南華密教ブログ (なんげみっきょうぶろぐ)

南華密教を根幹に据え、風水をはじめとする中国五術、中国思想全般について、掛川掌瑛が語ります。

『般若心経』−漢訳とサンスクリットの違い

2017年06月09日 | 仏教
 
 
 般若波羅蜜多心経

(“玄奘本”サンスクリットの邦訳ー中村元・紀野一義)
 求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。

(“玄奘訳”漢訳の邦訳ー張明澄・掛川掌瑛)
 観自在菩薩は深遠なる智慧を実践した時、存在するものの五つの構成要素はただの関係(空)であると明らかにして見せてくださり、求道のすべての苦しみや災難を無くすようにしてくれました。

 観自在菩薩は、求道者にして聖なる観音、とほとんど同じ意味です。
深遠な智慧の完成を実践していたときに、と、深遠なる智慧を実践した時、も別に変わりません。
 しかし、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれらは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった、と言うのと、存在するものの五つの構成要素はただの関係(空)であると明らかにして見せてくださり、とでは、意味がずいぶん違ってきます。
 見きわめた・・・・見抜いた、というのは、観音が自分で修行して初めて見極めて見抜いたのであり、明らかにして見せてくださり(照見)、のほうは、観音はもともと知っていたことを、衆生に対して明らかにして見せてくださった、という意味になりますから、観音の立場が全く違っています。さらに漢訳のほうは、その結果として、求道のすべての苦しみや災難を無くすようにしてくれました。と続けており、サンスクリットよりも漢訳のほうが観音をはるかに偉大なものとして描いていることになります。 

(“玄奘本”サンスクリットの邦訳ー中村元・紀野一義)
シャーリプトラよ、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。
 実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
 (このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。


(“玄奘訳”漢訳の邦訳ー掛川掌瑛)
舎利子よ(感覚で感知できる)存在や現象は、すべて関係(の認識)に他ならないし、関係もまたすべて存在や現象と違わないのだ。存在や現象は関係であり、関係は存在や現象である。

 シャーリプトラというのは釈迦の十大弟子の一人であり、岩波文庫版『般若心経』の巻末にある「大本『般若心経』邦訳」によると、釈迦の瞑想中に、長老が求道者の観音に、「もし立派な若者が深遠な智慧の完成を実践したいと願ったときには、どのように学んだらよいか」とたずねた時に、観音が答えて言ったのが、シャーリプトラよ、〜以下の内容である、ということになっています。
 つまり観音は若き求道者であり、長老の質問に立派に答え、あとで瞑想を終えたお釈迦様が大いに喜んだ、という内容になっています。
 ところが“玄奘本”ではその辺が捨象され、観音がシャーリプトラに教えを垂れているいるかのように、つまり観音をシャーリプトラ長老よりも偉いもの、として描いているわけで、そのように表現している邦訳も存在します。
 これについて、例のスリランカの長老が異議を唱え、「シャープリプトラよ〜」は引用であり、あくまでも、長老のシャーリプトラが若造の観音にした質問に観音が答えたものだ、と主張したのです。(『仏弟子の世間話』60頁〜)
 またスリランカの長老は、邦訳も漢訳もサンスクリットの訳自体は合っていると言っておられるようですから“玄奘訳”の意図どころか“玄奘本”の意図も理解しておられないのでしょう。
もっとも理解すればするほどに『般若心経』=大乗仏教に反対するのでしょうけれど。 
 また、スリランカの長老が、「色即是空」は正しいが「空即是色」は間違い、と発言されたことは前の記事で述べました。  
 
 物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。

 これを漢文で表現しますと「色即是空、因空是色」(色は即ち是れ空、空に因りて是れ色)となり、実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。
 また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。は、「云空不離色、又色非離空為色」(空と云えども色を離れず、又色は空を離れて色と為すに非ず)という風に非常に煩わしい文章になってしまいます。
 ところが、唐の時代には駢文(ヘンブン)という文体があり「色不異空、空不異色。色即是空、空即是色」という風に対句を並べると、非常にすっきりとした文章になります。
 玄奘が、駢文の対句に拘ったのか、翻訳以上の内容に改変したかったのかは、想像するしかありません。
 しかし「色即是空」を「存在や現象(の感知)はすなわち関係(を認識すること)である」と訳せば、色と空は完全にイコールですから、当然「空即是色」も成り立ちます。つまり、A=BならB=Aという関係になります。
 スリランカの長老は、「人間はみんな死ぬ」は正しいが、「死ぬものはみんな人間だよ」は成り立たないから、「空即是色」は間違いだと論じていますが(『仏弟子の世間話』57頁)、それを言うなら、「生物はみな死ぬ」と言うべきです。「死ぬものはみな生物」ですから。

(“玄奘本”サンスクリットの邦訳ー中村元・紀野一義)
 これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。       
(“玄奘訳”漢訳の邦訳ー掛川掌瑛)
これと同じように、感覚による情報の取り入れ、情報によって生ずるイメージ、自分の言動を決定するエネルギー、一生の思考と言動の記録、これらもみな関係(を認識すること)でしかありません。 

 玄奘という人は法相宗ですから「唯識」の大家であり「受・想・行・識」という用語は道教や中医学の「五体論」に基づくもののはずです。
 「五体」とは「識・神・気・精・力」の五つからなり、「識」とは意志や意識、「神」とは感受、「気」とは体の秩序を保つ機能、「精」とは全身のエネルギー、「力」とは筋肉などの物理的な力を意味します。
 五体を五行に分けると「識」は木行で「陽識」が甲、「陰識」が乙、「神」は火行で「陽神」が丙、「陰神」が丁、「気」は金行で「陽気」が庚、「陰気」が辛、「精」は水行で「陽精」が壬、「陰精」が癸、「力」は土行で「陽力」が戊、「陰力」が己、となっております。
 例えば「気功」というのは、「陰神」(丁)で「陽気」(庚)を鍛えて増やし貯えることであり、「小周天」という功法が用いられます。(子平でも、丁と庚の関係を「煉金」と言います)

 もういちど整理しますと、
 「受」は「陽神」で、感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)による情報の取り入れ。
 「想」は「陰神」で、感覚情報によって生ずるイメージ。
 「行」は「陽識」で、自分の言動を決定するエネルギー。
 「識」は「陰識」で、生まれてから今までの思考と言動の記録。

 また法相宗では、「受」を前五識、「想」を第六識(意識)、「行」を第七識(末那識)、「識」を第八識(阿頼耶識)とも言います。  

 “玄奘訳”の「受・想・行・識」には以上のような意味合いが含まれるものと考えられ、サンスクリットからの訳と比べますと、似たような言葉にはなっているものの、内容は必ずしも同じではありません。 

 『般若心経』の「大本」と「小本」は、実際に、どちらが先にあったかは分からないわけですが、玄奘三蔵の時代には、両方あったと考えて間違いはないでしょう。
 つまり玄奘は「小本」だけを選んだのですから、これも一種の編集行為と言えるのではないでしょうか。つまり「大本」もあるよ、とは言わなかったのですから。
 十七年もの歳月と命がけで収集した経典なのですから、学問的成果として、より多くの資料を残すべきなのに、自分の考えに合ったものだけを選び、さらに自分のレベルに合わせた翻訳をして、事実上は経典すべてを玄奘流に書き換えた、というのが私どもの見方です。


補注)道教の「山」(仙道)には、「出陽神」という技法があり、瞑想によって「陽神」つまり「感覚」を体外に出し、遠くにあるものを見てきたり、肉体があるのと違う場所で姿を見せたりすることができます。丁度「生き霊」などと言われるものと同じ現象と考えることができます。



続 『般若心経』-漢訳とサンスクリットの違い
 
(“玄奘本”サンスクリットの邦訳ー中村元・紀野一義)
シャーリプトラよ。
この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。
 生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。

 
(“玄奘訳”漢訳の邦訳ー掛川掌瑛)
シャーリプトラよ、この諸々の存在や現象は(実体のない)関係であるから、関係抜きで生まれたり、関係抜きで滅んだり、関係抜きで汚れたり、関係抜きで清くなったり、関係抜きで増えたり、関係抜きで減ったりすることはないのです。

 つまりここでは、関係(空)に依存しない存在や現象は何もない、と言っているわけですが、漢訳の文章に比べてサンスクリットのほうがあっさりと書かれており、空に依存しない限りそのような現象もない、というところが強調されていません。



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