬場。馬にゆかりのある土地なのだろうか。

 
ななめに引っ込んだ玄関。桧垣模様に編まれた天井の造作が美しい。


場所柄、水はけには相当気を遣っていると想像される。


地元の人間しか知りえないような立地。青線の可能性は十分あるように思える。
しかし、遊里特有の残り香のようなものは感じられなかった。

飯田 二本松

2013年06月29日 13時00分00秒 | ◆甲信越
昭和4年、貸座敷数10、娼妓数110
廓の入口に二本の松が立っていたことからこの名がついたという。

二本松の名は現在も市の正式な町名として用いらている。
地図で見ると、当時の廓のエリアとぴたりと一致するのではないかと思われる。


付近にあった料理店風の建物。



 
小さな祠が二つ。遊里との関連を示すものは確認できなかった。


この地で松の木を目にすると、これはもしやと期待してしまう。
残念ながらこれは別の木。くだんの松はかなり昔に姿を消してしまったらしい。


クランク状の道路は往時のまま。手前が遊廓側。
中まで入って来ないと廓が見えないようにという、遊里でおなじみの工夫。


真新しいアパートの奥になまこ壁の土蔵があった。


仕出し店といえば遊里につきものの存在。店の歴史が気になる。

新城

2013年06月29日 09時00分00秒 | ◆東海
新栄連と呼ばれる赤線があったらしいが、その歴史や場所などは一切不明。
業者数10、従業婦数23という記録が残っている。

何かないかと新城駅の周辺をさまよう。以下の写真の場所はばらばら。



 
なんということのない小さな橋だが、名前を見てのけぞった。
これは遊里でおなじみのあの橋だろうか。
ひょっとしたらと思い、対になる「思案橋」を探すも、そちらは見あたらず。




親子格子の建物。腰のストライプがいい。

 
新栄連という名は、「新城市」「栄町」の頭字を合成したものかもしれない。
栄町という地名はないが、通称として使われており、同名の交差点やバス停が存在する。
そのあたりを歩いてみたものの、収穫なし。


二階の軒下に雀荘の看板が残っている。


地震と寝台列車

2013年06月08日 20時30分00秒 | 日記・雑記
16時17分ごろと20時39分ごろ、和歌山県北部で震度4の地震が連続して発生。
その影響で、電車の運転見合わせや遅延が相次いだ。

乗車していた特急くろしお30号も、徐行や一時停止をくり返す。


21時09分、電車は停車中。二度の地震でJRも慎重になっているようす。
しかしこの調子だと、最終の新幹線に間に合わない。


21時50分ごろ、新大阪駅に到着。予定では19時51分着だった。
帰りの新幹線はすでにない。

調べたところ、寝台特急・サンライズ瀬戸を使って帰る手がある。
問題は、空席があるかどうか。
人気の列車らしいし、地震の影響で飛び込みの利用客が増えていそうだ。
窓口で新幹線料金の払い戻しを受けつつ、空き状況を尋ねる。
「大丈夫、ありますよ」と係員。助かった。

乗車券を購入し、大阪駅へ移動。
いったん駅の外に出て、2時間ほど時間をつぶす。

 
翌0時25分、駅ホームへ。
サンライズ瀬戸に乗るのははじめて。というより寝台列車自体がはじめて。


0時32分、列車到着。鉄道ファンだろうか、外国人が熱心に動画を撮っている。


0時35分、室内へ。狭いながらも快適に過ごせそうだ。

身体は疲れていたが、しばらくの間は眠らず、外を流れる夜景を眺めていた。
ふだん日常的に見られる夜景も、照明を消した車内から見ると、また違った趣がある。


5時41分、まもなく熱海駅。


5時43分、熱海駅下車。

突発的にして人生初の寝台列車だったが、思いのほか気に入った。
今度は計画的に、高松や出雲に遠征するときにでも利用したい。

紀伊田辺の神社三社

2013年06月08日 16時40分00秒 | 寺社・教会
田辺新地のあたりの三つの神社。
どれかしら遊里と関係があるのではないかと期待していたが、物証なし。


恵美須(戎)神社。


恵美須神社。


錦水神社。
田辺城水門跡の近くに所在。治水の神なのかもしれない。


錦水神社。


大黒神社。
田辺新地内にあるので、もっとも期待していたが。


大黒神社。
真新しい社。改築前には何かあったかもしれないと妄想。

田辺 新地

2013年06月08日 15時30分00秒 | ◆近畿
大正期に花街が形成。
戦後は青線が存在したそうだが、花街と混在していたのか、独立していたのかは不明。

 
街のあちこちで新地の名を目にすることができる。
とりわけぼんぼり型の街灯は、ほかの地域ではあまり例を見ない風流なものだ。

 
現役の料亭。だいぶリフォームされているが、ひょっとしたら当時の建物かもしれない。

 
二戸一棟の建物。左手の入口に料理屋の鑑札が残っている。


手入れの行き届いた物件。庭木とのバランスが美しい。



 
照明カバーに屋号が書かれている。料理屋のプレートも健在。


新地への入口には、つい先日まで、「田辺新地」と大書きされた電飾ゲートが
設置されていた。
10年以上この地を照らしつづけたゲートは、4月22日夜の火災により全焼。
写真は、火災から一か月半後の様子。周囲の更地が火災の規模を物語っている。
ゲートの痕跡は、アスファルトにポールの根元を残すのみだった。

湯浅 新地

2013年06月08日 13時00分00秒 | ◆近畿
昭和2年、紀伊湯浅駅(現・湯浅駅)の設置をきっかけに繁栄。


電柱のプレートに新地とある。



 
[左]看板建築と和風建築が合体した奇妙な建物。巨大な石灯籠も目を引く。
[右]料亭を思わせる玄関。料理屋の鑑札が貼られていた。

 
ゆるやかなカーブが印象的な入口まわり。ドアの上にはカフェーの鑑札が。


二階を覆う大きな雨戸が特色。壁の色も見のがせない。

 
玄関戸に彫られた「古里」の文字。往時の屋号だろうか。


レンガ造りの塀と門が味わい深い銭湯。
中には、番号がわりに当時の芸妓の名が記された木製ロッカーがあるという。

海南 下津

2013年06月08日 12時00分00秒 | ◆近畿
由来不明の青線。
青線の定義・位置づけは、各地各様で定まらず、非常にあいまいなものだが、
和歌山県では青線という扱いだった。

旧遊里の所在地がわからないため、あてもなく駅の周辺をうろうろ。






廃ホテル。立派な建物だ。昔は需要があったのだろう。

 
旅館と民宿。
ホテルが廃業したとはいえ、いまも宿泊施設は多い印象。

 
玄関の欄間の装飾が目を引く。長押には料理屋の鑑札が。


歴史を感じさせる旅館。

駅周辺はあまりピンと来なかった。
遊里はもっと別の場所にあったのかもしれない。

海南 西

2013年06月08日 10時30分00秒 | ◆近畿
「黒江新地」「船尾新地」「東浜新地」と、じつに別称の多い遊里。
「名草新地」という名前も、このあたりに存在した遊里として挙げられるが、
同じ遊里なのか別の遊里なのかは、資料が乏しく、確証が得られていない。


黒壁が落ち着きを感じさせる長屋建築。



 
住宅のようなたたずまいの旅館。来歴が気になる。


飲み屋が連なる通り。

 
鉄平石が腰と巾木部分で異なる使われ方をしている。
出格子との調和も見事。


外観を眺めるだけで相当な規模であることがうかがえる。
間取りはどうなっているのだろう。

 
玄関上の装飾がおもしろい。彫り抜きは桔梗の図案だろうか。