南華密教ブログ (なんげみっきょうぶろぐ)

南華密教を根幹に据え、風水をはじめとする中国五術、中国思想全般について、掛川掌瑛が語ります。

『般若心経は間違い?』の間違い (三)

2017年06月09日 | 仏教
『般若心経は間違い?』の間違い (三)



  
 『般若心経は間違い?』の間違い(二)をお読みのかたは、もうお気づきのことと思います。「観自在菩薩がサーリプッタ尊者に上から目線で教えてやったという話」は確かにどこにも書かれてはいないのですが、「照見」というたった二文字で、見事にそのニュアンスを表現しております。
 日本の『般若心経』解説書は、観音菩薩のほうが人間のサーリプッタよりは偉いはずだ、と何となく思っているだけですが、玄奘三蔵たちの仕掛けは、もっと確信犯的なものかも知れません。

 菩薩と阿羅漢とどちらが偉いか、昔から大乗と部派の間で争われてきたようですが、現代に生きる我々から見ると、全くどうでもよいことであり、仏教の魅力を失わせるだけのつまらない話です。
 
 
 スマナサーラ氏にとって、「空」とは「増えたり減ったり」することのようです。

 「色」は「肉体」と言いますが、我々の定義では「あらゆる存在と現象」であり、もっと厳密には「肉体を通じて感知しうるあらゆる存在と現象」ということになります。
 確かに「肉体」も「色」には違いありませんが、「肉体=色」とは言えません。
 「色」と「肉体」の関係をスマナサーラ長老式に言うなら、「肉体」は「色」であるが、すべての「色」が「肉体」とは限らない、ということになります。

 中村元さんの訳では、「色」とは「物質的現象」(岩波文庫『般若心経 金剛般若経』P11)とされており、それも間違いとは言いませんが、ある現象(存在)が「物質的現象」であるか、非物質的現象(心霊現象?)であるかは、観る(感じる)人の主観に関わることであり、自分の「肉体」も含めた、あらゆる「物質的現象」とは「物質的と感じられる現象」でしかありません。
 「物質的現象には実体がない」というのは、そのような意味であり、そうでないと、「物質的現象には実体がある」ことになってしまいます。
 
 「受」というのは「感受」のことであり、「感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)」という機能により、情報を取り入れることを言います。

 「想」というのは「表象」と訳されるように(岩波文庫『般若心経 金剛般若経』P11)、「受」によって取り入れた情報によって形成される「イメージ」のことです。
 スマナサーラ氏は「想」を「概念」であるとしています。しかし、「概念」とは、幻想、思想、理念などを意味する用語であり、「言語」によって表現されるという特徴があります。
 しかし、「想」とは、もっと生の未分化な「イメージ」であり、必ずしも「言語」で表現できるものとは言えません。
 
 「行」とは、「形成」のことであり、「意志」と訳されるように(同上)、情報によって「イメージ」が作られた後、何らかの行動をする、または、しない、という、「意思決定」や「意志形成」が働きます。

 「識」とは、「意識」のことであり、「知識」と訳されるように(同上)、あらゆる「思考」や「言行」の記録です。


 すると、「受」によって取り入れた「想」によって「行」が形成され、それが記録されて「識」となることが分かります。

 生まれたばかりの赤ん坊は、まだ「かゆい」とか「掻く」と言うような「概念」を持っていませんが、皮膚に何らかの刺激があったという情報を得て(受)、まだ言葉にはできませんが「かゆい」というイメージ(想)を持ち、やがて、かゆいところを「掻く」という行動を起こそうとするようになります(行)、このことは赤ん坊なりに意識に記録され(識)、やがて言葉を理解するようになると「かゆい」とか「掻く」という「概念」を持てるようになります。
 「言語」には「肉体言語」なども含まれますから、「かゆい」という言葉を知らなくても、「掻く」動作をすることで「かゆい」という自分の「イメージ」を他人に伝えることができます。このように言語化された「イメージ」を「概念」と言います。

 いったん「識」が貯えられますと、今度は「識」がイメージ(想)を作ったり、意思決定(行)を左右するようになります。
 例えば、同じ石を見ても、持っている知識によって、ただの石ころにしか見えないから放っておいたり、素晴らしい価値のある石だからと持って帰ろうとしたりします。
 また、思い込みで、冷たいものなのに触って熱いと感じたり、根元から切断した足の指先が痒かったり、というようなことが起こります。

 以上、「受想行識」についてのスマナサーラ氏の定義とはずいぶん違っていますが、もともと「受想行識」という用語は中医学から出たものであり、(『般若心経』−漢訳とサンスクリットの違い”参照)サンスクリットの『般若心経』ではどうか分かりませんが、漢訳『般若心経』に関する限りは、どうしても我々のような定義で読まなければなりません。

 サンスクリットでの解釈についても、中村元さんの訳語(岩波文庫『般若心経 金剛般若経』P11)とスマナサーラ長老の定義は、必ずしも一致しておらず、果たしてどちらが正しいかといっても、我々には到底分かりません。



 そもそも「色」を「肉体」と定義することが『般若心経』の文脈とは合致しないので、引用後半の部分のような「勘違い」はしようがありません。
 また、『般若心経』が「色」だけを特別に扱うのは合理的な理由があり、「色即是空」の一句だけで、「空」論のすべてを理解した、という「呪文」の役割を負わせているのです。
 
 既述のように、「色即是空」の「色」とは、「肉体を通じて感知しうるあらゆる存在と現象」、と定義できます。

 人がある現象や存在を感知するのは、まず最初に感覚(受)であり、見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたりして、得られた情報から、イメージ(想)が作られます。そのイメージから、それが何か、良いか、悪いか、甘いか、辛いか、食べるか、逃げるか、などの判断(意思決定=行)がなされます。
 これらの思考や行動は、意識(識)に記録され、今度は意識が情報になってイメージの形成や意思決定にも影響を与えるようになり、それらを総合して、その現象や存在が何であり、自分がそれに対してどのように行動するかを決定するようになります。そのような意志決定は、少しでも情報が変化するたびに何度でも行われます。

 すると、人間がある存在や現象(色)を認識するまでには、「受想行識」が重層的に働いており、「受想行識」がなければ「色」を認識することができません。
 つまり、「色」とは「受想行識」と同じこととも言えるし、「あらゆる存在や現象」の総称と言うことができます。 

 「色即是空」の「空」とは「関係」のことであり、「前後的因果関係」と「同時的相互関係」のどちらか、または両方に当てはまるものを言います。
 人間にとって、ある存在や現象が何であるかは「受想行識」によって決まります。このとき「受想行識」の働きは、その存在や現象との「関係」によってそれが何であるかを決定します。

 例えば、目の前に一人の女性がいるとします。その女性が自分の妻であると認識するためには、その女性は確かに女性である、とか、自分が男性である、とか、自分は女性だが同性愛である、とか、何年前に婚姻届を出した、とか、何年も夫婦として同居しているとか、二人の間に子供がいる、とか、すべて「関係」によってそのように認識できるものです。
 もし「関係」抜きに考えると、目の前にいるのが妻かどうか分からないし、女性かどうかも分からないし、一人かどうかも分からないし、人間かどうかも分からないし、本当にそこにいるのか、三次元画像かどうかも分かりません。
 
 このように「存在や現象」が「あるか」「何か」などは「関係」によって決まるのであり、「存在や現象=関係」と言い換えることができます。
 「色即是空」とは、「存在や現象=関係」ということであり、
「色即是空」なら当然に「空即是色」という言い方が成り立ちます。「関係」は「受想行識」で決まるものですから、「受想行識即是空、空即是受想行識」ということはできても、「受即是空」「想即是空」「行即是空」「識即是空」などというのは正しくありません。つまり、「受は空である」とは言えても、「空は受である」とは言えないからです。

 「色即是空、空即是色」が「呪文」となりうるのは、この八文字だけで「空」のすべてが表現できるからであり、修行の大きな助けとなります。しかし、「空」を理解していない人が唱えても、たぶん何の効果もありません。



 「リンゴは果物である」というのは、日本語としては問題のない表現ですが、それは日本語の持つ曖昧性に依存するもので、正しく英語にしてみると、必ずしもそうとは言えません。

 Apple is a fruit.
 リンゴは(ある一種類の)果物である。
 
 日本語で「リンゴは果物である」というのは、「リンゴ=果物」なのか「リンゴはある一種類の果物」なのか曖昧なのですが、何となく常識的に、「ある一種類の」というところを省略しても意味が通じてしまいます。
 ところが、「色即是空」というのは「色=空」という意味であり、「色=空」なら当然に「空=色」でなければなりません。
 つまり、「フルーツは果物である」というのが「色即是空」であり、「果物はフルーツである」というのが「空即是色」にあたります。 
 「人は死ぬべきものである」は「人=死ぬもの」という関係ではありませんから「色即是空」にはあてはまりません。
 「生き物とはすべて死ぬものである」なら、「生き物=死ぬもの」であり、「死ぬものはすべて生き物である」と言い換えることができますから、「色即是空、空即是色」と同じ構図と言えます。

 何度も言うように、「色即是空」とは「存在や現象=関係」という意味であり、「空即是色」つまり「関係=存在や現象」と、そのまま転換することができます。

 「色即是空」は「空即是色」と全く同じことであり、「色」と「空」はなんら異なるところがありません。
 「受想行識」もまた「色」と同じであり、「空」とも同じことと言えます。


<次回へ続く>


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