「ふあー。濡れちゃったね」
やっと電車に乗り込んで、あたしは気の抜けた声を出す。
傘を忘れた帰り道、ようやく一息ついた。
「寒くない?」
「大丈夫。ありがとう」
左腕についた雫をぱんぱんと払いながら答える。
水無月くんはそんなあたしを見つめながら、何やら意味深な表情を浮かべて、それを隠すように窓の外を眺めだした。
けれどそれも束の間、今度は我慢できなくなったようにくすくすと笑い始める。
「な…なに?」
あたしはにわかにドキドキしだす。
何かおかしいかな。
「……変なの」
短い言葉が胸にぐさっと突き刺さる。
しっ…失礼な!
「水無月くんだって濡れてるじゃない」
あたしは猛然と異論を唱える。
でも水無月くんは笑うのをやめない。
――違う違う、と言う。
「そういう意味じゃないんだけど。でも、笑ってごめん」
それきり何も言ってくれないので、訳がわからない。
「髪だけでも拭けば?」
そう言って水無月くんは、鞄からハンドタオルを出す。
乾いた布を見るだけであたしは嬉しくなる。
あ、もう、どうでもいいや。
ふわふわのタオルで濡れた髪を挟むと、一気に脱力してしまう。
窓の外では、田んぼの稲が気持ち良さそうに雨を浴びている。
ゆかいな景色だ。
ずっと雨のまま、このままどこまでも行けたら。
センチメンタルに思ってみたりして――。
そんな夢はもちろん叶う訳もなくて、電車は駅に着いて、また、家までの雨道を歩き始める。
ざじゃ――っ、と自動車がはねる水をよけるために、二人で道路脇に固まる。
それはペンギンのようだとあたしは思う。
いつかテレビの自然番組で見たのだけど、ペンギンの雛は外敵から身を守るために、みんなで一箇所に固まるのだ。
「気をつけて」
「うん。何とか大丈夫」
さっきのセリフを、もう何度も頭の中で繰り返している。
『ぼくは男だから』ってやつだ。
よかった。水無月くんの前で、あたしはちゃんと"女の子"だったらしい。
雨なのに、依然として足どりは軽い。
「本当は絵の具を買うつもりだった」と水無月くんが打ち明けたのは、コンビニの角も過ぎた最後の一本道でのことだった。
その画材屋さんは、学校から駅までの間を少し遠回りする所にあって、古いけど趣があって、品揃えも豊富で、いつ行っても楽しいんだとか。
それを聞いて、あたしは気づく。
「今日買いに行けなかったのって、あたしのせい?」
突然、申し訳ない気持ちに襲われる。
そんな予定があったなら、変更してまで傘に入れてくれる必要なんてなかったのに。
水無月くんは頭を掻いて、困った顔をする。
しばらく悩んでから次の言葉が出てくる。
「それは違うよ」
否定の言葉だった。
「原因は橋本さんだけど、橋本さんの"せい"じゃない」
んっと……、あたしはバカだからすぐにはわからないよ。
頭の中でゆっくり噛みくだいて、それが嬉しい返答だったと気付く。
「本当?」
「本当だよ」
救われたような気持ちになって、同時に、あることを閃いた。
そしてその閃きは、落ち着いて吟味されることもなく、とっさに口を衝いた。
「じゃあ今度一緒に買いに行こう。あたしも付き合うよ。
ちょうどほかに買いたい物もあるし。一人で行くより楽しいでしょ?」
優しさに甘える気持ちがあったかもしれない。
チャンスだと思ったかもしれない。
だけど、めちゃくちゃな誘い文句に水無月くんも困惑している。
しばらく流れた沈黙に、あたしは逃げ出したい気持ちになった。
「それは『今日のお詫びに』って意味なの?」
「……それもあるよ」
あたしは何を期待していたのだろう。
「だったらいいよ。一緒に行こう」
あたしは水無月くんから承諾の返事が聞けることを期待していただろうか。
『そんな。いいよ。一人で行ける』
いつもの水無月くんならそう言うだろうと思っていたあたしは、思いがけない返事に、喜ぶより先に萎縮してしまった。
風がどんどん冷たくて、汗をかいた手の平をそっと開くと、涼しさを感じる。
確かなのは、この"好き"という感情だ。
風変わりなところも、そっけないところも、無駄に紳士なところも、優しいところも、全部好き。
あたしはそこに何を足せるだろう。
足せるのは、あたしなのだろうか。
難しいことを考えても答えは出ない。
家について、傘から軒下へ飛び移る。
「送ってくれてありがとう」
「うん。また明日」
ぺこんと頭を下げてから、グレーの傘はむこうを向いた。
一時間にも満たない間に色んなことがあって、今、どうしていいかわからない。
庭にできた大きな水たまりを、雨がにぎやかに叩く。
ぐちゃぐちゃで何も映さない水面は、今のあたしの心に似ている。
「やっばあ……」
人生で初めてのデートが決まったのは、雨の日、学校からの帰り道でのことだった。
NEXT INDEX
やっと電車に乗り込んで、あたしは気の抜けた声を出す。
傘を忘れた帰り道、ようやく一息ついた。
「寒くない?」
「大丈夫。ありがとう」
左腕についた雫をぱんぱんと払いながら答える。
水無月くんはそんなあたしを見つめながら、何やら意味深な表情を浮かべて、それを隠すように窓の外を眺めだした。
けれどそれも束の間、今度は我慢できなくなったようにくすくすと笑い始める。
「な…なに?」
あたしはにわかにドキドキしだす。
何かおかしいかな。
「……変なの」
短い言葉が胸にぐさっと突き刺さる。
しっ…失礼な!
「水無月くんだって濡れてるじゃない」
あたしは猛然と異論を唱える。
でも水無月くんは笑うのをやめない。
――違う違う、と言う。
「そういう意味じゃないんだけど。でも、笑ってごめん」
それきり何も言ってくれないので、訳がわからない。
「髪だけでも拭けば?」
そう言って水無月くんは、鞄からハンドタオルを出す。
乾いた布を見るだけであたしは嬉しくなる。
あ、もう、どうでもいいや。
ふわふわのタオルで濡れた髪を挟むと、一気に脱力してしまう。
窓の外では、田んぼの稲が気持ち良さそうに雨を浴びている。
ゆかいな景色だ。
ずっと雨のまま、このままどこまでも行けたら。
センチメンタルに思ってみたりして――。
そんな夢はもちろん叶う訳もなくて、電車は駅に着いて、また、家までの雨道を歩き始める。
ざじゃ――っ、と自動車がはねる水をよけるために、二人で道路脇に固まる。
それはペンギンのようだとあたしは思う。
いつかテレビの自然番組で見たのだけど、ペンギンの雛は外敵から身を守るために、みんなで一箇所に固まるのだ。
「気をつけて」
「うん。何とか大丈夫」
さっきのセリフを、もう何度も頭の中で繰り返している。
『ぼくは男だから』ってやつだ。
よかった。水無月くんの前で、あたしはちゃんと"女の子"だったらしい。
雨なのに、依然として足どりは軽い。
「本当は絵の具を買うつもりだった」と水無月くんが打ち明けたのは、コンビニの角も過ぎた最後の一本道でのことだった。
その画材屋さんは、学校から駅までの間を少し遠回りする所にあって、古いけど趣があって、品揃えも豊富で、いつ行っても楽しいんだとか。
それを聞いて、あたしは気づく。
「今日買いに行けなかったのって、あたしのせい?」
突然、申し訳ない気持ちに襲われる。
そんな予定があったなら、変更してまで傘に入れてくれる必要なんてなかったのに。
水無月くんは頭を掻いて、困った顔をする。
しばらく悩んでから次の言葉が出てくる。
「それは違うよ」
否定の言葉だった。
「原因は橋本さんだけど、橋本さんの"せい"じゃない」
んっと……、あたしはバカだからすぐにはわからないよ。
頭の中でゆっくり噛みくだいて、それが嬉しい返答だったと気付く。
「本当?」
「本当だよ」
救われたような気持ちになって、同時に、あることを閃いた。
そしてその閃きは、落ち着いて吟味されることもなく、とっさに口を衝いた。
「じゃあ今度一緒に買いに行こう。あたしも付き合うよ。
ちょうどほかに買いたい物もあるし。一人で行くより楽しいでしょ?」
優しさに甘える気持ちがあったかもしれない。
チャンスだと思ったかもしれない。
だけど、めちゃくちゃな誘い文句に水無月くんも困惑している。
しばらく流れた沈黙に、あたしは逃げ出したい気持ちになった。
「それは『今日のお詫びに』って意味なの?」
「……それもあるよ」
あたしは何を期待していたのだろう。
「だったらいいよ。一緒に行こう」
あたしは水無月くんから承諾の返事が聞けることを期待していただろうか。
『そんな。いいよ。一人で行ける』
いつもの水無月くんならそう言うだろうと思っていたあたしは、思いがけない返事に、喜ぶより先に萎縮してしまった。
風がどんどん冷たくて、汗をかいた手の平をそっと開くと、涼しさを感じる。
確かなのは、この"好き"という感情だ。
風変わりなところも、そっけないところも、無駄に紳士なところも、優しいところも、全部好き。
あたしはそこに何を足せるだろう。
足せるのは、あたしなのだろうか。
難しいことを考えても答えは出ない。
家について、傘から軒下へ飛び移る。
「送ってくれてありがとう」
「うん。また明日」
ぺこんと頭を下げてから、グレーの傘はむこうを向いた。
一時間にも満たない間に色んなことがあって、今、どうしていいかわからない。
庭にできた大きな水たまりを、雨がにぎやかに叩く。
ぐちゃぐちゃで何も映さない水面は、今のあたしの心に似ている。
「やっばあ……」
人生で初めてのデートが決まったのは、雨の日、学校からの帰り道でのことだった。
NEXT INDEX










