明治17年、貸座敷数6、娼妓数13
昭和4年、貸座敷数7、娼妓数42
上記のほか、湯田町に芸妓数98、御田町に芸妓20、娼妓27
という昭和初期の記録がある。
湯田町と御田町の間にさほどの距離はない。明確な区分はあったのだろうか。
湯田町の景色。旧中山道の坂道に旅館や銭湯が並んでいる。
旅館の傍らに置かれている下諏訪宿の説明書き。
飯盛女について触れられている。
松形の装飾窓から漏れる光が玄関を優雅に彩る。
三階建ての旅館建築。看板で「下諏訪宿」と謳うのが定番らしい。
料理店を思わせる建物。湯田町と御田町のちょうど中間あたりに位置。
塚田町の町並み。旅館と料亭が数軒並んでいる。御田町に近いといえば近い。
昭和4年、貸座敷数7、娼妓数42
上記のほか、湯田町に芸妓数98、御田町に芸妓20、娼妓27
という昭和初期の記録がある。
湯田町と御田町の間にさほどの距離はない。明確な区分はあったのだろうか。
湯田町の景色。旧中山道の坂道に旅館や銭湯が並んでいる。
旅館の傍らに置かれている下諏訪宿の説明書き。
飯盛女について触れられている。
松形の装飾窓から漏れる光が玄関を優雅に彩る。
三階建ての旅館建築。看板で「下諏訪宿」と謳うのが定番らしい。
料理店を思わせる建物。湯田町と御田町のちょうど中間あたりに位置。
塚田町の町並み。旅館と料亭が数軒並んでいる。御田町に近いといえば近い。
くつわ小路につづく青線候補。
インターネットで調べると、この地域の廃墟群が青線だったと紹介されている。
確かな証拠は得られていないものの、現時点ではこちらのほうが有力だ。
本項では、青線候補の場所だけでなく、長姫町全体を取り上げる。
道路側から見ると普通の二階建てだが、反対側から見ると、なんと五階建て。
部屋はいくつあるのだろうか。
青線跡とされている廃屋が低地に残る。
かつては手前の空き地にも同じような建物が集積していたらしい。
近づいてみたものの、崩壊が進んでいるせいか、あまりピンとこない。
バーの鑑札が残る物件。
平屋建てに見えるが、反対側に回ると複数層になっているのかもしれない。
錆びついたポール看板に長姫町の文字が見える。
看板をよく観察すると、上書きされた形跡があることに気づく。
下の文字は読み取れそうで読み取れなかった。
インターネットで調べると、この地域の廃墟群が青線だったと紹介されている。
確かな証拠は得られていないものの、現時点ではこちらのほうが有力だ。
本項では、青線候補の場所だけでなく、長姫町全体を取り上げる。
道路側から見ると普通の二階建てだが、反対側から見ると、なんと五階建て。
部屋はいくつあるのだろうか。
青線跡とされている廃屋が低地に残る。
かつては手前の空き地にも同じような建物が集積していたらしい。
近づいてみたものの、崩壊が進んでいるせいか、あまりピンとこない。
バーの鑑札が残る物件。
平屋建てに見えるが、反対側に回ると複数層になっているのかもしれない。
錆びついたポール看板に長姫町の文字が見える。
看板をよく観察すると、上書きされた形跡があることに気づく。
下の文字は読み取れそうで読み取れなかった。
飯田といえば二本松だが、そのほか、近くの谷川沿いに青線もあったらしい。
考えられる場所としては二つ候補があり、ここはそのうちの一つ。
傾斜地の中腹を蛇行する小道。右側に石垣、左側に建物を配した独特な景色。
小料理店風の建物が連なっている。
小料理・貸席の看板が往時の業種を伝える。
引き戸の脇に風俗営業法と食品衛生法の鑑札が残る。
消火器ボックスの側面にくつわ小路と書かれている。
くつわ(轡)は馬具、ここの町名は馬場。馬にゆかりのある土地なのだろうか。
ななめに引っ込んだ玄関。桧垣模様に編まれた天井の造作が美しい。
場所柄、水はけには相当気を遣っていると想像される。
地元の人間しか知りえないような立地。青線の可能性は十分あるように思える。
しかし、遊里特有の残り香のようなものは感じられなかった。
考えられる場所としては二つ候補があり、ここはそのうちの一つ。
傾斜地の中腹を蛇行する小道。右側に石垣、左側に建物を配した独特な景色。
小料理店風の建物が連なっている。
小料理・貸席の看板が往時の業種を伝える。
引き戸の脇に風俗営業法と食品衛生法の鑑札が残る。
消火器ボックスの側面にくつわ小路と書かれている。
くつわ(轡)は馬具、ここの町名は馬場。馬にゆかりのある土地なのだろうか。
ななめに引っ込んだ玄関。桧垣模様に編まれた天井の造作が美しい。
場所柄、水はけには相当気を遣っていると想像される。
地元の人間しか知りえないような立地。青線の可能性は十分あるように思える。
しかし、遊里特有の残り香のようなものは感じられなかった。
昭和4年、貸座敷数10、娼妓数110
廓の入口に二本の松が立っていたことからこの名がついたという。
二本松の名は現在も市の正式な町名として用いらている。
地図で見ると、当時の廓のエリアとぴたりと一致するのではないかと思われる。
付近にあった料理店風の建物。
小さな祠が二つ。遊里との関連を示すものは確認できなかった。
この地で松の木を目にすると、これはもしやと期待してしまう。
残念ながらこれは別の木。くだんの松はかなり昔に姿を消してしまったらしい。
クランク状の道路は往時のまま。手前が遊廓側。
中まで入って来ないと廓が見えないようにという、遊里でおなじみの工夫。
真新しいアパートの奥になまこ壁の土蔵があった。
仕出し店といえば遊里につきものの存在。店の歴史が気になる。
廓の入口に二本の松が立っていたことからこの名がついたという。
二本松の名は現在も市の正式な町名として用いらている。
地図で見ると、当時の廓のエリアとぴたりと一致するのではないかと思われる。
付近にあった料理店風の建物。
小さな祠が二つ。遊里との関連を示すものは確認できなかった。
この地で松の木を目にすると、これはもしやと期待してしまう。
残念ながらこれは別の木。くだんの松はかなり昔に姿を消してしまったらしい。
クランク状の道路は往時のまま。手前が遊廓側。
中まで入って来ないと廓が見えないようにという、遊里でおなじみの工夫。
真新しいアパートの奥になまこ壁の土蔵があった。
仕出し店といえば遊里につきものの存在。店の歴史が気になる。
新栄連と呼ばれる赤線があったらしいが、その歴史や場所などは一切不明。
業者数10、従業婦数23という記録が残っている。
何かないかと新城駅の周辺をさまよう。以下の写真の場所はばらばら。
なんということのない小さな橋だが、名前を見てのけぞった。
これは遊里でおなじみのあの橋だろうか。
ひょっとしたらと思い、対になる「思案橋」を探すも、そちらは見あたらず。
親子格子の建物。腰のストライプがいい。
新栄連という名は、「新城市」「栄町」の頭字を合成したものかもしれない。
栄町という地名はないが、通称として使われており、同名の交差点やバス停が存在する。
そのあたりを歩いてみたものの、収穫なし。
二階の軒下に雀荘の看板が残っている。
業者数10、従業婦数23という記録が残っている。
何かないかと新城駅の周辺をさまよう。以下の写真の場所はばらばら。
なんということのない小さな橋だが、名前を見てのけぞった。
これは遊里でおなじみのあの橋だろうか。
ひょっとしたらと思い、対になる「思案橋」を探すも、そちらは見あたらず。
親子格子の建物。腰のストライプがいい。
新栄連という名は、「新城市」「栄町」の頭字を合成したものかもしれない。
栄町という地名はないが、通称として使われており、同名の交差点やバス停が存在する。
そのあたりを歩いてみたものの、収穫なし。
二階の軒下に雀荘の看板が残っている。
16時17分ごろと20時39分ごろ、和歌山県北部で震度4の地震が連続して発生。
その影響で、電車の運転見合わせや遅延が相次いだ。
乗車していた特急くろしお30号も、徐行や一時停止をくり返す。
21時09分、電車は停車中。二度の地震でJRも慎重になっているようす。
しかしこの調子だと、最終の新幹線に間に合わない。
21時50分ごろ、新大阪駅に到着。予定では19時51分着だった。
帰りの新幹線はすでにない。
調べたところ、寝台特急・サンライズ瀬戸を使って帰る手がある。
問題は、空席があるかどうか。
人気の列車らしいし、地震の影響で飛び込みの利用客が増えていそうだ。
窓口で新幹線料金の払い戻しを受けつつ、空き状況を尋ねる。
「大丈夫、ありますよ」と係員。助かった。
乗車券を購入し、大阪駅へ移動。
いったん駅の外に出て、2時間ほど時間をつぶす。
翌0時25分、駅ホームへ。
サンライズ瀬戸に乗るのははじめて。というより寝台列車自体がはじめて。
0時32分、列車到着。鉄道ファンだろうか、外国人が熱心に動画を撮っている。
0時35分、室内へ。狭いながらも快適に過ごせそうだ。
身体は疲れていたが、しばらくの間は眠らず、外を流れる夜景を眺めていた。
ふだん日常的に見られる夜景も、照明を消した車内から見ると、また違った趣がある。
5時41分、まもなく熱海駅。
5時43分、熱海駅下車。
突発的にして人生初の寝台列車だったが、思いのほか気に入った。
今度は計画的に、高松や出雲に遠征するときにでも利用したい。
その影響で、電車の運転見合わせや遅延が相次いだ。
乗車していた特急くろしお30号も、徐行や一時停止をくり返す。
21時09分、電車は停車中。二度の地震でJRも慎重になっているようす。
しかしこの調子だと、最終の新幹線に間に合わない。
21時50分ごろ、新大阪駅に到着。予定では19時51分着だった。
帰りの新幹線はすでにない。
調べたところ、寝台特急・サンライズ瀬戸を使って帰る手がある。
問題は、空席があるかどうか。
人気の列車らしいし、地震の影響で飛び込みの利用客が増えていそうだ。
窓口で新幹線料金の払い戻しを受けつつ、空き状況を尋ねる。
「大丈夫、ありますよ」と係員。助かった。
乗車券を購入し、大阪駅へ移動。
いったん駅の外に出て、2時間ほど時間をつぶす。
翌0時25分、駅ホームへ。
サンライズ瀬戸に乗るのははじめて。というより寝台列車自体がはじめて。
0時32分、列車到着。鉄道ファンだろうか、外国人が熱心に動画を撮っている。
0時35分、室内へ。狭いながらも快適に過ごせそうだ。
身体は疲れていたが、しばらくの間は眠らず、外を流れる夜景を眺めていた。
ふだん日常的に見られる夜景も、照明を消した車内から見ると、また違った趣がある。
5時41分、まもなく熱海駅。
5時43分、熱海駅下車。
突発的にして人生初の寝台列車だったが、思いのほか気に入った。
今度は計画的に、高松や出雲に遠征するときにでも利用したい。
大正期に花街が形成。
戦後は青線が存在したそうだが、花街と混在していたのか、独立していたのかは不明。
街のあちこちで新地の名を目にすることができる。
とりわけぼんぼり型の街灯は、ほかの地域ではあまり例を見ない風流なものだ。
現役の料亭。だいぶリフォームされているが、ひょっとしたら当時の建物かもしれない。
二戸一棟の建物。左手の入口に料理屋の鑑札が残っている。
手入れの行き届いた物件。庭木とのバランスが美しい。
照明カバーに屋号が書かれている。料理屋のプレートも健在。
新地への入口には、つい先日まで、「田辺新地」と大書きされた電飾ゲートが
設置されていた。
10年以上この地を照らしつづけたゲートは、4月22日夜の火災により全焼。
写真は、火災から一か月半後の様子。周囲の更地が火災の規模を物語っている。
ゲートの痕跡は、アスファルトにポールの根元を残すのみだった。
戦後は青線が存在したそうだが、花街と混在していたのか、独立していたのかは不明。
街のあちこちで新地の名を目にすることができる。
とりわけぼんぼり型の街灯は、ほかの地域ではあまり例を見ない風流なものだ。
現役の料亭。だいぶリフォームされているが、ひょっとしたら当時の建物かもしれない。
二戸一棟の建物。左手の入口に料理屋の鑑札が残っている。
手入れの行き届いた物件。庭木とのバランスが美しい。
照明カバーに屋号が書かれている。料理屋のプレートも健在。
新地への入口には、つい先日まで、「田辺新地」と大書きされた電飾ゲートが
設置されていた。
10年以上この地を照らしつづけたゲートは、4月22日夜の火災により全焼。
写真は、火災から一か月半後の様子。周囲の更地が火災の規模を物語っている。
ゲートの痕跡は、アスファルトにポールの根元を残すのみだった。